一、邂逅

一、
 
「てんぐ堂……。ずいぶん懐かしい名前ですね」
 薫子がその誘いを学友の美世子から受けたのは春のある日のことだった。商店が集まる街の一角にある駄菓子屋兼たばこ屋『てんぐ堂』には幼いころこそよく通ったが、高等女学校に通うようになってから三年経った今は足が遠のいていた。
「そうでしょう? なんでもね、最近トミ子さんのお孫さんがお手伝いされているんですって」
 トミ子、というのが店の主人である老女の名だ。薫子たちが幼いころから姿かたちの変わらない彼女は武家の出であり、やや取っつきにくい印象があった。〝おばあちゃん〟などと親しみをこめて呼ぶことは、とてもできそうになく、凛とした老女だ。
「だからね、一度お顔を拝見したいと思っているの。薫ちゃんもどう?」
 特に興味はなかった。誰が働いていようが、商店の価値はその店で扱われる物品によって左右されるというのが薫子の考えだ。しかし、幼いころから親しくしており、今は学友でもある彼女からの誘いを無下にするわけにもいかない。友情の保持と自分の興味を天秤にかけた末、薫子は、
「ではご一緒させてくださる?」
 と誘いを受けることにした。
 薫子の生家は江戸時代から続く商家であり、当時から町一番の大店だった。幸い、代々の主人には商才が受け継がれたようである。明治が過ぎ、大正に差しかかった今でも店は傾くことはなく、それどころか順調に経営がなされていた。そんな商家の次女――実際には姉と兄二人がいるため四番目だが――として生まれた薫子は経済的に不自由な暮らしをしたことはない。裕福な家の子女であるため、注目の的にはなりがちだが、そこは有名税として辛抱がきく範囲だ。
「ところで美世ちゃん、何か買うつもり?」
「え?」
 『てんぐ堂』へ向かう道を歩きながら訊ねると美世子はポッと頬を桃色に淡く染めた。その様子に薫子は首を傾げる。羞恥を感じるような言葉は何一つ口にしていない。
「なんでもね、その方がいらしてからお薬も扱われるようになったそうよ」
「……煎じていらっしゃるということ?」
 薬師なのかしら、と思いながら薫子は美世子に訊ねる。
「詳しくは私も存じませんけど。中でもね、」
 ――惚れ薬が有名なんですって。
 ひそひそと薫子の耳元で言う彼女に、眉唾物ではないか、と薫子は内心苦々しく思う。何より、得体の知れない人間が調合したものを簡単に口にすることに抵抗があった。
「それ、怪しくなくて?」
「怪しくてもいいの。だって飲むのは私ではないのですし」
「……ますますよろしくないと思いますけど」
 想い人に毒とも薬ともわからないものを飲ませるなど薫子には到底できない。そうまでして恋仲になりたい、と思う美世子の気持ちも理解しがたかった。薫子は彼女の想い人が誰かを知らないが、その殿方が気の毒だ、と思った。
「あ、そうそう。飲み薬だけではなくて、切り傷や火傷に塗るお薬もよく効くそうよ」
 自分の分が悪いと悟った美世子はそう言って、裁縫の授業で傷だらけになった薫子の左手を気の毒そうに見つめた。その視線を感じて、薫子はサッと左手を隠す。他は苦労することなく優秀な成績を修めている薫子だったが、裁縫は大の苦手だった。
「大きなお世話よ。からかわないでくださいまし」
 そっぽを向く薫子を見て美世子はくすくすと笑った。
 
 『てんぐ堂』は薫子の想像以上に繁盛していた。以前は駄菓子を買いに来る子どもたちとたばこを求める男性客ばかりがいた印象だったが、今日は大人の女性客が非常に多い。二人で行列の最後尾に並ぶが、この店に行列ができているのは初めてだった。
 目を白黒させている薫子を見て美世子は
「薫ちゃん、本当にご存知なかったのね。桜子お姉さまも撫子ちゃんも何もおっしゃらなかったの?」
 と訊ねた。撫子は薫子の二つ下の妹である。
「何やら二人で話をしていたような気はしますけど……」
「興味がなくて聞き流してしまわれたのね」
 私たち、商家の娘なんだからうわさにも耳を澄ませないと機会を逃すわよ、と言う美世子の忠告を薫子は無視した。
「あの方?」
 背伸びをしてたばこ屋の中をのぞいた薫子は横の美世子に訊ねた。子どもが誤って買ってはいけないということで薬はたばこ屋の方で扱っているらしい。美世子も同じように店の中が見えたらしく「そうよ」と答えた。
「殿方でしたのね」
「ええ。あら、私、言わなかったかしら」
「トミ子さんのお孫さん、としか」
 それにしても、と薫子はもう一度、古びて埃っぽい店の中に視線をやった。ちらり、と見えただけだったが、左の眉尻から右の唇の端まで斜めに、加工された天狗の面で覆われていた。素顔が晒されているのは左目と鼻、唇だけだ。だが、その半分だけでも男振りがいいのはよくわかる。大人の女性客が多いわけがわかった、と薫子は苦笑する。
「ね、男振りがよくて容姿がよろしいでしょう?」
「ええ、とても」
 薫子が肯定すると美世子は目を丸くした。
「珍しい、薫ちゃんが認めるなんて」
 明日は雪かしら、と冗談をいう美世子に、降りませんよ、と言い返す。
 そうして二人でたわいもない話に花を咲かせていると、いよいよ薫子の買い物の順番が回ってきた。先に用を済ませた美世子は店の外で待つ、と言った。薫子に特段買いたいものはなかったが、ここまで来て何も買わないのも具合がよくない。美世子にはからかわれたものの、傷薬を買うべきかと考える。考えているとふと目の前に小さな蓋つきの入れ物が差し出された。蓋には欅の葉の意匠があった。薫子が驚いて顔を上げると、青年の片目が薫子を見ていた。ガラス玉のようにも見える瞳が、店内のわずかな光を取りこんでキラキラと輝く。その輝きから目が離せなかった。
「こちらをどうぞ。少し深い傷にもよく効きます」
 音量を限りなく絞る配慮がなされていたが、薫子は頬に血が上るのを感じた。
「……ありがとうございます」
 初対面の人間にも見えるほど、針の刺し傷は目立つだろうか、といぶかしみながら薫子は代金を支払う。もちろん左手は見せないように入念に着物の袖で隠す。だが、彼は〝少し深い傷〟と言っただけでその原因を口にすることはなかった。薫子に恥をかかせまいと慮ってくれたのだろうか。
「得体の知れない人間が調合しているものを容易に口にしないのは、大事なことです。その用心深さはあなたに害為す者から守ってくれると思いますよ」
「……あの、わたくし、そんなお話しましたかしら」
 まったく口にしていない内心まで言い当てられ、いささか気味悪さを感じた薫子は思わず訊ねていた。青年は薫子の疑問ににこやかに答える。
「いえ、されていませんよ。でもわかってしまうんです」
 そこで青年はぐっと声を低くした。
「――何せわたしは、天狗なもので」
「……」
 本気か冗談か測りかね、薫子はもう一度礼を伝えたのち、帰りを急ぐので、と言い訳をして慌てて店の外で待つ美世子の元まで戻った。
「どうしたの、薫ちゃん。顔色がよろしくなくてよ。何かあった?」
「……正直に言ってほしいのですけど」
「なあに?」
「お店にいらした方のうわさ、まだなにか私に言っていないことがあるのではなくて?」
 薫子の問いかけに美世子は「なんだもう気がついてしまわれたの?」とつまらなさそうに言った。
「神通力をお持ちだといううわさよ。それにあの面でしょう? 名前を訊ねても答えてくださらないから皆さんあの方のことを『天狗』と呼ぶそうよ」
「神通力……」
 その手の非科学的な話は基本的に信じていない薫子だが、先のことを思い出すと本当にあるのかもしれない、と思えてきた。
「その人でさえ知らなかった病や隠している怪我も見通せるとかなんとか。薫ちゃんの怪我もきっとお見通しでしたでしょう?」
「……ええ。でもそういうことは先におっしゃってくださらない?」
 薫子の抗議に美世子は笑って唇に人差し指を当てて言う。
「訊ねられていないことは教えられません」
「こういう時だけ商人の手法を取るのはよくなくてよ」
 だが、今の薫子が何を言っても、負け惜しみにしか聞こえない。二人はどちらからともなく肩を震わせると、それぞれの帰路についた。
 
「あら?」
 その夜、自室で財布の中身を小遣い帳につけていた薫子は、帳簿上の金額と財布内の現金が一致しないことに気づいた。
(おかしいわ)
 何度数え直しても一致することはなく、財布の中に余計な貨幣が一枚あった。貨幣が多い原因は明らかだ。今日は『てんぐ堂』での買い物以外に金を使っていなかった。やや重たい気持ちになったが、商家の娘として金勘定にだらしないと思われるのは避けたい。
 一流の商人は、一見すると価値のないものに価値を見出して高値で売ることができる人間だ、というのが薫子の父の信念である。そんな彼は、五人の子どもたちが様々なものに触れられるよう、惜しむことなく小遣いを与えたが、与えるかわりに小遣い帳をつけることを言いつけた。小遣い帳は不定期に確認され、まめに記載されていないことや財布の中身と乖離があることがわかると叱られる。逆に言えば前述の通りの性格であるため、小遣い帳がきちんとつけられていれば、購入した物品に言及することはない。玉石混交で結構、様々なものを買ってみるのが勉強だ、ということらしい。
 きょうだいの中では薫子が一番まめな性格であり、今まで一度も小遣い帳で父に指摘を受けたことはない。
(明日もう一度お店を訪ねて、お返しするのがいいわね)
 気乗りはしなかったが、明日もう一度『てんぐ堂』を訪ねよう、と決めて薫子は小遣い帳を閉じた。
 布団に入る前に、机に置いた傷薬の入れ物の蓋を開ける。少しの油っぽさとなんともいえないにおいがして、思わず薫子は顔をしかめた。
(……これ、本当に効くのかしら)
 半信半疑のまま、親指に少しだけ薬を塗布し、上から軽く包帯を巻く。包帯によって指先の得も言われぬにおいは幾分かやわらいだため、なるべく気にしないようにして布団にもぐりこんだ。
(なんだか今日はくたびれたわ)
 普段と違うことをして、思いがけず疲れていたのだろう。目を閉じるとあっという間に夢の世界へと旅立っていた。