満碧が汀夏とともに神祇省に通い出してから数週間経過した。季節はすっかり移り変わり、セミの鳴き声が聞こえるようになった。
この数週間のうちに、満碧は自分自身で見積もっていた以上に、文献を読み解き、考えることが楽しいということに気づいた。学がないからと卑屈になって遠ざけていたが、苦にならないというのは意外だった。夢中で文献を読みふける満碧に、汀夏が「身体を壊さない程度にしてくれ」と苦言を呈するほどである。
しかし、肝心の解呪方法がわかったかというとそちらの進みはあまり芳しくない。そう簡単に解けるものではないから、焦らなくていいと汀夏は言うが、満碧にとっては今焦らなくていつ焦るのかという話である。
「満碧、少し休憩にしないか。あまり根を詰めると熱射病になってしまうぞ」
昼前になって汀夏が声をかけにきた。神祇省の文献を保管している別棟(書庫)は、本の保管のため気温・湿度ともに管理されており、一年通して過ごしやすい。汀夏の言葉は満碧を休憩させるための方便であることはわかっていて、満碧は「わかりました」と返事をした。
「今日の食堂では数量を限ってサイダーが用意されるらしい」
「それはまた……神祇省の食堂というのは粋な計らいをしてくださるのですね」
「こう暑いとな。冷やしたものが飲みたくなるだろう」
「はい」
二人で食堂につくと、一番人が多い時間だった。席の確保にも苦労する有様だったが、汀夏の同僚だという西園寺勇が席を確保してくれていた。彼の手元には湯気を立てたライスカレーがある。一方の汀夏はコロッケそば、満碧はたまご丼とサイダーを手元の盆に乗せていた。
「暑いのに二人とも精が出るな。俺には絶対に無理だ」
西園寺は熊のように毛むくじゃらの手で銀の匙に乗ったカレーを口に運んだ。その様子を見ながら汀夏が朗らかに軽口をたたく。
「心配せずとも貴殿に文献の整理を頼もうとは思わんよ。実地調査の方が得意だろう?」
汀夏と西園寺は学部こそ違えど(西園寺は農学部の出身である)、入省は同時期であり、それ以来気安い仲になったという。なお西園寺が農学部出身にもかかわらず神祇省に入省したのは、彼の緻密なフィールドワークによる植物学の知識が必要とされたからである。家系のうわさが人を寄せ付けなかった汀夏と、帝大時代の人脈がほとんどない西園寺が意気投合するまで時間はかからなかった。実直で汀夏を偏見の目で見ない西園寺のことを、満碧もすぐに気に入った。満碧の外見も、はじめこそ驚いた様子を見せた西園寺だが、前述の性格から意に介する素振りもなく受け入れている。
「それにしても、お前があっさり伴侶持ちになるなんて思わなかったよ。そういうの、避けてただろ」
「……否定はしない」
「おまけに職場に連れてくるときたもんだ。入省したばかりのころからは想像もつかねえなあ」
そう豪快に笑い飛ばす西園寺だが、彼には許嫁がいて、彼女に頭が上がらないらしい。満碧と年の変わらない頃のお嬢さんだと聞いているが、すでにしっかりと尻に敷かれているようだ。
閑話休題。
「そういえば、ずっと気になっていたのですが、神祇省にはおれのような……いわゆる巫覡の力をお持ちの方はいらっしゃらないのですか」
以前からずっと気になっていたことを満碧は訊ねた。汀夏も西園寺も巫覡としての能力は有さず、研究者としての立場で神祇省に所属している。満碧が入り浸っている書庫の横には得体のしれない呪物が保管されている蔵があった。そこの管理をしている何者かがいるはずだが、満碧は担当者の姿を見たことが一度もなかった。
満碧の質問に汀夏と西園寺は顔を見合わせた。言いあぐねている様子の二人に満碧は慌てて言う。
「あの、聞かせられない話であれば、無理に聞きませんので」
「いや、そうではなく」
「俺たちも正確なところを知らねえんだよ。国家第一の機密に触れちまうから、研究者風情には教えられないっつーわけで。いわゆる神秘みたいなもんは迂闊に口にできねえようになってるらしい」
二人そろって答えの歯切れが悪く、満碧はやはり言いづらいことだったのではないかと心配になる。
「私の方は高祖父が呪いを受けるまで調伏まがいのことをしていたらしいが……もう百年近く前のことだから記録もないな」
「記録がないのですか?」
「ああ、日報みたいなものは残っているには残っているが、保存状態が悪いせいか痛んでしまっていて読めない」
あれだけ書庫に文献や記録があるといってもすべてを網羅できるわけではない。薄々わかってきていたことだが、やはりそうか、と満碧は思う。
「ただ、家の私室の床の間にその時使っていたとされる刀があるな。錆がひどくて鞘からは抜けないらしいが」
「なんだなんだ? 珍しいな。お前が〝される〟とか〝らしい〟とか言うなんて」
うんうん、と満碧もうなずいた。確かに汀夏の部屋の床の間には、刀掛台があり、そこには一振りの刀があるが、その由緒について汀夏の口から語られたことはなかった。おそらく正確に語れないから語らなかったのだろう。
「真相を知る者は誰もいないからな」
汀夏はそう言って肩をすくめた。ふむ、と西園寺は自身の顎に手を当てる。そしてぼそり、とつぶやく。
「刀が残ってるっつーと、調伏よりは神殺しみてえだな」
「ああ。おそらく代々続くこの呪いも、神殺しの任の途中で受けたものだ。失敗したのだろうな」
そこで汀夏はちらり、と満碧を見る。
「? どうかされましたか?」
「……気を悪くしていないかと」
どうやら満碧の生家が神に仕える家系であることを気にしてくれているらしい、と理解して満碧は首を横に振った。
「え? まあ、特には。実家は神職の家系ですが、神に仕えることもある種の調伏というか、ある意味では人間の手の届く範囲に神秘を置いてしまうことになりますから。神殺しと似たようなものです」
「そうなのか」
そういうことなら、と安堵する汀夏を見て、西園寺が吹き出した。
「おい」
「いやいや、悪ぃ。お前、そんなに他人の機微を慮るやつじゃなかったのに、人は変わるもんだと思ってな。満碧さんと出会えてよかったなあ」
本心からの素直な言葉に満碧は自分の顔が赤くなるのを感じた。それは汀夏も同じだったようで「膳を下げてくる」と言って、満碧の分の盆も持って行ってしまった。その後ろ姿をぼんやりと目で追いながら西園寺は満碧に言う。
「前はもっと自分の人生を諦めてるっつーか、覇気のない感じだったんだけどな。ここ数か月はずっと元気そうで俺も安心した」
家族とも伴侶とも違う距離感で、汀夏のことを気にかける西園寺に、友人とはこんな関係なのだな、と満碧は思う。
「おれには友人、と呼べる相手がいないので、お二人のような関係がうらやましいです」
「ん? そんなにうらやまれるようなもんでもねえけどなあ」
苦笑する西園寺だったが、満碧が本心から言っているのだと理解して「まあ、友人なんてもんはいつでもできるぜ」と付け加えた。満碧は西園寺の発言の意味するところを理解できず、首を傾げていたが、結論が出る前に汀夏が戻ってきた。
汀夏の姿を見た西園寺が「そういえば」と口を開く。
「最近、神祇省内で無許可の侵入者の姿を見ることがあるっつー噂を耳にした。そうそう影響があるとは思わんが、気をつけろよ。満碧さんもいることだし」
「神祇省に無許可の侵入者?」
汀夏が怪訝そうに聞き返す。西園寺はそれを意に介さず話を続けた。
「ああ。俺もよく知らんが、守衛がそう話しているのを聞いた。無許可で侵入できるってことは、神祇省の霊的な守りを突破できるってことだ。俺たちはこの職員証明書があれば弾かれることなく出入りできるが」
そう言って西園寺は首から下げている札を指で軽く叩いた。名前と所属が書かれている簡易的なものだ。満碧も来客用の札を肌身離さず持つように言われており、職員と同様、首から下げている。
「よほどの能力者か、誰かに成りすましているか。いずれにせよあまり良い話でないのは確かだ」
「ああ、まあ……満碧さんがいる別棟は呪物倉庫と隣り合ってるから、守りも堅い。つっても万事に対しての守りじゃねえから、気をつけるにこしたことはねえだろうな。なるべく一人での行動は避けた方がいい」
「わかりました」
西園寺の忠告にありがたく満碧は頭を下げる。西園寺はニカッと笑うと、空の器を持って立ち上がった。
「じゃあ、俺も戻る。またな、お二人さん」
「ああ、ありがとう」
軽く手を挙げて汀夏も応えた。去っていく西園寺の背を見ながら満碧は言う。
「本当に気持ちのよい方でございますね」
「ああ」
汀夏の横顔が誇らしげに見える。そして、家の人間以外に汀夏が親しくする相手がいたことに対して満碧は安堵した。もし時を戻することができるのであれば、先日出会った早瀬川のような者ばかりが在籍していたらどうしようかと真剣に悩んでいた数週間前の自分に、そんなに悩まなくても大丈夫だと伝えてやりたかった。
「私たちも行こうか」
「はい」
食堂を出て、汀夏と行き先が分かれるのかと思いきや、汀夏はそのまま満碧について別棟までやってきた。
「あの、汀夏様。お仕事は……?」
恐る恐る訊ねた満碧に、汀夏は真顔で言い切った。
「ここでやる」
「え、そうはおっしゃいましても、書類はお席にあるのでは?」
「取りに帰る時間が惜しい。午後はここでいい」
西園寺の忠告を律儀に守ろうとする姿勢は素晴らしいが、汀夏がそばにいては、満碧の方が落ち着かない。しかし、そんなことを口にすれば汀夏が落ち込むのは火を見るよりも明らかであり――。
「……わかりました。では、よろしくお願いします」
押し切られる形で同じ場所で活動することになったものの、やはり満碧は終始落ち着かず、帰宅するときに〝明日はやはり一人にしてほしい〟と申し入れたのは余談である。