夜事

「俺はおまえの兄を知っている」
 その日の客は開口一番にそう言った。美丈夫は眉一つ動かさずに言い返す。
「わたしに兄はいない。勘違いだろう」
「さすがは地下街で〈情報屋〉を興して運営しているだけはある。これくらいでは驚かないか」
 続いた客の言葉に美丈夫は不快感をあらわにする。彼は意味のないやり取りが一番嫌いだった。
「根も葉もない妄言に付き合うつもりはない。特に用がないのであればお引き取りを」
「本当に俺を帰らせていいのか。俺が知っているのはこいつだ」
 客は一枚の写真を取り出した。そこに写っているのは美丈夫にうり二つの男だった。
「合成写真か。よくもまあそこまで準備をしたな」
「――なぜこれが合成だと言い切れる? そもそも普通は自分とそっくりの人間の写真を見せられたら冗談だと思うだろう。驚かないのはそれがおまえの身内だと知っているからじゃないのか」
「……」
 客の言葉に美丈夫は何も言い返さなかった。そして確かにこの客は自分が捨ててきた家のことと身内のことを知ってここに来たのだと確信した。もう自分はあの家と関係がない、と言ったところでそれを素直に聞き入れる客ならばこのような場所までわざわざやってきたりはしないだろう。そんな美丈夫を客はじっと見つめたが、そこから読み取れる情報はなく、客は肩をすくめた。
「まあ、今日はいい。だが忘れるな、俺はおまえの兄にいつでも接触できる立場にいる者だと」
 客の言葉に美丈夫はわずかに目を細めたが、何も言わずに客を見送った。気を付けてお帰りを、と言った美丈夫の言葉はドアが閉まる音に遮られて客に届かなかった。

「すまないが、今夜も仕事だ」
 その夜、猟犬は仕事があると言う美丈夫に呼ばれた。また今日も首輪をするのだろうか、と思いながら出向いた先は血のニオイが満ちていた。部屋の様子を見て猟犬は仕事の内容を察した。
「珍しい仕事ですね」
「たまには、な」
 猟犬は袖で鼻と口を覆って、それを見下ろした。血のニオイは猟犬には刺激が強い。
「わたしが処理せずとも、誰かが処理をしたとは思うが、やはりあの人に危害が加わる可能性を放置することはできなかった」
「……甘いなあ。姓を捨てたあなたには関係ないことなのに」
 皮肉を混ぜながら言った猟犬に美丈夫は何も言い返さなかった。意地が悪い言い方だったか、と思いながら猟犬は美丈夫の頬に手を当てた。美丈夫は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに平静を取り戻した。
「ま、俺もあなたに甘いんでいいんですけどね。本当に必要だったら顔を変えてくれるアテもありますし」
 そう言って猟犬は準備をするために自室に戻っていった。その場には美丈夫だけが残される。猟犬だけに後始末を任せることはできず、美丈夫も着替えるために自室に戻る廊下を歩き始めた。

 猟犬の仕事は無駄がない。人間〝だった〟それはみるみるうちに解体され、血と肉と骨の塊になった。地下街に悪臭が立ち込めるのは日常茶飯であり、誰も気に留めない。そもそも一度行ったら帰れない、と言われている場所に行った人間を気遣う者もいない。防臭のための頑丈なマスクを装着したまま、赤く染まったニトリル手袋を脱ぎ捨てて猟犬は汗を拭う。
「このあとどうします? 埋めます? それとも沈めます?」
 猟犬の言葉に美丈夫は少し考えたのち、
「沈める」
 と答えた。地下街に流通するものは情報だけではない。一般的には取扱いを限定されるような薬品も出回る。人間の皮膚も骨も侵せる強い薬品を足がつかないように買い求めることも可能だ。沈める、というのはその薬品に溶かすという意味と同義だ。
「徹底しますね」
「したくもなる」
「あの人はもうあなたの兄弟ではないのに」
 やや苛立ったように猟犬は言う。だが、美丈夫の出自を口にして責めてしまえば決定的に亀裂が入ることもわかっていた。
「……法的にはもうわたしの兄ではない。だが、わたしの行いであの人に危害が及ぶのは困る。あの人が原因のわたしのことを知るすべなどないのだから、せめてこちらで芽を摘んでおくべきだろう」
 合成写真だと昼に断定した写真は合成ではなく、間違いなく美丈夫の双子の兄だった。男の言う通り、美丈夫だからこそ、驚くことがなかったものだ。
猟犬は困ったように美丈夫を見ていたが、すぐさま距離を縮めると傷一つない頬にわずかに爪を立てた。
「やっぱり今すぐにでも顔を変えてもらう方がいいかな」
 独り言のようにつぶやかれた言葉に美丈夫は反論する。
「この顔が好きだと言ったのはそなただろう」
「そうですね。この顔が損なわれるのは世界の損だ」
 世が世なら国の宝になってると思うんですよね、と言った猟犬に美丈夫は苦笑した。
「まあ、変えてもらうならあちらにお願いします」
 どうやってお願いするというのか、と美丈夫は思ったが口に出すだけ野暮だ。しばらくは顔を隠してもらうのもいいかもしれないな、とつぶやいた猟犬に美丈夫は「好きにしたらいい。わたしは言う通りにする」と言った。
「じゃあ、ちょっと沈めに行ってきます。その間に着ていたものは全部脱いで燃やしてくださいね」
「徹底的だな」
「徹底すると言ったのはあなたですよ」
 俺も帰ってきたら燃やすんで、火はつけたままにしておいてくださいね、と言って猟犬は肉塊を軽々と担いで行った。その場にはいくらか血液が付着した衣服を身にまとった美丈夫だけが残される。彼はポケットから煙草を取り出すと、細い指で挟み、火をつけた。こんな夜だけたまに吸う煙草だ。
「……」
 ゆっくりと煙を吐き出しながら、あとどれだけすれば自分はあの家から自由になるのだろう、と思った。もう彼の足元には幾人もの血肉と骨が高く積み上がっている。猟犬の言うとおり、今すぐにでも顔を変えるのが一番早い解決策だとわかっていた。だが、それでも猟犬が美丈夫の顔を好きだという限り、美丈夫は己の顔を変えることは決してしないだろう。
「まったくとんだ男につかまってしまったものだ」
 そう悪態をつく美丈夫の口元はわずかに楽しそうな弧を描いていた。