○
非常に珍しいことにその日の朝一番の呼び出しは各地を巡回している隊員たちからの入電ではなく、〈アンダーライン〉第一部隊からの内線だった。
「はい、第三部隊・松本です」
『お、尋ね人に繋がるとは運がいい』
「え?」
内線で通信を入れてきたのは第一部隊長の稲堂丸だった。通常であれば業務用の個人端末にかけてくるところをなぜわざわざ内線を使ったのか――この時点で松本の〝厄介事感知センサー〟が警報を鳴らし始めた。
「俺になにか御用ですか?」
『ああ、実は先ほど【住】地区十七番街〈ロー〉の登山者から遭難の通報があった』
「……なんとなくその先はわかったような気がしますが、そういうことでしたら俺ではなく隊長にお願いします」
松本はほかの人間と比べて非常に五感に優れており(もちろんその体質は利害どちらもあるものだが)、その特性を買われた派遣依頼がほかの隊から来ることも少なくなかった。今回も遭難者の捜索の手助けを依頼されるのだろうと思うが、その許可を出すのは隊長である六条院だ。
『そうだな。かわってくれるか』
松本はくるり、と振り向いて六条院を見た。稲堂丸からの内線だ、と伝えれば、六条院はこめかみを押さえた。彼がかけてくる内線の厄介さは誰もが知るところだ。六条院はしばらく稲堂丸と話していたが、最後には
「わかった。派遣しよう。ただし、この貸しは高くつくぞ」
と根負けをして、松本の方を申し訳なさそうに拝んだ。松本は片手で丸を作ってみせると、自分が指揮を持っていた事件を櫻井に引き継ぐ。
「すまない。断り切れなかった」
「いえ、あの人が無茶なのは今に始まったことじゃありませんし。志登さんもいるんで大丈夫ですよ」
「俺も同行しましょうか?」
松本の横から櫻井が申し出てくれたが、その申し出は丁寧に断った。
「俺の代わりになる人まで抜けると今度は隊長が困るので、志登さんを巻き込んで行ってきます。山なので、どこまで俺が役に立つかわかりませんが」
「? どういうことだ?」
「山の中は結構いろんなものの気配がするので、ピンポイントで人間だけを探すのは難しいって話です。そのあたりは志登さんたちのフォローを期待していますが」
松本はそう言うと、腕章を左腕にはめて立ち上がった。
○
今回遭難者が出た山は有名な温泉街の近くにあった。そのため登山客は登山の帰りに温泉街――硫黄泉だ――に立ち寄ることが多い。だが、硫黄泉から漂う香りは松本には刺激が強すぎるため、早速鼻栓を使用するはめになった。その姿を見て「まぬけだな」と大笑いしたのは第一部隊・副隊長の志登である。
「せっかく派遣されて来た俺に対してそれはひどいだろ?!」
憤慨する松本に志登は笑いを引っ込めて、謝罪をした。そして、持っていたトレッキングシューズを松本に差し出した。
「一応借りられたけど、履くか?」
「え、そんな本格的に登山するような場所での通報なの」
「本格的ってことはないが、俺は念のため履いた。上からも探すが下からも探しつつ行く。ちょうど山の中腹あたりだそうだ。通報者が現場に残ってるからそこを目指す」
志登はすでに自前のトレッキングシューズに履き替えていた。だが松本は履きなれない靴よりは自分の靴で行く、と決めた。志登の横には登山ガイドをして長いというベテランの案内人――黒沢と名乗った――もいた。
「私が先頭を行かせてもらいますので、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
志登は礼儀正しく案内人に頭を下げると、靴を履き替えた松本に背嚢(リュックサックと呼べるような可愛らしい代物ではなかった)を背負わせた。
「この中に救助の道具とか着替えや毛布も入ってるから俺と分担して運ぶ」
「了解。あ、志登さんレスキューの手配は?」
「一応してるけど、まだ時間がかかりそうだ。もう少し早く動けるような体制だと助かるけどな」
都市国家〈ヤシヲ〉においても救助隊は存在するが、公的に運用されていないため初動はどうしても〈アンダーライン〉になる。
「民間の組織だからなあ。それの運営改善より〈中央議会所〉にレスキュー専門部隊の設立を嘆願した方が早いと思うけど」
「俺もそう思う。今回のが終わったらレポートと称して出しておく」
志登はそう言うと、準備はいいなと松本に念を押した。松本は黙ってうなずいた。志登は案内人に案内を開始するよう頼んだ。先頭から案内人―志登―松本の順で一列になって歩く。
「そうだ、忘れてた。今回の通報内容についてきちんと把握してきたか?」
「? 派遣要請があってすぐに来たからざっくりとしか把握できてないけど」
松本の回答に志登はうーん、と唸った。
「え、なんかやばい案件だった?」
「いや、俺もよく飲みこめてないんだが、」
――横を歩いていた同行者がいきなり消えたらしい。
通報者は混乱した様子で志登に話をした。同行者が消えて以来、周囲を探したようだが、残念ながら見つからなかったと気落ちしていた通報者を志登が宥めていたそうだ。
志登の答えに、松本は一瞬言葉に詰まった。
「足をすべらせた、とか」
「普通は声を上げたり、落ち葉が擦れるような音がすると思うが、そういう音は一切なかったらしい」
二人はカサカサと乾いた音を立てる落ち葉を踏んで歩く。ふもとのあたりは雨が降った様子もなく、地面は乾いていた。中腹とではまた天候も変わるだろうが、ここ数日雨は降らなかったということだ。
「乾いた地面で足をすべらせたりすると思うか?」
「あんまり。でも落ち葉でくぼみだとか、岩の隙間が見えなくてその中に落下した可能性はあると思う」
「ただ、その場合でも声がしないのは違和感があるな」
一体何があったのか、と考えつつ、二人は険しくなる斜面に足をかけた。
「あ、そうだ。俺からも一つ言っておかないといけないことがあった」
険しくなりつつある道を昇りながら松本は言う。息一つ切らさないその体力に「松本さん、ガッツありますね」と案内人が言った。
「なん、だよ……もっと道が易しいときに言えよ」
対する志登は若干息を切らしつつ松本の言葉に反応した。
「俺の能力を評価して呼んでもらったのは嬉しいけど、山の中って人間以外にもいろんな気配がするから、街中よりも役に立ちづらいかも」
「それは協力要請があったときに言えよ!」
「言う前に稲堂丸隊長に押し切られたんだって!」
実際に押し切られたのは六条院だが、敢えて伏せておく。
「ったくあの人はよー。人の話を三分の一しか聞かねえのか玉に瑕だな。まあでも勘が良くて体力がある人間がいてくれるに越したことはねえから助かる」
「それはどうも」
結局同行するほかないのか、と半ば諦めつつ松本は志登の後を着いていく。今回二人が登っているのは、標高一二〇〇メートルほどの初心者から中級者まで登るような山だった。大人の足であれば中腹まで約一時間で着くコースである。
案内人の後ろを着いて行くこと約一時間、通報者が残っていた場所までたどり着いた。やや広くなっているその場所で、人を見失うことが果たしてあるのか。
「手分けして探すか」
「ん、それはいいけど、黒沢さんと通報者の、えーっと、赤城さんにはここに目印として立っていてもらおう」
「そうだな。赤城さん、すみませんが、もう一度どこで同行者の方とはぐれたのか教えていただけますか」
志登の頼みに、赤城は「あのあたりで、」と話し始めた。
「あのあたりで、珍しい鳥を見かけて、それで、教えてやろうと思って振り返ったんです。その時にはもういませんでした」
「その前に、何か音や声を聞きましたか」
その問いかけに赤城は黙って首を振った。切羽詰まった様子で志登に言う。
「先ほども言いましたが、消えた、としか言いようがないんですよ! 僕もいつはぐれたのかわからなくて困ってるんです!」
ずっと一緒にいたと思っていた人間が突然いなくなっては彼も混乱するだろう。不用意に訊ねすぎた、と反省して志登は頭を下げる。
「わかりました。不躾にお訊ねしてすみませんでした」
「私たちは休憩しましょうか。温かいものを持ってきたので、何かお腹に入れましょう」
黒沢が上手に赤城を誘導してくれたことに感謝しつつ、志登はあたりを探索し始める。持ってきておいた杖で落ち葉を払いつつ地面の様子を確認する。
かさかさ、とかき分けられる落ち葉の音は変わらず乾いている。少しずつ道を下りながら法面に近いところを探っていると、不意に足を取られるような感覚があった。
「?」
松本が振り返って地面を見るも、特に木の根が飛び出ているような場所はない。不思議に思いながらも作業に戻ろうとした瞬間――いきなり両足をずるりと引っ張られた。
「うわッ!」
先ほどまで歩いていたはずの地面にいつの間にか沼ができていた、としか言いようがない状況に松本は戸惑った。腰までどっぷりと沼に浸かってしまい、這い出ようにも何かに足を引っ張られているような感覚があった。
「どした? っておい! なにしてんだ。早く上がって来い」
松本の声を聞きつけたらしい志登が近くまでやってきたが、呆れたように言った。
「いやそれが、何かに足を引っ張られてるみたいで」
抜けない、と松本は両手を地面について抜け出ようともがくが、抜け出るどころか徐々に引きずり込まれているようだった。突っ張っていた腕からかくん、と力が抜ける。
「しょうがねえな、何かに足引っ掛けたんだろ。引き上げてやるからちょっと待ってろ」
「なるべく早くしてよ」
「注文多いな!」
松本は志登のために〝何か〟とぼやかしたが、実際には人の手に脚をつかまれているような感覚だった。その力はどんどん強くなる。
「ほら背嚢下ろせ。これ着けるから」
志登が救助用のハーネスを自分の背嚢から取り出して松本に見せた。本来とは違う場所で効力を発揮してしまったが、松本の命には代えられない。松本は背嚢を慎重に下ろし、志登にハーネスを取りつけてもらった。
「志登さん、結構腕が限界。踏ん張ってないと引きずられる」
「お前、ほんと何に足引っ掛けてんだよ」
しょうがねえなあ、と言いながら志登はハーネスから出ている紐を簡易ウインチに取りつけた。ウインチも入ってたのか、どうりで重たかったわけだ、と思いながら松本は素直に待つ。
「ほら、もう少しだから踏ん張れよ」
志登はそう言ってウインチで松本を引き上げかけ、ハンドルが異常に重たいことに気がついた。
「あ? なんでこんなに重てえんだよ」
「ぬかるみのせい?」
暗に体重の増加を疑われて松本は首を大きく横に振った。むしろ怪我によってしばらく入院生活をしていたこともあり、以前よりも体重は減ったはずだ(とはいえ元々上背が一八〇センチあるため、それなりの体重はあるが)。
「志、登さん、ちょっと早く上げて、なんかどんどん引っ張る力強くなってるんだけど」
「あ?」
マジかよ、と言いながら志登はウインチのハンドルをもう一度回し始めた。そして、志登がハンドルに悪戦苦闘していると、黒沢と赤城が異変に気がついてサポートにやってきた。赤城がウインチに繋がっているワイヤーには触らず、松本を羽交いじめにするような形で引き上げを手助けする。
「す、すみません、ありがとうございます」
なんとか沼から抜け出た松本の下半身は泥にまみれていた。加えて悪臭がひどく、松本を筆頭に全員が鼻を覆った。
「なんだこれ!」
「俺が一番きついんですけど!」
松本の苦情に志登は鼻をつまみながら苦笑し、そして、松本の左足首をつかんでいる人間の手を見つけて真顔になった。
「……手、だよな。それも人間の」
「手ですね」
黒沢が同意した。松本は慌てて自分のハーネスからワイヤーを引き抜いた。本来はハーネスと一体にして使うものだが、背に腹は代えられない。黒沢の指導を受けながらワイヤーを手に結び付けて引き上げにかかる。
「お前はその最悪な下半身なんとかしとけ!」
「言い方!」
志登が背嚢に詰め込んでいたタオルと着替えを遠慮なく拝借することにして、少しだけ三人から離れた場所で松本は着替える。天候が比較的安定している季節であったことに感謝をしつつ、ズボンを脱いだところで松本は絶句した。
「これか……」
足首だけではなく、脚全体に満遍なくべったりと手形がついていた。大小それぞれ合わせたらいくつになるのか、と思いながら、ひとまず濡れた個所をタオルで拭いていく。残念ながらズボンだけではなく下着まで壊滅したため、背嚢内の使い捨て下着を使用することにする。靴下も替えようとするが、靴の中まで泥まみれになっているので一旦諦めた。
松本が着替えている間、志登を含めた三人は沼から人を引き上げていた。
「……一体、何人いたんだ」
引けども引けども連なって上がってくる〝泥にまみれた人型のモノ〟を前に志登がつぶやく。まだ肉が残っている遺体が四体と、既に白骨化した遺体が三体引きあがっていた。引き上げられたのは合計七体の遺体だったが、この山で行方が分からなくなっている人間はもっと多い。
「志登さん、ちょっと見てほしいんだけど」
引きあげられた遺体を前に絶句していた志登に、着替えた松本が呼びかける。
「これ、」
着替えとして用意されていたズボンの丈が足りず、松本との脚の一部が見えていた。その見えている部分からも手形が確認できる。
「……お前が異常に重たかった理由か」
「多分」
科学的には考えづらいけど、と言いながら松本は遺体の前で手を合わせた。そのうち松本の足首をつかんでいた遺体は、赤城の同行者だったようで、赤城はきつく目をつむったまま手を合わせていた。
「あの、お二人とも」
黒沢に声をかけられて松本と志登は顔を上げる。黒沢は震える声で言う。
「さっきの場所にあった小さな沼、なくなってます」
「嘘だろ?!」
志登が慌てて落ち葉を掻きわけるが、先ほどまで口を開けていた底なし沼はその場からふっつりと姿を消していた。
「どう説明したらいいんだよ」
「この場の状況で言えることを言うしかないね」
とりあえず俺たちだけで何とかできる状況じゃないから、応援を呼ぼう、と言って松本は山岳地帯専用の業務用端末で本部へと連絡を入れた。
応援が到着したのは日が暮れる寸前だった。先に民間レスキューの航空部隊が遺体の運び出しを実施し、山のふもとで〈アンダーライン〉の第一部隊から派遣された応援の隊員たちおよび科技研によって受け取られていた。民間人である赤城と黒沢も航空部隊のヘリコプターによって先に下山しているが、〈アンダーライン〉所属の隊員である松本と志登は自力で下山するようにと通達された。
文句と言いながら二人で慎重に下山する。松本の靴は濡れたままなので、歩くたびにぐちゅ、ぐちゅ、と不愉快な音を立てた。
「俺くらいヘリで運んでくれてもよくない?」
例の手の痕も検証対象なのに、と嘆く松本に志登が言う。
「お前が運ばれたら俺も運ばないとだめだろ。二人一組での行動が原則だぞ」
俺を置いて行くな、と加える志登に松本は渋々従った。
「下りたら温泉入って帰ればいいだろ」
「ねえ志登さん、それ硫黄泉のにおいがダメな俺に言う? おまけにこんなヤバそうな手形、公衆の面前に晒せないでしょ」
早く家に帰りたい、とぼやく松本に「それなら余計にさっさと下りようぜ」と志登は言う。ただし、下山は一番怪我をしやすいタイミングでもある。なおかつ日が暮れそうという状況では素早く、だが、焦りすぎずに下山をする必要があった。
「あのさ、一つだけ確認したいことがあるんだけど」
歩きながら松本は言う。
「なんだよ」
「俺の後ろ、誰もいないよね?」
松本の言葉に先を歩いていた志登が歩みを止めて振り返った。だが、松本以外に誰の姿も見えなかった。腕時計型の懐中電灯で照らしてみてもそれは変わらなかった。
「何か聞こえたか、それとも見たのか」
「何か聞こえた気がしたけど、気のせいだったみたい。ありがとう」
「脅かすなよ」
まったく、と言いながら志登は再び歩き始めた。そのあとを松本はついて行く。約四十分かけて下りの道を歩き、無事にふもとに降り立ったところで、稲堂丸に出迎えられた。
「ご苦労さん。今日は一泊このあたりに泊まっていいぞ。検証は明日以降だ」
「どうも……」
結局泊まりか、と松本が肩を落としていると、
「温泉はあるが部屋にもシャワーがある宿泊施設にしておいた。安心して泊まれ」
と補足が入った。そして松本の足元を見て気の毒そうに顔をしかめた。
「明日までに乾かすのは無理だな」
「……」
得体のしれない沼に落ちた服と靴は即処分するつもりだったが、明日以降の履物に困ることに思い当たった。
「とりあえず宿泊施設に着いたら相談してみろ」
登山者も多く訪れる場所だから、ある程度着替えの対応はするだろう、と言う稲堂丸に「そうしてみます」と松本は力なく答えた。
「大丈夫か?」
「一晩休めばなんとか」
「本当に?」
先まで大きく消耗したように見えなかったが、下山中にどこか怪我をしたのではないか、と心配する志登に松本は首を横に振った。
「なんか、下りたら一気に疲れがきた」
「あーそうだな」
大変な一日だったな、と言って志登は松本をねぎらった。
「二人とも今日は早く休め。宿までは送らせる」
稲堂丸の号令でようやく二人は身体を休めることができる、と安堵の息を吐いておもむろに自動車に乗り込んだ。
○
「とんだ災難でしたね」
現場検証と事情聴取と手形の検証を終えた松本が〈アンダーライン〉第三部隊に戻ったのは五日後だった。遺体は検証した結果、すべて男性のものであると判明し、松本の脚に残された手形もそれぞれ遺体のものと一致すると判定された。いくつもの遺体が出てきた例の山は現在立入禁止の処置がとられている。
「その、副隊長がはまった例の沼、今どこにあるんでしょうね」
「どこでしょうね。もう無くなってくれていることを願うんですが」
はあ、とため息をつきながら松本は言う。その言葉を聞いた六条院は「おそらくなくなることはないな」とすっぱり切り捨てた。
「やっぱりそう思います?」
「ああ。ここから先は昔耳にした伝承を踏まえた上でのわたしの推測になるが」
六条院はそう前置きをして、目を通していた資料から顔を上げた。
「山を統べるモノ……これをなんと呼称するかは人によって様々だと思うが、ひとまずわたしは統べるモノと呼ぶ」
「はい」
「そういうモノは女性だと言われることが多い。昔、三条院家での勉強会でそんな話を聞いたことがあった」
〈ヤシヲ〉に存在する貴族の家は全部で四つ存在しており、それぞれが国の文化保護、基礎研究の実施、資料蒐集などを一手に引き受けている。三条院家が担当するのは人文科学系だ。
「沼に引きずり込まれたのはすべて男性、そして死亡当時の年齢が二十代から三十代ということは、」
そこで六条院は意味深に言葉を切った。そしてわずかに口角を上げて、
「婿取りのつもりだったのかもしれぬな」
と続けた。話を聞いていた松本と櫻井はゾッとする。腕を見ると鳥肌が立っていた。
「そ、んなことを、するモノですか」
「そういうモノはわたしたちの理解できる範囲を超えていると考えれば納得がいくのではないか? まあ、そなたに目をつけたのはなんというか、見る目があるというか、一周回ってないというか」
苦笑をしつつ言う六条院に「笑えないですよ」と松本は言い返した。
「あの山がいつから在ったのか、その山を統べるモノがいつから在ったのか。それはわからないが、長い年月を独りで過ごすには寂しい場所だとわたしは思う」
「……そう、ですね」
その点は多少同意できる、と思ったが、一つだけ松本には気になることがあった。下山の途中に志登に後ろを確認させたときのことだ。あのとき志登は何も見えないし、聞こえていないと言ったが、松本の耳元ではずっと
――どうして私を選んでくれないの、
と女のささやき声がしていた。
もしかすると己はソレに非常に気に入られたのではないか、と考えて松本は青ざめた。そんな松本に六条院は言う。
「しばらくはあの山に近づかぬことだな。おそらく気に入られたのであれば引かれるぞ。少なくともその手形が消えるまでは、近隣での仕事は断ろう」
「ご迷惑おかけします……」
その後、すぐに消えると思っていた手形が、実に二か月も消えずに残っていたことが、ソレの執着の強さを物語っていた。
【END】