浴槽とスーツケース - 2/2

 三人がやってきた正院寺の住まいは人が暮らしていたとは思えないほどさっぱりとしており、家具どころか服もほとんど処分されている状況に松本と梶は頭を抱えた。ワンルームマンションであっても引越しを考えない限り、このような状況にはならない。

「……やられた」
「後始末されたってことっすよね?」
「おそらく」

 端末や身分証の類から財布に至るまで一切が見当たらない室内で二人、途方に暮れる。だが、元岡は「なんとかなるかも」と言って目を皿のようにして床をじっくりと見始めた。

「用意周到な人間であっても、痕跡を完璧に消し去っているとは限りません。髪の毛一本でも落ちていたら鑑定ができますので探してください」
「了解です」

 もちろん住んでいた人間の髪が一番落ちている可能性は高いだろうが、遺体で発見された彼女の髪はセミロングで、栗色に染められていた。

「セミロングで栗色の髪以外を見つけたら迷わず拾ってくださいね」

 元岡はそう言って二人にゴム手袋、ピンセット、チャック付クリアパックの三点セットを手渡した。

「元岡さん、もしかしてこうなること読んでたんすか?」

 梶の問いに元岡はにっこりと笑った。

「さすがにここまで証拠隠滅を図られているとは思いませんでしたが、お手伝いしてもらうつもりではありましたよ」
「ちぇっ」

 梶はあまり細かい作業を続けて行うことが得意ではない。

「先に風呂場の現場検証するか?」
「そうします」

 松本が助け舟を出してやると梶は一も二もなく乗っかった。写真に写っていた風呂はユニットバスではなく、正院寺の部屋にもそれは当てはまる。

「当たりですね」
「そうだな」
 梶はどこから撮ればサイト上にあった写真と同じ構図かどうかを検証しつつ、浴槽を記録した。そこでふと、床に目を止める。

「排水溝を少し探せば髪の毛出てきたりしませんかね?」
「それをやるのはいいけど、俺は手伝えないよ?」

 梶の提案に対して返答する。梶は松本の言葉を聞いてしばらく考えていたが「僕がやるっす」と言って腕まくりをした。

「あるかわからない床よりもありそうな排水溝探した方がいいっすから」
「わかった。じゃあ俺は元岡さんの手伝いに戻るよ」

 風呂場を梶に任せて松本は元岡の近くに戻った。じっと床をみていると、フローリング材同士の間にわずかばかり埃が残っていることに気がついた。

「ここに落ちてたり……しないか。ん?」

 じっと床を見ていると、わずかに足跡が見えた。よく晴れ、日差しが差しこんでいるからこそ見える痕跡に松本は元岡を呼んだ。

「この角度で見ると床に足跡が見えるんですけど、足裏の皮脂からDNA鑑定できたりしませんか?」
「できると思いますので採取しておきます。明らかに女性の足の大きさではないですね」
「家に上げた兄弟や父親という可能性もありますよね?」

 松本の指摘に元岡は「それはそれとして、証拠となりうるものはすべて採取です」と答えて、持っていた荷物の中から綿棒を取り出した。床を擦って採取したものをしっかりとチャック付きクリアパックにしまい込む。

「この調子でやっていきましょう!」

 手が三倍ですから、助かります、と言って元岡は証拠品採取に戻った。松本もしぶしぶながらそれに倣って、また地面に這いつくばった。
 約二時間におよぶ証拠品採取後、三人は正院寺が住んでいた部屋をあとにした。いくつか採取ができた毛髪および皮脂を手に、マンションのエントランスを出たところでふと松本は立ち止った。

「ちょっ、いきなり立ち止まるとあぶねえっすよ!」
「いや、ちょっとあれが気になって」

 松本の指の先を元岡と梶が追うと、一つのゴミ袋があった。マンション居住者専用、と書かれたゴミステーションのカゴの中にポツン、と取り残されているゴミ袋には何か紙が貼ってあった。

「回収できなかったゴミじゃないんすか?」
「そうだけど、なんで回収できなかったかちょっと引っかかって」

 一瞬見てくる、と言って松本はゴミステーションに近づいた。ゴミ袋には『回収できません』と書かれた紙が貼られているだけだったが、その中のものに松本は目を止めた。

「……端末だ」

 誰のものかはわからないが、液晶が割れた端末がゴミ袋の中に入っていた。通常であれば、専門の引取り業者に処分を依頼するはずのそれがなぜゴミ袋に入っているのか。

「――気になるならもって帰りましょうか」

 いつの間にか背後に立っていた元岡が声をかける。松本はその提案にうなずいて、

「一応、管理会社に許可を取ってからにしましょう」

 と言った。

 

 

 

 三日後、採取した証拠品のDNA鑑定と端末のデータ復旧が完了したという連絡を受けて、松本と梶は再び科技研に足を運んでいた。

「復旧させた端末のデータから彼女の交友関係を洗いました。身内や親しくしていた人たちからは、毛髪の提供をしてもらえたので鑑定も非常にスムーズでした」

 元岡が鑑定結果のグラフを見せる。現場で採取したものと提供されたものを比較し、ピークが一致していることから誰のものかを判断していたが、一つだけ比較データがないものがあった。

「これは?」
「この部屋を片付けた人間のものではないかと推定しています。この毛髪の持ち主イコール例の写真家とは限らないのであくまで推定ですが」

 業者等を使っていればその業者の可能性もゼロではない。だが、このような念入りな証拠隠滅を図る人間が大々的に業者を使うとは思えなかった。

「あ、そうだ。こっちも進捗があった。例のスーツケースのあの場所に放置した男への聞き取りが終わった」
「その人がやったわけではなかったんですか?」

 花江の問いかけを松本は肯定する。

「窃盗と死体遺棄には該当する。ただ、彼女の死に直接関わっていない。巨大なスーツケースを持っていた人の挙動があやしかったからスーツケースの中身は大金が詰まっていると思い込んで衝動的に盗んだらしい」

 松本はそこでちらり、と梶を見た。視線の意味を感じ取ったらしい梶が反論する。

「盗らないっすよ!」
「そっちじゃない。似たような思考回路だと思っただけだ」

 だが、途中でどうしてもスーツケースの中身が気になったらしい男はケースを開け、中身に驚いてその場に置き去りにしたのだと言った。

「その場で通報してくれたらもっと話は早かったのに」
「『そんなことしたら俺がスーツケース盗んだのがバレるし、殺人容疑までかけられそうだったから』だって」
「遅かれ早かれスーツケースのを盗んだのはバレるっすよ……」
「梶の言うとおり、正院寺のマンションの入口の監視カメラに一部始終写ってた」

 男の窃盗の瞬間は写っていたが、自殺ほう助に対する容疑はその映像によって晴らされた。

「あれ、じゃあそこに写ってたもう一人が一番怪しくなるんじゃ?」
「そうなんだよ。でもフードを目深にかぶっていて、カメラには顔が写ってないから手掛かりにならない」

 別角度から探すしかない、と言った松本に、花江が「こちらももう一つわかったことがあるのでお伝えしますね」と声をかけた。

「正院寺さんの端末でのメッセージのやり取りから、登録された連絡先とネットショップ系を除くと、一件だけ不思議なやり取りが見つかりました」

 これです、と言って花江はホログラムディスプレイにやり取りを写した。やり取りだけを見ると家の清掃を依頼しているように読み取れる。

「このやりとりの相手が家を片付けた人物、もしくは写真家だと?」
「はい。それにここを見てほしいんですけど、」

 花江が指した場所には、正院寺の好きな色と花が書かれていた。ピンクそして紫陽花と回答されているそれに見覚えがあった。

「……あのサイトに掲載されていた写真にも写っていましたよね」
「はい。それに清掃の見積もりとして回答されていますけど、清掃でこんな高額はよっぽどの……いわゆるゴミ屋敷の片付けレベルですよ。明らかに高すぎますが、片付け込みで死後を美しく飾るのであればこれくらい要求するでしょうね」
「ということは、このやり取りの相手は、写真家だと」
「十中八九そうでしょうね。ちなみに例のサイトの管理人には先日からコンタクトを取ってみようとしていますけど、反応はなしです。サーバーに管理者情報を問い合わせてもいいですが、時間がかかります」
「こっちで追い詰めた方が早いってことか」

 うーん、と松本は腕組みをして考え、ふと思いついたことを口に出す。

「花屋から攻めてみるか」
「え、花屋がいくつあると思ってるんすか」
「花屋は花屋でも、今の季節に紫陽花をたくさん扱える店は限られるはずだから、彼女の死亡推定日付近で紫陽花の注文があった店舗を絞り込む」

 一回本部に戻って情報提供の依頼をかける、と言って松本は立ち上がった。立ち去りかけたその背中に元岡が呼びかけた。

「最後にもう一つ、例のサイトに上がっていた写真に写っていた人たちの身元特定が完了しています。一部の人が行方不明者リストの名前と合致します」
「一部……」

 残る人間は行方不明者届を出されていないということになる。なんとも嫌な話だ、と思いながら松本は元岡に礼を述べた。

「あまり見ていて気持ちのよいものではありませんが、写真と名前を紐づけた資料をお送りしておきます」
「ありがとうございます」

 松本は元岡と花江に向かって頭を下げると、梶を伴って〈アンダーライン〉の本部へと戻っていった。

 二日後、花屋から絞りこんで捜査を継続してようやく、写真家――槇野祥吾にたどり着いた。比較ができなかった毛髪についても槇野のものと一致した。彼は全面的に自分の行ったことを認め、犯行動機についても素直に話した。

「元々、ポートレート撮影を行うことが多かったですが、一回コンセプトとして水に浮かぶ女性と花を撮ったのを皮切りに、僕の写真は評価されました」

 槇野は海外の有名な絵画の名前を挙げ、これをコンセプトとしたのだと話した。

「でもずっと撮り続けていくうちに、僕はこう思うようになったんです」
 ――本物を撮ってみたい。

 松本は槇野に静かに訊ねた。

「それで、自殺志願者を募集したと」
「はい。僕の欲求も満たされますし、彼女たちも死後を美しく飾られて本望だったと思っています。あ、お兄さんも写真を見てくれたんですよね。どうでした?」
「……それについてはあとで答える。先にこちらの質問にすべて答えろ」

 松本の感性ではあれを美しいと思えなかったが、それを言って槇野の機嫌を損ねても困る。槇野は松本の言葉に素直に従った。

「これまでの人たちの遺体はどうしていたんだ」
「今回と同じですよ。スーツケースに入れて、粗大ごみの持ち込みに持って行くんです。作品を撮ったあとには片づけをしなければいけないですからね」

 槇野は淡々と答えたが、松本は絶句した。死者を冒涜するにもほどがある。

「遺品整理の仕事をしていると言えば、スーツケースを結構な頻度で持ち込んでも怪しまれませんでしたし。今回は同じスーツケースを見つけたので慌てて取り返したつもりだったんですが、全然違う方のものだったんですね。申し訳ないことをしました」

 槇野はそう言って頭を下げた。頭を下げる方向が全く違う、と松本は思ったが、余罪として窃盗も含まれる。多岐にわたる自殺ほう助と死体遺棄はもちろん重い罪だが、直接人間の命を手にかけていないため、償いの期間はあまりにも短い。

 ――遺骨も、遺品も何もかもが灰燼に帰してしまった遺族のなんとやりきれないことか。

 そう思いながら、松本は彼に厳しい口調で告げる。

「あなたはこれから先、いくつもの件について取り調べを受ける必要がある。そして、遺体を遺棄したことに関して残された人たちの憤りと悲しみをずっとその身に受けることになるはずだ」

 松本はそう言ってじっと槇野を見つめた。彼はずっと穏やかな表情のまま松本を見つめ返した。

「その憤怒と悲哀を目にしたとき、少しでもその行いを悔いてほしいと俺は思う。あなたは彼らに一生許されないことをしたのだと」

 槇野は何も答えなかった。松本は「ああ、最後に」と付け加える。

「さっき訊かれた写真の感想だが、――俺は美しいとは思えなかったよ」

 その言葉に槇野は今までの穏やかな表情から一転、すっと表情をなくした。

「……そうですか」
「あいにく俺は芸術に造詣が深いわけではないからな」

 じゃあ、と言って松本は取り調べ室をあとにした。これ以降の取り調べと行方不明者の捜索は調査機関である〈ミドルライン〉に引き継がれる。
 窓のない廊下を歩き、階段をのぼって第三部隊の執務室に戻ると、部屋には六条院だけが残っていた。松本が戻ったことに気がついて顔を上げた。

「ご苦労様」
「はい」

 後味はよくない事件だ。彼が関わった事件が少ないとは思えなかった。

「何も残らなかった人たちのことを考えると、やりきれないですね」
「そうだな」

 思い出は色褪せるものだ。声も姿かたちもいつかは誰からも忘れられてしまう。だが、それを少しでも延長させるためのものさえも奪われてしまった人々のことを考えると、無念だった。

「だが、それでも失ったものを考えて、悔いてくれるそなたのような人間がいることで少しは救われるのではないか」
「だと、いいんですけど」

 力のなさを痛感しましたよ、と言って松本は応接セットとして設置されているソファにその身を沈めた。どうやら相当消耗したらしい、と察した六条院は松本の横に腰かけてその肩を優しくたたいた。

「力ないのは誰しも同じだ。だが、それでもわたしたちがやることは無駄ではない。行方不明となっていた者の生死がわかっただけでも、救われた人たちがいるはずだ」

 ――ゆえに、そう無力を嘆かなくともよい。

 大丈夫だ、と言う柔らかい声が鼓膜を揺らし、地下に蓄えられる雨水のようにじわりと松本の身体に染み入った。

【END】