降りしきる雨の中、そのスーツケースは立っていた。近くには持ち主と思しき人間は誰もいない。長期で出張をする人間が使うような大きなスーツケースを道行く人間はちらりちらりと見ながら通り過ぎていく。
――そのうちに、持ち主がいくら待っても戻ってこないことを理由に不審物として通報された。
○
「札束が入ってたりしないっすかねえ」
通報を受けて現場に着いた梶はスーツケースをしげしげと眺めながら言う。その発言を松本が間髪入れずに否定する。
「おとぎ話でもないから、その幻想は捨てろ。いいところが普通の忘れ物で、次いで怪しい忘れ物、その次に危険物の放置、だな。それに札束が入っていたとしても、遺失物として管理されるからお前のものにはならない。宝くじを買った方がマシだ」
「はあい」
せめて危険物じゃないといいっすね、と言いながら梶はスーツケースの開封をしかけて、あれ、と首を傾げた。
「鍵、かかってませんよこれ」
「……いやだな、そういうの」
鍵がかかってない荷物なんてろくなことがねえ、と言いながら松本はカチン、と小さな音を立ててケースの鍵を開けた。だが、ぱかり、と蓋を少し開けたところで、再び松本は蓋を閉めた。
「え、なんで閉めるんすか」
「怪しい忘れ物だ。科技研まで持って帰って周りに一般人がいないところで開封する。それとこのあたり一帯の監視カメラ映像を送ってもらうように手配だ」
「了解です」
梶は納得がいかない、と言わんばかりの顔をしていたが、松本は黙って手袋をはめてスーツケースのハンドルを握った。スーツケースの中からは、雨でわかりにくいものの、わずかに死人独特のにおいがしていた。
「わあ、怪しい忘れ物引き当てるなんて松本副隊長も梶くんも持ってますねえ」
科技研に持って帰ったスーツケースの中身を簡単に話すと、その話を聞いていた花江がケラケラと笑った。
「ただの忘れ物だと思われて通報が遅れたので、このスーツケースがいつから在るのかが不明。その結果膨大な範囲の時間の監視カメラ映像を見る必要が出てきたよ。映像解析室もずっと空いてるわけじゃないのに」
どれだけかかるんだろうなあ、と嘆く松本に花江がにこやかに言う。
「ああ、それなら私が暇だからやりましょうか?」
花江の言葉に松本はちらり、と彼女を見る。明らかに怪しいと思っている顔だ。
「科技研のスタッフが暇なんて言葉出すとは思えない。本音は?」
「映像分析装置を改造したのでその試運転をかけたいです」
「多数の映像の同時分析もできる?」
「もちろん! それができるように改造したんですよ。機械でできるところに人手をかける意味ないですからね。と、いうわけでこちらは私にお任せを。あとご遺体の方は特に損傷なくきれいなものですから、被害者特定はすぐだと思います」
「わかった。じゃあ俺たちは一回<アンダーライン>本部に帰る。なにかわかったら連絡がほしい」
「了解です」
お任せください、とにこやかに笑う花江に、松本は鞄に入れていた飴を一つ手渡した。
○
一時間ほどすると、花江から「被害者の特定ができましたよ」という連絡があった。とある会社に勤務する二十代の女性だった。
『それと、情報までですが、どうやら死因が溺死のようなんです』
「溺死」
『そう、おまけに抵抗した痕跡がない溺死です。さて、ここで松本副隊長に問題です』
「……出さなくていい。どうやって被害者がスーツケースに入ったか、だろ」
松本の答えに、あたりです、と花江は答えた。
『誰が、どこで、何のために彼女をスーツケースに入れたのかがわからないので、なんとも言えませんが。ただ、事件性があると見なされましたので、ご遺体はきっちり検査されます』
「わかった。身元がわかっただけでも助かる」
松本はそう言って、花江との通話を終了した。傍で聞き耳を立てていた梶に状況を説明してやると、梶は顔をしかめた。
「うえー、いやな事件になったっすね」
「そうだな、いい気はしない。どうあっても第三者が関与していることは確定だ」
二人がそう言って顔をしかめていると、内線で受付と話していた櫻井が二人を呼んだ。
「今、受付にスーツケースを紛失したという人が来ているようです。どうします?」
「は?」
思わず松本の口をついて出た言葉に櫻井は苦笑する。
「一応、受付けで捉えることもできるようですが」
「うーん」
ここで名乗り出てくるような人間が本当に犯人だろうか。その勘を信じることにした松本は「俺が行くので受付で待つように言ってもらえませんか」と言った。
「え、逮捕しないんですか?」
「いきなりは、な。だがなにか事情を知っているかもしれないから話は聞く。もしかすると中身を知らずに運ばされていただけかもしれない」
「なるほど」
「それでも一応死体遺棄に該当するけど」
ひとまず話を聞きに行こうか、と言って松本は梶と共に<アンダーライン>本部の一階へと移動した。
受付で二人を待っていたのは、きちんと身なりを整えた会社員だった。柔らかいブラウンの髪にフレームレスの眼鏡をかけた男性からは、穏やかながらもかっちりとした雰囲気が漂っていた。
「……運び屋?」
「には見えないな」
二人で第一印象の確認をする。男性は二人の姿を見ると名刺を差し出した。大手商社の名前が刻まれているその名刺に二人は目を丸くする。
「恥ずかしながら、出張帰りに荷物が紛失してしまいまして……」
「紛失」
「はい。私と同行者一名で外へ出張をしていたのですが、帰りのタクシー手配をしている間に置き引きにあってしまって」
都市国家<ヤシヲ>に唯一ある空港でのことらしい。同行者が一瞬電話に出ていた隙になくなってしまったのだという。仕方なく盗難届を空港内の<アンダーライン>出張所に提出して戻ってきた、と言う彼に松本は「わかりました」と言った。
「荷物の中身は何が?」
「? え、滞在先で必要な服と生活用品、それと家族へのお土産を入れていました」
「ありがとうございます。これはケースの外観ですが、あなたのもので間違いありませんか?」
松本はそう言ってスーツケースの外観を撮影した写真を男性に見せた。男性は写真を見ながら、あれ? と不思議そうな声を出した。
「何かありましたか?」
松本の問いに男性は首を傾げつつ答える。
「あったというか、ないというか……。このスーツケースは私のものではないのかもしれません。私のスーツケースのキャスター付近には娘がいたずらではられた小さなシールがあるはずですが、このケースにはないんです」
男性はそう言って、幼児の間ではやっているのだというアニメの名前を出した。
「少々恥ずかしいですが、話題にしてもらえるのでそのままにしていました」
「そうですか」
――この人はきっと事件には関与していない。
松本はそう思ったが、敢えて何も言わずに男性に「見つかりましたら連絡いたしますが、盗難届に書かれた連絡先でよろしいですか」と訊ねた。
「はい、もちろんです。お騒がせしました。荷物が見つからないのは残念ですが、日常生活に支障がでるものが入っていたわけではありませんので、ゆっくり探していただければ結構です。よろしくお願いします」
男性はゆったりとした口調で言うと、頭を下げた。松本と梶も慌てて頭を下げる。
「せっかくご足労いただきましたのにお役に立てず申し訳ありません」
「いえいえ、がんばってくださいね」
男性は終始朗らかに言うと、去っていった。あとには名刺を持った二人が残される。
「どう思った?」
「うーん、嘘を言ってるようには見えなかったっす」
「俺も。そもそも後ろ暗いことがある人間がわざわざ盗難届出して、名刺まで渡してくる意図がわからないな。彼はなにも関与していないと見るのがよさそうだ」
二人が執務室に戻ろうとしていると、それを後ろから呼び止める声がした。振り向くと、科技研スタッフである元岡と花江が二人そろっていた。
「あれ、どうしたんすか二人とも」
通常の解析結果であれば、通話もしくは端末に資料が送られてくることがほとんどだが、ときには直接やってくることもある。二人は急いで来たのだろう、額に滲む汗を拭って話し始めた。
「解析の結果わかったことがあったんですが、ややこしいので直接お話にきました」
「……了解です。一旦上に行きましょうか。お茶でも出します」
なんでこんなにややこしいの引き当てちゃうんすかねえ、僕たち。
呟くように言う梶の背中を松本はそっと叩いて慰めた。
○
「先にお伝えしたように被害者の名前は、正院寺かの子、二十四歳の女性。職業はアパレルメーカー勤務の会社員です。死因は淡水での溺死で、体内からは睡眠薬とアルコールが検出されました」
薬物検査の結果を淡々と述べる元岡に松本は質問する。
「誰かに無理やり飲まされたものですか?」
「いえ、喉に傷がついた様子は見受けられませんでしたので、自分から飲んだと考えるのが妥当です」
睡眠薬とアルコールを一緒に摂取して入浴をしたのだろうか、と考える。
「病気の治療中の事故か、自殺の線が濃いってことですか?」
「はい。自殺の線が濃いと思っています」
ますます謎が謎になった。そう思いながら松本が首を傾げていると、花江が話を引き取った。
「ご遺体の顔から画像検索をかけて、身元を特定したんですが、その時にこんなサイトをひっかけました」
花江が見せてくれたサイトは白を基調とした写真を掲載しているサイトだった。浴槽に入っている女性の周りに色とりどりの花を浮かべて撮られた写真が多く展示されている。海外の美術館に保管されているとある絵画を彷彿とさせる写真には、現実と虚構が混じった倒錯的な美しさがあった。
「ここまではおそらく撮影用にきちんと安全に配慮されて撮られたものです。そことは別にこれを見てください」
いわゆる隠しページにアップロードされている写真の中に、正院寺の写真があり、ほかにも何人もの写真が掲載されていた。
「……これ、は」
「この写真家が撮ったものでしょうね。そこからさらに辿っていくと、この写真家はわざわざ自殺志願者を募っていたようで、彼女もそこから引っかかっていったのではないかと思います。ひとまずサイトのコピーと写真の保存をして、今はサイト管理元に連絡を取っていますので、こちらはもう少しお待ちいただければ写真家を特定できます」
「助かる。あともう一つ、さっきの隠しページにあった他の写真の女性の身元を特定して、行方不明者リストと照合してほしい」
「わかりました」
松本は少し考えたのち、梶を呼んだ。
「俺たちはこれから正院寺かの子の自宅に向かって、彼女の遺品から、動機を探る。あとおそらくさっきの写真が撮られたのは彼女の自宅の風呂場のはずだから、現場の特定も」
「はい」
準備してきてくれ、と松本は梶に指示を出した。梶はうなずいて、日勤の隊員用に用意されている自動車の鍵を取りに行った。
「あとこちらからもう一つあるんですが」
花江の言葉に松本は顔を上げる。
「ん?」
「スーツケースを例の場所に置いた人間も特定されました。こちらはどうします?」
「んー……。こっちは隊長と櫻井さんに任せようかな。情報共有だけ任せても?」
「了解しました。では、私から説明しておきます。佐都子は科技研に戻る?」
花江に訊ねられた元岡は首を横に振った。
「私は松本さんたちに同行しようと思います。何かあれば私が調べられるので」
「助かります」
松本は元岡に頭を下げると、机の上に置いていた腕章を左腕に着けなおした。