バニラ【サンプル】

どしゃぶりの雨の中、傘もささずにじっと立ち尽くしている長身の喪服の男は遠目に見てもかなり目立った。近くには『藍川《あいかわ》家葬儀式場』と書かれた案内板があるにも関わらず、静かに彼は立ち尽くしていた。そんな男が気になって、顧客との打ち合わせ後、帰路についていた入海渚《いるみなぎさ》は足を止めた。

「お兄さん、大丈夫?」

自分でもなぜその男に声をかけてしまったのかわからなかった。ただこの男をそのままにしてはいけない、と直感が告げていた。
振り向いた男の目は充血して、目の周りも赤く腫れていた。

「あー、大丈夫じゃないか。ごめんね、変なタイミングで声かけて」

きっと彼はこの案内板の先で行われている葬儀に来た人間だろう、と入海は正しく理解した。まだ年若く見える彼が呼ばれて、こんなにひどい顔をしているのだから、親しくしていた恩師や上司、あまり考えたくないが年の近い友人かもしれない。きっと、親族であれば彼はこんなところで立ち尽くしていないだろうから。
そんなことを思いながら、入海は鞄からタオルを取り出した。客先で使うかもしれないと思って忍ばせておいたものだった。この雨の中では気休めにしかならないだろうが、渡さずにはいられなかった。

「そのままだと風邪ひくから、これ使って。あ、俺が使ったものじゃないからね」

じゃあね、と言ってその場を離れようとした瞬間、入海の目の前で男はぼたぼたと大粒の涙をこぼし始めた。

「え、どしたの、ごめん、俺なんかした?」
「や、すみません……ッ、その、」

ちょっと、とめられなくて、と切れ切れに言う彼の背中を入海はさすった。

「うん、わかった。そういうとき、あるよね。とりあえず、葬祭会館まで行っちゃおうか。行ける?」

入海の問いかけに男は首を横に振った。

「……葬儀には、行けない。でも、」

でも、のあとを言わさないように入海は彼の言葉を遮った。自分が踏み込んでいい領域だとはとても思えなかった。

「……そっか」

だから、喪服に身を包んだまま、じっと立ち尽くしていたのか、とようやく彼の行動の謎がとけた。

「じゃあ、俺が家まで一緒に行こうか。初対面の俺が一緒でいいかわかんないけど」

入海の提案に男は黙ったまま首を縦に振った。入海は小さく息を吐き出して、家の方面を教えてほしい、と男に言った。
意気消沈したままのずぶ濡れの喪服の男と、顧客との打ち合わせをして帰ろうとしていた入海では組み合わせが随分ちぐはぐだった。呼んだタクシーには、かなり濡れてしまった、と事前に連絡をしていたおかげか座席にビニールがかけられていた。細やかな気遣いをしてくれるタクシー会社の運転手はちぐはぐな二人を見ても何も言わなかった。
男はタクシー車内で、ようやく名乗ってくれた。黒田葵生《くろだあおい》という瑞々しい名前からは想像できないほど、今の彼は消耗して、疲弊していた。

「ここでいいの?」

――あ、ひとりで住んでる家じゃないんだ。
家を外から見た時点で、入海は気がついた。メゾネットタイプの家にひとりで暮らすこともあるだろうが、広さから推定するにその可能性は低そうだった。

「黒田くん、ここ誰かと住んでるんでしょ。俺が居たら悪いだろうし、ここで帰るよ――うわッ!」

突如、入海の方へふらり、と黒田が倒れ掛かってきた。慌てて受け止め、その身体がずいぶんと熱いことに気がついた。

「え、ちょっと、黒田くん、聞こえる?」

だが、黒田は返事をせず、せわしない荒い息ばかりを繰り返していた。

「ああ、もう……」

こんなところで見捨てて帰れないじゃん、とつぶやいて、入海はひとまず黒田が着こんでいるずぶ濡れの喪服を脱がすべく格闘を始めた。

おぼろげながら意識があった黒田の協力を得て、着替えさせると、入海は彼が着ていたびしょびしょの喪服をハンガーにかけた。どこに吊るしておこうかと家の中を見ていると、風呂場に浴室用の物干し竿があるのを発見した。

「とりあえずここでいいか……」

雨が止んだところでクリーニングに出さないと、と思いながら、入海はこれからどうしようかと考えた。
入海の職業はFPだ。元々は税理士として働いていたが、独立して仕事を模索するうちにFPの資格も取って幅を広げていった。事務所は持たずに、オンラインもしくは小さな貸しスペースを利用しながら仕事を進めるスタイルだ。依頼主と会うことがなければ、比較的時間の自由はききやすい。そのため、行きずりに言葉を交わしただけの関係ではあるが、黒田の看病をしてやることもできる。

「あー……どうしよ。黒田くん、近くに誰か知ってる人住んでないのかな」

いきなり赤の他人に世話を焼かれるのも不気味だろうし、そもそも同居人がいるような家にいつまでもいるわけにもいかない。
そう決断して、入海は黒田に一声だけかけるべく、寝室に向かった。こんこん、と小さくノックをしてから入る。

「黒田くん、寝てる?」

そろり、となるべく音をたてないようにして部屋に入る。部屋の中はじっとりと湿った重たい空気が漂っていた。

「……寝てるか」

入海はじっと黒田を見つめる。声をかけてしまってから気がついたが、黒田は非常に入海の好みの見た目をしていた。短く刈り込まれた黒髪の下に、きれいな二重を描く目、しっかりと鍛えられている身体。おまけに生真面目な雰囲気が透けて見える彼だからこそ、うっかり声をかけてしまったのだろう。

「黒田くん、悪いけど俺、帰るよ。ほかに誰か頼れる人、いないの?」

いきなり上がりこんじゃってごめんね、と言って入海が離れようとした瞬間、発熱して朦朧としている人間とは思えない力で手首をつかまれた。

「――海晴、どこに行くんだ」
「え、」

入海が戸惑っていると、黒田はぽつぽつと言葉をこぼした。

「事故にあって死んだなんて、やっぱり夢だったんだな。――よかった、夢で、」
「うわ、」

ぐい、とつかまれた手首を引かれてバランスを崩す。気がつけばベッドに倒れ込んでいて、目の前には黒田の顔があった。重ねて見られるくらい、自分はその人に似ているのだろうか、と思わず考えて、その考えを慌てて振り払った。

「ダメだよ、黒田くん。今、そんなことしたら絶対に後悔するから」

病人相手にどこまで伝わるかわからなかったが、拒否の意を伝える。すると、途端につかまれていた手首が放された。

「ダメか……」
「うん、ダメ。ちゃんと熱が下がったら話をしよう」

この時点で入海の中から〝帰る〟という選択肢はなくなっていた。喪服を着ていた理由も、誰が亡くなったのかも十分にうかがい知ることができた今、消耗している黒田を独りにしておくことはどうしても考えられなかった。
少しだけ穏やかになった黒田の寝息に安堵しつつ、入海は台所に向かった。冷蔵庫の中や戸棚に保存食があるかもしれないと思ったが、食料らしい食料がほとんどなかった。なにを食べて生活していたのだろうか、と思う。

「……そりゃ熱も出るよ」

ほとんど生活感を感じられない台所で唯一、ゴミ箱にゴミが入っていることだけが救いだったが、その中身も栄養補助食品やゼリー飲料ばかりで思わず天を仰いでしまった。

「緩やかな自死まっしぐらコース……」

今日が初対面の人間とはいえ、出会ってしまったものを見捨てることはできなかった。外の雨はまだひどいが、ひとまずコンビニで病人でも食べられそうなものを買ってくるかと入海は腹をくくった。