バニラ - 3/6

突然の同居は黒田の想定以上に静かで穏やかだった。
入海の生活は一般的な社会人のそれに近く、仕事はおよそ九時から十七時で終わる。たまに、顧客の都合に合わせて土日のどちらかに出かけたり、夕食後にリモートで話をしていたりするが、それの代わりの休みもきちんと取っているようだった。

「最初は仕事入れすぎて休みなくしちゃって。まあそれで恋人と別れることにもなったんだけど」

あはは、と入海は軽く笑ったが、黒田は笑えなかった。

「痛い目見てるから、今は大丈夫だよ。それより黒田くんの方が大変でしょ。もう少ししたら冬期講習だとか受験のサポートだとかで忙しくなるんじゃないの?」

予備校で働く黒田の生活サイクルは通常の勤め人とはやや異なる。お昼前に出勤して、帰ってくるのは大体日付が変わるころだ。おまけにストレスも多い生活だろう、と入海は推測する。

「物理を受験に使う生徒はそこまで多くないから大丈夫だ」
「本当に? その空いた時間を他の講師の代わりに雑務に当ててない?」

なんでわかるんだ、と思わず黒田が入海を見ると、入海は小さく噴き出した。

「わかるよ、黒田くんそういうことしそうだから」

とにかく、俺の方が先に帰ってくるし、時間的に買い物もできるから、料理はやるよ、と入海は押しきった。黒田にもう一度あんな食生活をさせるわけにはいかなかった。

「あ、ちょっと待ってよ。黒田くんの繁忙期と俺の繁忙期が大体同じなのか。……まあ、お互いにがんばろう」

繁忙期が見えないよりはいいよね、と入海はポジティブに言った。

「あと黒田くん、俺から一つだけお願いしてもいい?」
「なにを?」
「煙草は、なるべく、控えめに」

息抜きなのはわかるけどね、と言いながら入海は黒田の胸ポケットを指さした。

「……善処する」
「そんな政治家の答弁みたいな文言が聞きたいわけじゃないんだけど」

まあ、しょうがないか、と入海は言った。煙草を吸えない年齢の生徒たちがいる手前、予備校での喫煙もよくないのではないか、と思ったが黙っておいた。

「買い物したときは、なるべくレシートもらってきてこの箱の中に入れてね。そのあたりの計算も俺がするから」
「何から何までしてもらって申し訳ない……」

家計管理まで請け負ってもらってもいいのかと黒田は一瞬思ったが、本職の人間に任せるのが一番だという結論をすぐさま出した。

「そこはありがとうって言ってくれた方が俺は嬉しいよ」
「……ありがとう、渚さん」

下の名前で呼んでほしいと言った入海の言うことを黒田は素直に聞いてくれた。落ち着いたトーンの声が柔らかく名前を呼ぶことが嬉しい。

「うん」

入海は黒田の言葉に嬉しそうに笑った。

 

 

そんな生活を送っていたある日の午後、来訪者がインターホンを鳴らした。たまたま入海は在宅で仕事をしており「黒田くんの荷物かな」と思いながら、玄関に向かった。

「お待たせしまし、た……?」

印鑑を持って玄関を開けた入海は、そこにいた女に言葉を失った。一瞬、迷ったがすぐに口を開く。

「どちら様でしょう?」

宅配業者でもなければ、入海の知り合いでもなかった。少し疲れたような雰囲気の女は写真で見た黒田の元恋人によく似た顔立ちをしていた。

「藍川の姉です」

長い黒髪を真っ直ぐに下ろしている女は、美しかった。美しい顔立ちが少しだけやつれているので、余計に人目を引くだろう、と入海は思った。

「僕は、黒田の親戚です。その、かなり気落ちしていたものですから、心配でしばらくこちらに滞在しています」

入海の言い訳に、そうですか、と藍川の姉は素っ気なく言った。

「それで、なにか御用でしょうか? 黒田は出ていますが」
「藍川の荷物を引き取りに来ました」

その言葉に思わず入海は眉をひそめた。藍川の荷物は入海に任されており、ほとんど片付いているが(黒田にも「俺がやるといつまでも進まないから」と全面的に任されている)、それを彼女が知っているのだろうか。

「あの、それは黒田からの依頼ですか?」
「いいえ。なぜあの男の名前が出てくるの?」

血を分けた弟なんだから、死んだら私たちが後始末をつけるのは当然でしょう、と彼女は言った。

「家に上げていただけますか?」

言葉こそ丁寧だったが、当然上げてくれるだろう、という響きをまとったその言葉に入海は首を横に振っていた。

「――お断りします」

どうして、と訊ねる彼女に入海はもう一度「お断りします」と告げた。

「どうしてあなたが拒むの?」

理由を問われると確かに弱い。だが、黒田を傷つけることはしたくないと思った。

「それにお答えする前に、僕からもお訊きします」

――黒田を葬儀に呼ばなかったのは、なぜですか。

黒田と藍川は間違いなくこの家で一緒に生きていた。生前の藍川を一番知る黒田を呼ばない理由はなにか、と訊ねると女は小さく鼻で笑った。

「あの男が海晴を殺したから」
「殺した?」

死因は事故死だと聞いていた入海は眉をひそめた。

「海晴がどうして死んだかご存知ですか? 黒田と喧嘩をして家を出たんですって。そして交通事故にあって……即死だった」

喧嘩をすることがなければ、きっと藍川が家を出ることもなかった。病院の霊安室で遺体に対面した黒田はひたすらに謝り続けていたと彼女は言った。

「それは、黒田のせいでは……」
「本当にそう言い切れる? 直接の原因はもちろん交通事故だけど、その間接的な原因を作ったのは間違いなく黒田よ」

彼女の迫力に押されて、入海は黙り込んだ。女は入海を見て、もう一度訊ねた。

「さっきの質問に答えて。どうして、あなたが拒むの?」
「――黒田の心に土足で踏み入るようなことをしてほしくないからです」

入海の言葉に女は目を細めた。じっと値踏みするような視線で入海を見つめる。そんな彼女の視線に耐え切れなくなって、入海は次の言葉を発した。

「僕が責任をもって、全部まとめて送らせます。だから、今日は申し訳ないですが、お引き取りください」

入海は頭を下げる。女は入海を見つめたまま、不意に口を開いた。

「――ところで、あなたは違うの?」
「え?」
「あなただって、海晴を亡くしたあの男の横に勝手に並んでいるだけじゃないの? あの日、私、見たのよ。あなたが、黒田に声をかけるところも」

葬儀場の近くまで来て、呆然と立ち尽くしている黒田を見た、と女は言った。そして黒田に声をかけた入海も見ていたが、親戚の雰囲気ではなかったとも。

「あなたが本当にあの男の親戚かどうかは知る必要がないけれど、そうだとしてもそうでないとしても、あなただって、傷心のあの男につけこんだんでしょう?」

女の言葉に入海は冷や汗をかく。どこまでを見て、どこまでを知っているのだろうか、と思うが、ここはどうしても帰ってもらいたかった。女は黙ったままの入海に美しく笑いかけ「黒田さん、魅力的ですもんね」と言った。その瞬間、入海は自分の完全なる敗北を悟った。彼女は鞄からメモ用紙を出して入海に渡す。

「荷物はここに送ってください」

帰ります、と言って女は踵を返した。さらり、と長い髪が風になびき、コツコツという足音がどんどん遠ざかっていく。その音を聞きながら入海は大きなため息をついた。

「黒田くんに言えないよなあ……」

どうしよう、と入海はそのままずるずると玄関にしゃがみこんだ。女の言ったことは一々当たっていて、入海がごまかしていた部分にすべて光を当てられてしまった。

「潮時かな」

黒田と暮らし始めて約二か月。黒田の生活も安定してきて、時折笑うようにもなった。藍川の荷物も、ほとんど片付いて、あとは封をすれば送れる状態になっている。これ以降はきっと黒田に任せても大丈夫だろう。

「うん、そうしよ。きっと大丈夫」

大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせるように何度も繰り返して、入海はのろのろと立ちあがり、やりかけの仕事に戻っていった。