バニラ - 4/6

「渚さん?」

その夜、黒田が家に帰ってみるとまだ部屋の灯りがついていた。いつもは黒田の帰りを待たずに眠っているのに珍しい、と思いながら黒田は入海に声をかけた。

「おかえり。今日はちょっと話したいことがあって待ってた」
「わかった」

着替えてくる、と言った黒田を入海は見送った。その間にもう一度、黒田に言うべきことを胸の内で反芻する。

――そろそろ出て行こうかなと思って。

うまく黒田に伝わるだろうか、昼間の話をどこまでうまく話せるだろうか、と考えているうちに黒田は戻ってきた。

「なにか、心配な出来事があった?」
「なんで?」
「いや、なんとなく。俺は人に目を配るのが仕事だから、その勘」
「……そっか」

好きだなあ、と手放しに入海は思った。予備校の講師の仕事がどのようなものか入海はよくわからない。だが、基本的に勉強のみを目的とした施設で、教えるのが仕事、ではなく人を見るのが仕事、と言い切れるのは稀有ではなかろうか。

「それで、本題は?」

心配なことがないならいい、と黒田は言った。入海は「単刀直入に言うけど、」と前置き、すぐに本題を切り出した。

「その、そろそろ出て行こうかと思って」
「え、」

入海は藍川の荷物整理が終わったことだけを告げた。あとは、遺族の元へ送ればいいだけになっていることも付け加える。

「どうしてそれが出て行く理由になるのか言ってほしい」
「なるでしょ。だって、もう俺がここにいなくても黒田くんの生活は回るし、」

大丈夫でしょ、と続けた言葉は空しく響いた。愛した人間を亡くしてからたった二か月でその傷が癒えるとは少しも思っていなかった。

「渚さん」

黒田は入海の手をつかんだ。そして、真っ直ぐ目を見て言う。

「今日、何があった? 俺に全部教えて。さっき言ったことだけじゃなくて、まだ俺に言わないといけないことがあるはずだ」
「ないよ」
「嘘だ。渚さんは気づいていないかもしれないけど、嘘をつくときはいつも俺を見ない」

黒田の指摘は一々もっともで、入海は黙ってその指摘を受け入れた。そして、黒田に問いかける。

「黒田くん、本当に聞きたい? 俺は言いたくないんだけど」
「聞きたい」

間髪入れずに答えらえて、入海は渋々昼間にあったことを説明する。もちろん藍川の死因を聞かされたことと、自分が藍川の姉に完敗したことは省いて。黒田をいたずらに傷つける真似はしたくなかった。

「……渚さん、」
「なに?」
「他に、何か言われなかった?」

こういう時だけ勘が冴えるのも考えものだ、と入海は思う。そして、入海自身も開き直ることにした。

「言われたよ。でもそれ、黒田くんに言う必要ないよね? だって、俺たちはお互いの生活や人間関係に口出しできるような関係じゃないし、そんな義務や権利が発生するような関係でもない。そうでしょう?」

そう言って、入海は黒田に微笑みかける。

「俺のこと、ひどい人間だって思ってる?」
「それで思わない方がどうかしてる。……どうして、俺に好意を向けているくせに、そんなことを口にするんだ」

その言葉は入海の心の柔らかい部分を引っかいた。一体いつから。ずっと取り繕っていた自分が道化じゃないか、という気持ちがせり上がってくる。

「いつから、」

気がついていたの、と口にする前に、黒田が答えた。

「……最初に、同居の話をしたときから」

黒田に向ける入海の視線があまりに柔らかくて優しかったから。それだけで気がつくには十分だった。

「俺も、最初は気がつかないふりをしてた。でも、今は違う。まだ、完全に海晴のことに整理をつけたわけではないけど、ちゃんと、俺も、」
「聞きたくない」

黒田の言葉を入海は遮った。これ以上の言葉は聞けなかった。

「俺、勝てない勝負はしたくないの。だからこれ以上の言葉は聞かないし、ここは出て行く。今まで楽しかったよ」

そう言って部屋を出ようとする入海の腕を黒田はかろうじて捕まえた。

「ッ、放せって!」
「いやだ」
「放せよ、頼むから!」

入海は黒田の手を振りほどくと、これで最後だ、と言った。

「これからもっとひどいこと言う。黒田くんにとっての海晴くんに負けたくないから、俺は出て行く。彼はもうずっとこれから黒田くんが死ぬまで、黒田くんの一番のままで、思い出はどんどんキレイになって、キレイなままでずっと黒田くんの中にいるんだよ」

せっかくキレイに終わらせてやろうと思っていたのに台無しだ。
入海は鼻をすすって、続きを口にする。

「俺がここで泣いても、駄々こねてもそれだけはどうにもならない。勝てないっていうのはそういうことだよ」

入海は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を乱暴に手の甲でぬぐった。黒田は入海を見つめたまま口を開いた。

「……俺は、ずっと渚さんに救ってもらっていた。まだ、完全に整理がついたわけではないから、もう少し待ってほしい」

だが黒田の言葉に、入海は冷たく言葉を返す。

「もう少しっていつまでのこと言ってるの。待ってたら、黒田くんは俺を一番にしてくれるの」

違うよね、と入海は言った。入海が黒田の中に残るには、きっと藍川と同じように死ぬしかない。だが、その結末は入海自身が選ばない。結果として、同じ終末を迎えるなど癪に障るどころの話ではない。そうなったとしても、入海は永遠に黒田の中の〝二番目〟だ。

「これ以上ここにいたら本当に取り返しがつかなくなるから、一回家に帰る。ごめんね、仕事帰り早々にこんな話して。黒田くんにはもっと素直で、こんな面倒なことを言わない人が似あうよ」

傷つけたくないと思っていたはずなのに、きっと入海の言葉は黒田をひどく傷つける。そのことに対して申し訳ないと思った。

「ごめんね、あの時出会ったのが俺で。……もっといい人になりたかった」
――おやすみ。

黒田が気がついたときには玄関が閉まる音がしていた。追いかけてもどうしようもないことがわかっていた。入海をどうしようもなく傷つけてしまったのに、入海は黒田を傷つけるようなことを言って自らを悪役とした。

「……渚さん、」

自分は入海の家の在り処すらも知らないのだ、と思い知らされて、黒田は愕然とその場に立ち尽くした。