バニラ - 5/6

――大人げないことをした。

一晩経って入海は昨日のやり取りと自分の行動を悔いていた。本当は自分が堪えてもっと円満に解決するべきだったのだと今さらながら思うが、時間は戻らない。いずれ黒田の家に置いてある自分の荷物も取りに行かねば、と思いながらあてどなく歩いていると、見覚えのある建物の前にたどり着いていた。

「あー……しまった」

つい、足を向けてしまったのは黒田の勤め先である予備校の前だった。

「……どうしよう」

子供の迎えでもなく、講師でもない入海が足を止めるには不自然すぎる場所だ。ただ、黒田に一言詫びたいだけなんだけど、どうしようかなあ、と入海が思っていると、背後から声をかけられた。

「あれ? こんなところでどうしたんですか? また黒田先生にお届けもの?」
「うわっ」

驚いて入海が振り返ると、そこには以前黒田に忘れ物を届けた際に顔を合わせたことのある男性が立っていた。初めて出会ったときは、加納《かのう》という名札を首からかけてかっちりとした格好をしていたが、今日は少しだけカジュアルな服装だった。

「あ、違いました?」
「……あーえっと、はい。今日は違います。あの、俺ってそんなにわかりやすいですか?」

黒田といい加納といい、入海を見ただけで訊いてくるのだからたまったものではない。あまりわかりやすい、と言われたことがない入海にとっては不可解だった。

「いえ、どちらかというとわかりにくい方です。でも職業柄、ほぼ毎日何十人という生徒と顔を合わせるので」

なんとなくわかっちゃうんですよね、と照れたように言う加納に入海は毒気を抜かれた。

「そうですか」
「なんだか疲れて見えますけど、黒田先生と喧嘩でもしたんですか?」

問いかけられて言葉に詰まる。喧嘩と言われてみればあれは喧嘩だったのかもしれないが、あれは一方的に入海が黒田を傷つけただけだ。
黙ってしまった入海に加納は少し考えていたが、よし、と言って手をたたいた。

「お昼、まだなら一緒に食べませんか? このあたりに住んでるので、大体なんでも案内できますよ」
「いや、それは悪いので。今日もお仕事でしょう?」
「今日は休みなんです。ちょっとコンビニにでも行こうかなーと思って歩いてたところなんで、ね?」

茶目っ気たっぷりに笑う彼は、どこか若いときの自分に似ている、と入海は思った。自分の気分転換も兼ねて彼の誘いに乗ってみるのも悪くないな、と結論を出して入海は加納に「じゃあ、お言葉に甘えて」と答えた。

「嫌いなものありますか?」
「特にはないですよ」

アレルギーもないよ、と伝えれば加納はわかりました、と言ってしばらく考え、

「こっちに行きます」

と宣言して歩き出した。

 

 

加納が案内してくれた店は細い路地を抜けた先にある小さな民家だった。

「ここ、穴場なんですよ」

僕が学生の時から使ってて、いい場所ですよ、と言って加納は我が家に帰るかのような気安さで店のドアを開けた。その中は入海が想像していた以上に広く、民家のように見えるのは外見だけだった。天井が高く取られており、自然光がまぶしすぎず注ぎ込んでいる。いらっしゃいませ、と出迎えた中年の女性の声が加納を見たことで「あら久しぶりね」と気安いものに変化した。

「今日は一人じゃないの?」
「たまたまね。今日は二人の気分」
「まあ珍しい。明日は雪ね」

降らないって、と笑いながら加納は入海を先導して歩いた。どうやら加納の指定席があるようで、彼は店の奥の方まで歩くと、二人用のテーブルを手で示した。

「好きな方にどうぞ」

と言うので、入海は遠慮なく店の入口が見えるほうに座った。その向かいに加納が座る。昼のメニューは三つだけなんだけど、全部おすすめですよ、と屈託なく言う彼に入海はどれどれとメニューを覗き込んだ。季節の丼、ハヤシライス、サンドイッチがメインとして置かれているようだった。

「じゃあ、これで」

昨日からあまり食欲がないままだった入海は一番軽いメニューに見えたサンドイッチを指さした。加納はわかりました、と言って、店主の女性を呼び、注文を済ませた。

「で、本当に黒田く……あ、黒田先生と喧嘩したんですか?」

加納が呼び方を訂正したことで、本来彼らは気安く呼び合う仲なのだろうと入海は推測した。

「俺は別に生徒でも保護者でもないから、加納さんが呼びやすい呼び方で黒田くんのこと呼んでよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。僕ら講師採用された年が近くて同期みたいなもんなんですよね。あと僕はあなたのことをなんと呼べばいいですか?」

そう言えば、名前聞いてないなって思って、と言う加納に入海は自らの非礼を詫びると同時に、名前も知らない人間を食事に誘う加納のフランクさに笑いが込み上げた。入海が名乗ると加納は「ああ、黒田くんが言ってた『渚さん』ですね」と言った。

「聞いてた?」
「少しは」

――黒田くんって職場で私生活の話するんだなあ。

思わず感心していると、加納が「お名前からてっきり女性だと思っていました」と言うので「よく言われる。音だけ聞いてもそうだし、漢字で書いてもそうだよね」と入海は返事をした。

「話を戻しますけど、黒田くんと何かあったんですか」

加納は流されずにきちんと軌道修正をしてきた。その問いにどう答えるべきかしばし逡巡し、俺が一方的に傷つけたんだ、と入海は言った。

「一方的に」
「そう」
「喧嘩ってどちらが悪いって話でもないと思うんですけど」
「喧嘩ならね。あれは一方的に俺が悪い」

わざと黒田が傷つく言葉を選んで傷つけたのだ、と入海がありのままを吐露すると加納はそうですか、と言った。

「あの、前から確認しようと思ってたんですけど」
「なんでしょう」
「入海さんって、今黒田くんと一緒に住んでるんですよね」
「正確には住んでた、ね。昨日出てきたから」
「それっていつくらいからですか」

加納の問いの意図がわからず、入海は首を傾げつつ答えた。

「二か月くらい前からかな」
「やっぱり」

そっか、そうだったんだ、と一人納得する加納に入海が説明を求めようとした瞬間、二人の前には昼食が運ばれてきた。加納が注文した季節の丼は想定内の量だが、入海が注文したサンドイッチは想像した量の三倍はあった。

「たくさん食べてね」

と朗らかに告げて中年の女性は伝票を置くとまた厨房へ帰っていく。入海がにボリューム満点のサンドイッチを前に困っていると、加納がケラケラと笑った。

「初見だとわかんないですよね」
「……それ、先に言ってほしかったなあ。三十半ばの俺にはキツイよこの量」
「じゃあ、ボクがちょっともらいます」

ちょっとと言わず半分くらい食べてよ、と言って入海はふんわりとした卵サンドをつまんだ。ピリッとのきいたマスタードが美味だった。

「美味しいでしょ。落ち込んでいるときって美味しいもの食べると元気になるんですよ」
「そうだね」

その意見には素直に同意できたので、入海は二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。

「ちょうど二か月くらい前かな。黒田くんもここに連れてきたことがあるんです」

その言葉に入海はぴたり、と動きを止めた。

「元々あんまり喜怒哀楽を外に出す人じゃなかったけど、その当時は……なんていうか覇気がないというか生気がないというか。とにかく、どうしようもない感じだったんで、無理やり引っ張ってきたんですけど」

加納は丼の中身を着々と減らしつつ話を続けた。

「結局あんまり食べられないまま帰っちゃって、ちょっと後悔してたんです」
「どうして」
「今にも黒田くんが死にそうだったから。あとで恋人を亡くしたって本人から聞いて、合点がいきました。だから、職場に来ている限りはボクがなるべく気をつけて見ていたんですけど」

日に日に顔色が悪くなっていく黒田を見ながら、自分ではどうしようもないなあ、と加納が途方に暮れていたところ、再び黒田に生気が戻っていった。

「ちょっとずつ元気になっていってまたボクともご飯食べに行ってくれるようになったんです。少しずつですけど、入海さんの話もしてくれたし。黒田くんが頼れる人が傍にいてよかったな、ってボクは思いました」
「頼れる、人……」

ただの他人だったのに、あの日たまたま八割の心配と二割の下心から声をかけただけだったのに、と入海は思う。加納はそんな入海を見て言葉を続けた。

「だから、どこでどう出会って、なにをしたかなんて関係ないんですよ。黒田くん、不器用だからちょっと後ろめたい気持ちとか、入海さんに遠慮する気持ちとかあるのかも。でも、多分ちゃんと入海さんのこと信頼してるし、心開いていると思うから、もう少し待ってあげてくれませんか」
「待つって、なにを」

今さらなにを待つのだろう、と思う入海に加納は笑った。

「ボクが言っていいことじゃないんで、言いません」
「……俺も答えがほしいわけじゃないから訊かないことにする」

入海の答えに加納は満足そうにうなずいた。そして、二人でも食べきれないまま置かれているサンドイッチを指さして「包んでもらえるように頼んでみるので、持って帰りませんか」と訊ねた。

「謝るにしても謝らないにしてもきっかけになると思うんで。それと……大きなお世話だとは思うんですけど、今日は黒田くんの家に帰ってあげてください」
「……何から何までどうも」

加納がどこまでなにを知っているのか訊ねてみたい気持ちもあったが、寸でのところで入海は堪えた。久しぶりになんの気負いもなく話せた相手に対してわざわざそんなことをしなくてもいいと思った。

「また一緒にご飯食べましょう」
「気が向いたらね」

今日はありがとう、と言って入海は二人分の食事代を支払った。