バニラ - 6/6

その夜、黒田が家に戻ってみると、家の電気がついていた。消し忘れて家を出たかと思ったが、玄関に見覚えのある靴があった。大慌てでリビングまで行くと、入海が振り向いた。

「おかえり」

昨日はごめんね、と言って彼は眉尻を下げた。

「着替えておいでよ」
「……」
「? 黒田くん?」

不思議そうに首を傾げた入海を黒田は力の限り抱きしめた。

「んぇ? どしたの……いや、待って、痛い痛い!」

背中に回された黒田の手は、遠慮なく入海をぎゅうぎゅうと締め上げた。入海が少し力をゆるめてよ、と肩をたたくと、少しだけ緩んだ。

「心配した」

その一言に、入海は「連絡しなくてごめん」と謝った。

「もう帰ってこないかと思った」
「……それも、ごめんね」

黒田の言う「もう帰ってこないかと思った」は、入海が家を出た状況が藍川との別れに酷似していたからだと入海は理解して謝った。

「昨日一晩考えたけど、やっぱり俺は渚さんが好きだ」

ぽつ、と黒田が言った。正面から抱きしめられたままなので、入海から黒田の表情は見えなかった。だが、見えなくてよかったと思った。

「うん」
「今の状態の俺に好かれても渚さんはいやかもしれない。でも、俺がちゃんと考えて出した結論を否定しないでほしい」
「うん、わかった」

入海はそう言って、初めて黒田の背中に手を回した。そのまま黒田の背中をゆっくりと手でなでさする。

「あと、」
「ん?」
「勝手に、渚さんの気持ちを口にしてごめんなさい」
「……いいよ。いずれわかることだと思ってたしね。俺こそ、ずっと何も言わなくてごめんね。言ったら、黒田くんとの生活も終わりかと思ってたから、言えなかった。あんまりいい出会い方じゃなかったし、弱ってた黒田くんにつけこんだみたいになったかな、って気持ちもあったし」

でももっと早く言えばよかったね、と入海は言った。再び黒田の腕に力がこもったが、入海はじっとしていた。肩口がじわり、と湿る。

「最初に会った時から好きだったよ」
「……いまは?」

過去形に反応した黒田がズビズビと鼻をすすりながら言った。

「今も、ちゃんと好きだよ」

そして、少しだけ考えて付け加える。

「これから先、……生きてる人間の中で俺を黒田くんの一番にしてくれたら嬉しいな」

きっとこれから先、もう少ししたら、黒田と彼が好きだった人間を一緒に抱いて歩いて行けると入海は思った。

 

しばらくして、ようやく入海を開放した黒田の目は真っ赤だった。

「渚さん」
「なに?」
「時間の合うときでいいから、もっとたくさん話がしたい」

黒田の言う話とはなんだろうか、と入海は思った。

「渚さんの話も聞きたいし、俺の話も聞いてほしい。中身は、なんでもいいから」
「なんでも」
「そう、なんでもいい。好きなものの話とか、苦手なものの話とか。これまでの人生の話とか」

入海は黒田の言葉をしばらく考えていたが、やがてわかった、と言った。

「じゃあ、俺から黒田くんに話してほしいことを先に言っとく」
「うん」
「一つ目は、黒田くんが教えてる物理の話を聞きたい。俺、あんまり興味持てなくて面白くないなって思ったまま大人になっちゃったから、その意識が変わるような話が聞きたい」

入海の言葉に黒田は「がんばってみる」と答えた。今彼は懸命に入海の興味を引くような物理の話を脳内で探しているのだろう。そこに入海は「もう一つは、」と言って付け加えた。

「海晴くんとの話を聞きたい。多分、黒田くんの口から聞けたら、俺はその思い出ごと黒田くんを愛せると思うから。でもこれは、黒田くんが話したいって思ったときに少しずつ言ってくれたらそれでいいと思ってる」

だめかな、と入海は訊ねた。黒田は黙ったまま口に手をあてて考えていた。

「一つだけこちらから条件を提示しても?」
「うん」

俺ができそうなことにしてね、と言う入海に黒田は思い切って言う。

「俺のことも、下の名前で呼んでくれたら、俺も話をするって約束する」
「……それは、いいけど、条件そんなことでいいの」
「俺にとってはそんなことじゃない」

ずっと距離を置かれているみたいでいやだった、と言う黒田に入海はぐらりときてしまう。そんな可愛いことを言われたら、頑なに名字で呼んでいた自分の意地などするり、とほどけてどこかに行ってしまった。

「葵生《あおい》くん、って呼んだらいいの?」

入海の問いかけに黒田は嬉しそうにはにかみながらうなずいた。そして、入海に話してほしいことがあると、彼は言った。

「俺も、渚さんの昔の恋人の話、聞きたい」
「……ロクな話がないよ?」
「うん。それでも聞きたい」

お互いの事なんも知らないんだから、これくらい話しても多分まだ足りないよ、と黒田は言った。

「そうかもね」

ただ、これまでの話と同じかそれ以上にこれからの話をしよう。
二人手を取って生きていくのに絶対に必要になる話だ。手と手を取り合って、一歩を踏み出していけるような、そんな前を向いて、未来の光に目を細めるような話をしたい。
入海の言葉に黒田は目をしばたたかせた。入海は黒田に向けて微笑み、さて、と声を出した。

「今度こそ、手洗ってきて。何か軽く食べてから寝よう」

入海の言葉に黒田は素直に洗面所に足を向けかけ――くるり、と振り向いた。

「渚さん」
「ん?」
「戻ってきてくれてありがとう。おかえり」

俺から言ってなかったと思って、と言う黒田に入海の左目からぽたり、と一滴の涙がこぼれた。
蛍光灯に照らされたしずくは美しくきらめきながら重力に逆らわず、床に落ちて行った。

【END】