その屋敷には教授と呼ばれる男性とお手伝いの人が何人か住んでいた。
教授、というのは決してあだ名ではなく、きちんと博士号を取得して、帝都大学で研究をしている〝教授〟だった。通常であれば大学での研究が主になるはずだが、体調との兼ね合いで研究の拠点をこの屋敷に移していた。
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「やあ、高尾《たかお》さんおはよう。今日も体調はよさそうだね」
私の朝は教授のこの一言から始まった。慈善事業《じぜんじぎょう》、というそうだが、教授は私のような境遇にあるものを引き取って屋敷に住まわせていた。教授は朝一番にラジオ体操をして、庭を散歩したのちに私たちに必ず話しかけた。教授はいつでも機嫌よく、私たちに話しかけてくれて、私たちもそれになるべく元気に答えるようにしていた。
「教授、今日もご機嫌で元気そうね」
私の隣にいた小磯《こいそ》がシャラシャラと笑いながら言った。私はそれに「いつも通りね」と返事をした。私と小磯が話している間に教授は別のところに行ってしまった。この屋敷にはたくさんいるから教授は大変だ。
教授は一通り私たちに朝の挨拶をすると、少し早い朝食を摂りに行ってしまった。私たちの食事はもう少しだけあとだ。
「教授、今朝は何を召し上がるのかしら」
「いつもと同じだと思うけれど」
教授の生活はきっちりルーティーンが決まっている。朝ごはんはお米とお味噌汁派。昼ごはんにはお肉や卵といった洋食、夕ごはんは朝と同じお米とお味噌汁。教授はなんでも美味しそうに食べた。教授はおそらく食いしん坊でもあると私は思っているが、なぜか彼はいつ見てもスリムなままだった。
教授は朝ごはんを食べたあと、書斎にこもって研究をする。その集中力たるや、すさまじいもので、平気で寝食を忘れてしまうほどだ。教授に伴侶《はんりょ》がいたときにはその女性がお世話を焼いていたと聞いたが、その女性はすでに他界している。だから今はお手伝いさんが何人かいるのだそうだ。
「あーあ。またこれで夕方までお顔は見られないのね。寂しいわ」
小磯は寂しい、と素直に口にした。確かに日中の私たちは、私たちだけで過ごすほかなく、寂しい上に暇だ。
「……慣れれば、平気よ」
小磯の言葉に私は同意しなかった。本当は嘘。いつでもずっと教授のお側で彼を見ていたいと私は思っている。小磯のように素直に口に出せたら、なにか変わるのだろうか。
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そんな生活を送ること数年、突然教授の研究が世間から注目を浴びた。私にも小磯にも他のひとにもわからないその難しい研究を教授は無事に形にすることができたらしい。教授はお屋敷にいる時間よりも大学に行く時間の方が長くなってしまった。
「もう三日もお顔を見ていないわ」
今日も小磯は私の隣でぶつぶつと文句を言っていた。私は「仕方ないでしょう」となだめた。
「教授が活躍されるのを見るのは私たちも嬉しいじゃない」
「でも」
小磯は少し言いにくそうに言葉を切った。
「でも?」
「最近見かけるたびにお顔の色がどんどん悪くなっていっていると思うの。心配だわ」
高尾もそう思うでしょう、と小磯に言われて私は同意した。そしてそれに一言付け加える。
「教授がご飯を召し上がる姿が見たいわ」
「ええ」
教授の挨拶から始まる一日を私たちは気にいっていたのだと気がついたのとはその時だった。他愛もない話をする教授は研究をしているときの真剣な姿とは打って変わって少年のようなキラキラとした目で話をした。その声を思い出そうとして――まだ三日しか経っていないのにうまく思い出せないことに気がついた。
「私、教授がお話してくださる声がよく思い出せないわ」
そう言った声は自分で思った以上に暗い響きをまとってしまった。小磯が心配そうに私を見た。
「……高尾だけじゃないわよ。私も、毎日お声を聞いていたはずなのになんだかうまく思い出せないの」
「そう」
私はその後もとりとめもない話を小磯と続けながら、教授が早く毎日このお屋敷にいられるようになったらいいのに、と願った。
○
教授が毎日このお屋敷にいてくれる、という状態は私が願ったのとは違う形で叶った。あちらこちらへと忙しく移動を続けていた教授は無理がたたってお屋敷に戻ってくるしかなかった。教授は前よりも身体を動かしにくそうにしていたし、私たちへと話しかけてくれる時間もうんと短くなった。
「これなら、いらっしゃらなかったときの方がよかったわ」
小磯はぷりぷりと怒りながらそんなことを言った。
「そんなこと言わないでよ」
「でも、私、教授の元気のないお顔を見るのはいやなの!」
「……それは、私もそうだけど」
「このまま教授がお元気にならなかったらどうしたらいいのかしら」
小磯がぽそ、とこぼした一言に私は背筋が凍る思いをした。教授がいらっしゃらないこの屋敷に居る意味はなくなってしまう。またどこかにもらわれることになるのだろうか。
「……その時は、私たちここを出て行かなくちゃならないのかしら」
「いや!」
小磯の悲鳴のような声に私は慌てて「しーッ!」と言った。
「まだ決まったわけじゃないのよ」
「それでも、そんなこと言われたらいやなのよ!」
小磯はそう言って私から顔をそむけた。こうなってしまうと小磯にはなにを話しかけても機嫌を直してくれない。私は諦めて小磯が機嫌を直してくれるまで待つことにした。待つのは得意だった。
○
教授は寒い冬の日に亡くなった。
その日は朝からずっとお屋敷全体に暗い雰囲気が立ち込めていて、私たちもなんとなく「死」を感じていた。小磯はずっと不機嫌で、私の声には一切答えなかった。
まんじりともせず時間を過ごしているとにわかにお屋敷の中が騒がしくなった。誰かを呼ぶ声、泣き声、悲鳴も聞こえる。きっと教授が亡くなったのだと私は直感した。
「……ねえ、小磯」
「なに」
小磯は私の方を見なかった。そちらの方が都合がよかった。
「私、教授のために最期にできることをしたいの」
「……わかった。私は止めない。高尾がしたいことをしたらいいよ」
小磯の声は震えていた。優しくて天真爛漫《てんしんらんまん》な彼女を悲しませることになるのはわかっていた。でも、私は、教授の最後のためにしたいことをする。
「ありがとう、小磯」
――私は、きっとずっと、教授を愛していたのね。
愛する人の最期の旅路をせめて彩りたい、と思ってしまうのは普通のことだろうか、と思いながら私は目を閉じた。
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その屋敷には教授と呼ばれる男性とお手伝いの人が何人か住んでいた。
教授、というのはあだ名ではなく博士号を取得して、帝都大学で研究をしている〝教授〟だった。通常であれば大学での研究が主になるはずだが、体調との兼ね合いで研究の拠点をこの屋敷に移していた。
そんな研究一筋の教授だったが、唯一の趣味が園芸だった。特に彼は椿をこよなく愛した。彼はあちらこちらで世話ができなくなった椿を引き取っては自宅の庭に植えかえていた。それは小さな椿園のようで、冬から春にかけて人々を楽しませていた。
――中でも彼が気に入って世話をしていた椿の品種は「高尾」と「小磯」といった。
「あれ」
教授が亡くなった翌日、慌てて地方から戻ってきた彼の息子は庭を見て疑問の声を上げた。その声に一番古株の使用人が「いかがされました?」と反応した。
「すべて花が落ちていますが、何かありましたか?」
息子は庭の一角を指さして言った。使用人は真っ赤でこぶりな花を全部落とした一株の椿を見て「いえ、旦那様が亡くなった以外何もありませんでしたよ」と答えた。
「……なんとも面妖ですね」
「ええ」
――まるで父の死を悼《いた》んでいるようだ。
息子はそう言って、庭の椿を小さく拝んだ。
今でもその屋敷は椿が溢れ、人々に愛でられている。しかし、ただ一株、高尾だけはいつまでも花をつけず、そこにあった。
【END】