治安という言葉がとっくの昔に意味をなさなくなった場所で年下の女と二人、過ごすのは傍から見ればひどく滑稽だろう。しかし、幸か不幸か、およそ可愛らしいという言葉からはかけ離れた容姿の女を女と見抜く人間は多くない。
「なに?」
人の声がさざめくコーヒーショップで湯気越しに目があった女が低い声で訊ねた。女の前にあるのは紙コップに入った真っ黒なホットコーヒーだ。正確にはホットコーヒーもどきの苦い汁であり、男はこの味が苦手だった。
「いや」
男は短く答える。すると女は「あ、面白い話をしてあげよう」と言って、男の返答はお構いなしに話し始めた。
「この間あんたのトモダチに訊かれた。私、あんたのオンナやってることになってんだって」
おかしくてしょうがなかったけどそうだよ、って答えてやった、と楽しそうに答える年下の女に振り回されてもう数年だ。
(――クソ、こいつ、俺の気も知らねえで。抱けるもんなら抱きてえよ)
ただ、少しでも生きるためにリスクのあることはすべきではない。この街で女が孕んで生きていける保障なんて一つもない。治安維持部隊なんて物騒な組織にいる二人にとってはなおさらだ。
「オガタをからかうのはやめてやれ。俺が苦労する」
「苦労するくらいどうってことないって前に言ってたのに?」
「あいつ相手だとどうってことあるんだよ」
ほら昼休みは終わりだ行くぞ、と言って男は立ち上がる。女は紙コップに入ったコーヒーもどきを飲み干すとすぐに着いてきた。
その動きは従順な犬を彷彿とさせて可愛らしい、と唯一呼べるところだと男は思った。
○
「オマエ、本当にカンナちゃんとデキてんの?」
その日の晩、別部隊の長を務めるオガタ――男と同期・同格である――からストレートにぶつけられた疑問に、男は飲んでいた安物の蒸留酒を吹き出しかけた。早速面倒事がやってきた、と苦々しく思いながら男は答える。
「デキてねえ。あいつのホラに騙されんなオガタ」
「ホラ、ねえ。あながち冗談でもないんじゃないの。だってさ、オマエら二人、傍から見てると他の男女バディよりちょっと色気あるように見えるんだよ。オマエはずっとカンナちゃん離さねえし、カンナちゃんはカンナちゃんでオマエにべったりだし」
べったり、という言葉に男は首を傾げた。あんなにさっぱりとしている女のどこにべったりという粘着質な言葉が入る余地があるのだろうか。
「気のせいだろ気のせい。それとな、あいつの身体、棒きれの方がまだマシだぞ」
その発言に今度はオガタが蒸留酒にむせた。
「オマエ時々すげえ問題発言するよな、なんで知ってんだよ。百歩譲って知ってたとしてもそれを俺に言うなよ」
「あ? 一度や二度くらいは怪我の面倒見るだろ。お互い様だ。それとな、」
「それと?」
「いらねえ苦労させたくねえんだよ。だから俺の横に置いてる」
「ふぅ――――ん」
棒きれの方がマシとか言うくせにホント素直じゃないな、と笑うオガタに男はイラッとする。しかし、オガタは急に声のトーンを落とした。
「まあでもさ、早めにどうするか考えた方がいいよ」
「何をだよ」
「カンナちゃんのこと。あの子、オマエのことちゃんと慕ってるよ」
オガタの発言に男は端正な顔の中心に思い切りしわを寄せた。
「冗談は顔だけにしろよ」
「オマエがな」
オガタは思う。
彼は知らないから言えるのだ。それだけ上手にカンナが取り繕っているからだということでもあるが、彼女はオガタの「本当にミツヤとは何もないんだね」という真剣な問いにこう答えた。
――私はあの人の右腕で、盾で、剣だから。
今までもこれからも何もない、と。
その時の表情がオガタは忘れられない。オガタが見てきた中で初めてと言ってもいい。彼女が見せた女の顔だった。
○
ミツヤとカンナの出会いは随分前にさかのぼる。ミツヤは治安維持部隊に所属し始めたばかりで、カンナは街のゴロツキ連中の一人だった。不意をつかれたとはいえ、後にも先にも警邏中のミツヤを投げ飛ばして追い詰めた人間は彼女ひとりだけである。
『いいなあ、お前。俺の懐刀にならねえか』
地面に背中をつき、腹部をカンナに踏まれた状態で声をかけたミツヤに、その場にいたオガタ(当時はミツヤの相棒であった)が大いに呆れかえったのは言うまでもない。そして、カンナの方もミツヤに褒められてまんざらでもなかったようで『いいけど、報酬はいくらくれるの?』と快諾したのだから始末に負えない。その夜のオガタの酒は大いに進み、翌日はひどい二日酔いに苦しんだというが、それは自己責任だとミツヤは叱った。
特に出会った当初は痩せていたが長身で、髪も短く刈り込んでいたため男にしか見えなかったカンナが女だとわかったときにはひと悶着あったが、それも昔の話だ。男だ女だという範囲を超えて、カンナは優秀な懐刀だった。
『……懐刀が本当に腹心の部下って意味だとは思わなかった。あんたを女として相手する意味が入ってると思ってた』
これは後のカンナのセリフであるが、当時の自分の容姿を振り返ってから言ってほしい、とミツヤは思う。今でこそカンナはあの時よりもしっかりと筋肉がついて、ミツヤが知る当時とは異なる身体をしている。棒きれ、と言ったのはもう随分前の身体についてだ。そして、今や彼女もミツヤも怪我をすることはほぼなく、互いの服の下を知る機会は皆無である。
――そんなことを考えながらミツヤが瓦礫とガラス片、そしてコンクリート片にまみれた街を歩いていると、先を歩いていたカンナが足を止めた。
「右に二、左に二、後ろに一」
ぼそり、とつぶやかれるのは物陰に潜んでいる人間の数だった。相変わらず獣じみた勘の良さである。治安維持部隊に抵抗を試みるゲリラ隊には往々にして遭遇していたが、それにしても最近は遭遇の頻度が高い。
「……またかよ」
うんざりする。支給されている刀に手をかけるカンナに「まだ抜くなよ」と声をかけてミツヤはカンナの横に並んだ。以前は銃が支給されていたが、すっかり疲弊してしまったこの世界ではもはや銃弾や火薬を作る場所がなくなってしまった。苦肉の策で支給されたのが刀剣である。
「もしもし、そこのお兄さんたち、今帰るなら見逃すが、どうする?」
無益な肉体労働をするのを避けようと声をかけてみるが、ミツヤの隣でカンナは首を横に振った。どうやら人の気配は去らないらしい。
「やれやれ、だ。抜いていいぜ」
「……今のはあんたの声のかけ方が悪いと思うけど」
あんなの、挑発にしかならないよ、と言いながらカンナは刀を抜いた。よく手入れされた美しい刀身があらわになる。それに触発されるように、男が五人、姿を現した。
「お互い様だ。お前も挑発しただろ」
「してない」
心外! という顔をするカンナにミツヤは苛立ちを覚える。無自覚に煽るのが一番性質が悪い。ミツヤも細身に造られた刀を抜いた。
「後ろは任せた」
「承知」
パッと飛び出していくカンナは舞うように刀を振るった。見るものが思わず見惚れるような美しさが彼女の剣にはあった。
戦意を喪失させることを優先するよう根気強くミツヤがしつけたことによって、無益に命を奪うことはしない。鮮やかな剣さばきによって一人、また一人と男が地面に膝をついた。そうして、瞬く間に五人とも呻きながら地面に伏せる。
「あっけなかったね」
血の一滴もついていない刀身を鞘にしまいながらカンナが言い、ミツヤは呆れた。
「また腕上げたか」
「うん、ちょっと前に、オガタがいい人を紹介してくれたから」
ふふ、と得意げに笑ってカンナはVサインをミツヤに突き付けた。
「はいはい、わかった。応援呼んでこいつらしょっぴくぞ」
ミツヤの指示にカンナは制服として支給された黒いカーゴパンツのポケットから、簡易拘束具を出した。ミツヤもそれにならって拘束具を取り出し、一番近くにいた男に使おうと屈みかけた瞬間、
――破裂音がして、焼けつくような痛みが大腿部にはしった。
アッと言う間もなく、バランスを崩して転倒する。視界の端に、オモチャのような造りの小型銃を持った男が逃げるのが見えるが、追いかけることはできない。
「ミツヤッ!」
次に視界に入ったのは顔面を蒼白にしたカンナだった。
「あほかッ、こいつらの拘束が先だ! お前がやれ!」
駆け寄って来ようとするカンナを怒鳴りつけ、ミツヤは何とか身体を起こす。貫通した銃弾は血まみれになって、ミツヤのそばに落ちていた。摘出がいらないという点では幸運だが、出血が止まりにくいという点では不運である。
(クソ、ぬかった……)
去り行く男の顔はすでにおぼろげだった。男たちの拘束を終えたカンナが緊急連絡用の端末のピンを抜く。ピンを抜くことが合図になって、治安維持部隊の本体に位置情報が送られるという優れものである。端末からは非常時であることを知らせるためのけたたましい音も鳴り響くが、ミツヤの耳にはひどく遠い音に聞こえた。
「絶対に死なせないから」
ミツヤが最後に聞いたのは、凛と響くカンナの強い声だった。
(後略)