日暮れが近くなり、徐々に書庫に光が入りづらくなったところで満碧と汀夏は仕事を切り上げた。昼間は暑いが、日が落ちると少しぬるくなった風が吹き渡る。
「……あの、汀夏様」
「なんだ?」
帰宅してすぐ、足洗の桶に足を入れながら、満碧は汀夏に話を切り出した。
「やはり、その……汀夏様にもお仕事がありますし、おれも調査は一人の方が集中できますので……明日からはまた一人にさせてはもらえませんか」
満碧の言葉に汀夏は厳しい顔をした。以前の満碧であれば機嫌を損ねてしまったかと心配しただろうが、今はもう杞憂であると知っている。汀夏が難しい顔をしているときは大抵自分の中の葛藤に折り合いをつけようとしているのだと理解していた。
「どうしても、一人でないとだめか」
そう言われると満碧としても弱い。どうしても、と言えるほどではないが、隣に汀夏の気配があると今一つ集中できないというのが今日の結論だった。
「その、隣に汀夏様がいらっしゃるのがいやだというわけではないのですが……」
言いながらだんだん頬がほてるのを満碧は感じた。きっと熟れたトマトのようになっているに違いない。ますます気恥ずかしくなって満碧は顔を伏せた。その様子を見て汀夏は苦笑する。
「わかった。私としても貴殿の仕事を邪魔するのは本意ではない。が、心配だ。西園寺も不用意に噂話を口にする人間ではないから、おそらくあれは本当の話だろう」
汀夏は再び難しい顔をして何やら考え込んでいたが、しばらくして顔を上げた。
「一緒に部屋に来てくれるか。渡したいものがある」
「はい」
二人は桶から足を出し、使用人が差し出した手拭いでおざなりに水分をぬぐった。慌てた使用人が「わたくしどもがやりますのに!」と悲鳴のような声を上げたが、汀夏は意に介さず手拭いだけを返した。
二人そろって汀夏の私室まで行くと、汀夏は部屋の中に満碧を招いた。もう自室と同じくらい見慣れた部屋に、満碧も遠慮なく足を踏み入れる。
汀夏は箪笥の中から何やら小さな木札を取り出して満碧に手渡した。
「これは?」
菊名橋家の家紋である十六剣菊が描かれた木製の護符を満碧はしげしげと眺めた。大きさは満碧の手のひらにすっぽりと収まってしまう程度であり、非常に小さい。呪物や護符の類には疎いと言っていたはずの汀夏がこのようなものを持ちだしてきたのは意外だった。
「気休めだが、菊名橋家の人間であると証明するための護符だ。昔は、守護神が憑いているとかなんとか言われていたが……おそらく今はただの木札だな。だが、万一の際にはきっと貴殿の助けになるはずだ」
「ありがとうございます。大事に持っておきますね」
満碧が感じられるのは呪いや邪気といった負の気配ばかりであるため、守護神が憑いているか(もしくはいたか)については、汀夏の言うことを信じるほかない。しかし、木札というわりにはどことなく温かみを感じられるような気がして、満碧は首を傾げた。
(もしかして、本当は今も何か憑いているのでは……?)
しかし、それを証明する手立てはなく、満碧はひとまずそれをありがたく押し戴いた。
それから数日後の昼下がり、心配する汀夏をなんとか説得した満碧は一人、書庫で文献にあたる。汀夏からもらった護符は、藤世が用意してくれた小さな巾着袋に入れて懐に忍ばせてあった。
今日の満碧は、汀夏の高祖父が残していた業務日誌――達筆すぎて読み進めづらいのが難点である――を紐解いていた。先日汀夏が述べたように、彼の高祖父の手記にはとある悪しき御霊――荒魂の調伏に当たった、という記述があった。その中の文字を指でおっていくと、見慣れない単語にあたった。
(オ、ロチ……大蛇?)
恨み荒ぶる御霊が大蛇の姿を取る、という話はこの国の各地に伝わっている。しかし、この日誌からはどこかに出かけた、という記述は読み取れない。
(もしかして、帝都の中で起きたことなのだろうか……)
百年前であればまだ幕府が統治していた時分である。神祇省の前身である部署は、朝廷の管轄であり(だからこそ菊名橋家は〝菊〟の名を得ており、家紋にも菊の意匠が入る)、江戸で活動をするのは骨が折れたはずだ。その記録が詳細に残っているとは考えづらいが、まだもう少し調査をしないことには、結論は出ない。わかったことを汀夏や西園寺に共有して助言を求めた方がいいだろう。
そこまで考えて満碧は手にしていた業務日誌を閉じて、天井を見上げた。採光用に開けられている窓からは抜けるほど青い夏空が見える。
(それにしても、今日は暑い……)
満碧は額に浮かぶ汗を手拭いでぬぐった。万一業務日誌に汗を垂らせば、台無しにしてしまう。そのため、こまめに汗をぬぐっていたが、それにしてもいつもより汗をかく量が多い気がした。
(水をもらってこよう)
体調を悪くして汀夏に心配をかけてはいけない、と満碧が足を一歩踏み出した瞬間、世の中がくらり、と揺れた。
(この、感覚は……)
松白家の一部の人間が得意とする人間を拘束するための能力だ、と頭の片隅で思う。浄化をはじめとする儀式の際に稀に暴れる人間を拘束するために使用されるものだが、それがなぜここに、なぜ今さら、と次々に疑問が浮かんでは消えて行った。
そして間違いないのは、今満碧の身にあまりよくないことが起きている、ということだった。
(――汀夏様を、心配させてしまう……)
そう思ったのを最後に、満碧の意識はぷつり、と糸のように切れた。
次に満碧が目を覚ましたのは、ひんやりとした硬い木の床の上だった。手の自由がきかない上に、目隠しをされているせいで、どこにいるのかはわからなかったが、鼻先をかすめる香りには覚えがある。
(……祓殿の香だ)
重く甘い沈香の香りの中に、わずかに丁子と樟脳が混じる。独特の調合であるそれは、満碧の記憶を呼び起こすには十分だった。
満碧は考える。自分の力が必要な事態が松白家で起きたのであれば、穏便に菊名橋家に連絡をすればよいはずだ。満碧と汀夏の関係は正当な婚姻関係にあるはずで、満碧が実家に一時的に帰っても何の問題もない。しかし、これは強引な連れ戻しであり、一体これから自分の身に何が起きるか予想すらつかなかった。
急に心細くなって満碧はぎゅっと膝を丸めた。体勢を変えたことで、懐に入れていた護符の存在を思い出し、満碧はハッとする。
(大丈夫、これがあるうちは、きっとなんとかなる……)
根拠のない自信だったが、落ち着きを取り戻した満碧は、これからどうするべきか、再び考え始めた。
(まずは誰かに居場所を知らせたいけど、知らせる手立てもない……。この家にいるのはみな、母や妹たちの味方だから、まず無理だ。神祇省の誰かが気づいて汀夏様に知らせてくれるのを願うほかないか……)
結局ろくな手立てが浮かばず、満碧は自分に腹を立てる。とはいえ、満碧の意識が戻っていると知られてしまっては何をされるかわからない。己の身の安全のため、意識を失っていた振りを続けることを満碧は選ばざるを得なかった。