「満碧?」
夕刻になり、帰宅しようと満碧を誘いにやってきた汀夏は、書庫に満碧の姿がないことに気づいた。用を足しに行っているのか、と思い、汀夏はその場で少し待つことにした。姿が見えないだけで不安を覚えるのは、自分の悪い癖だと汀夏は反省する。
(また満碧には心配し過ぎだと怒られてしまうな……)
内心で苦く笑う。満碧も幼い子供ではないのだから、あまり過保護にしてはならないと汀夏は懸命に自分に言い聞かせている。だが、自分より八つも下の彼を、どうしても庇護の対象として見てしまいがちだ。
「ん?」
ふと汀夏が書庫の床を見ると、和綴じの冊子が落ちていた。どこかから落ちたのだろうか、と思って拾い上げると汀夏の高祖父が残した業務日誌である。おそらく満碧が読んでいたものだろうが、なぜ床に落ちているのか、と疑問に思った。満碧は書物を雑に扱う性格ではなく、なんだか嫌な胸騒ぎがした。
おまけに、待てど暮らせど満碧が帰ってくる様子はない。汀夏は逸る気持ちを抑え、その場に書き置きを残して省内を探すことにした。
(満碧が知らない場所を自ら歩くとは思いづらいが……)
それでも可能性をつぶすべきだと判断して汀夏が歩いていると、前方から西園寺がやってきた。これ幸いとばかりに汀夏は西園寺に訊ねる。
「ちょうどよかった。ここに来るまでに満碧を見かけなかったか?」
「いや、今日は見かけてねえよ。なんかあったのか?」
太い眉を下げ、心配そうに訊ねる西園寺に汀夏は言葉を返す。
「帰宅しようと書庫まで迎えに行ったのだが、いなかった。しばらく待って一番近い手洗いも見てみたがいない。幼子ではないから心配しすぎかもしれないが……」
だが、どうにもぬぐいきれない違和感と胸騒ぎがする、と言った汀夏に西園寺は少し考えた後に「よし!」と声を上げた。
「満碧さんもあんまり冒険する性質には見えねえし、お前が心配する理由もわかる。俺がしばらく省内に残るから、お前は一回家に帰れ。もしかすると、何らかの事情でお前に伝言できないまま家に帰ったのかもしれん。家のことが確認できたらこっちに電話をくれ」
まだ当時では珍しかったが、菊名橋家には電話回線が引かれていた。西園寺の提案に汀夏は膝を打つ。
「ああ、わかった。すまない西園寺。恩に着る」
「いいってことよ。困ったときはお互い様。俺も困ったときにはお前に助けてもらうとするさ」
気風のいい西園寺の言葉に汀夏は頭を下げて、家路を急いだ。その姿を西園寺は険しい顔で見送った。
「……こっちも探してみるとするか」
今夜は家で、許嫁と食事を共にする約束をしていたが、残念ながら遅れそうだ。後日汀夏に埋め合わせの段取りをしてもらうくらいはいいだろう、と虫のいいことを思いながら西園寺はのしのしと廊下を歩いた。