第七話 黎明の道標(下) - 1/2

 さかのぼること数日。
 屋敷を出た汀夏が向かった先は、西園寺の許嫁が暮らす角倉家である。西園寺は、許嫁の高等女学校卒業を待って、角倉家に婿入りする予定だという。
 角倉家は、由緒ある公家の分家であり、家の格も非常に高い。現在は帝都一帯の警察署長を務めている角倉侯爵の力を借りることも視野に入れて、彼女の家を頼るのがよいのではないか、と西園寺が提案したことにより、本日の訪問が叶うことになった。もちろん西園寺自身も同席している。
 汀夏と西園寺を出迎えたのは、西園寺の許嫁たる千代子とその父である角倉侯爵だった。良家の子女として過不足ない装い、振舞いをする彼女が、今日に限っては不機嫌を隠そうとしていなかった。
「せっかく勇様にだけお会いできると思っていたのに、無粋ではございませんか?」
「こら、千代子、やめなさい」
 千代子は小さな唇を尖らせて汀夏に文句を言ったが、すぐに角倉にたしなめられた。千代子の機嫌がよくないのは、昨日の夕食の約束を反故にされているためであるが、残念ながら汀夏はそれを知らない。西園寺が汀夏に言うのをよしとしなかったためである。
「千代子さん、申し訳ない。俺が困っている友人を助けてやりたいのです。力を貸していただけませんか」
 西園寺が謝罪すると、千代子は困ったように眉を下げたが、その頬は赤く色づいていた。こほん、と小さく咳払いをすると千代子は言う。
「……ご友人想いの勇様に免じて、お話をうかがいます」
 どうやら、彼女はずいぶん西園寺に好意を寄せているようで、二人きりで会えなかったことへの不満よりも、友人想いの西園寺に惚れ直すことが優先されたようだ。尻に敷かれている、というのは西園寺の照れ隠しだな、と汀夏は思った。
 そして、一通り汀夏と西園寺の話を聞いた千代子は「あらぁ」と切れ長の目を丸くした。
「最近、松白家の真珠の君のお話を聞かなくなったと思っていましたけど、そんなことになっていらしたのですか?」
 聞き慣れない呼称に汀夏は「真珠の君?」とおうむ返しに言った。それには父である角倉が答えた。
「まあ、うちは別として……公家の血を引く家の大半は今でも祈祷やまじないを信じているから、定期的に松白家には世話になるはずだね。僕も知り合いがそう呼んでいるのを聞いたなあ。話がそれたけど、菊名橋くんは彼をどうしたいの?」
 角倉は千代子と同じく切れ長の目を細めて汀夏に問いかけた。汀夏は迷うことなく言い切る。
「私のもとに帰してもらいたいと思っています」
「力づくでも?」
「力づくでも。菊名橋家の籍にある者を勝手に彼らが攫っているのですから。先に力に訴えたのはあちらです」
 汀夏の言い分にふむ、と角倉はうなずいた。
「本来は身内の話です。公的な機関をはさまず、私と松白家で決着をつけるべきですが、すでに対話の道は断たれました。力を貸していただけませんか」
「……」
 汀夏の頼みに、腕組みをして考える角倉に、千代子が静かに言う。
「ねえお父様、もしわたくしがお父様にも勇様にも何も言わずいなくなったら、どう思われます?」
 その問いかけに角倉はしばらく渋い顔をしていたが、苦笑しながら組んでいた腕をほどいた。
「やれやれ、わかったよ。千代子に免じて力を貸そう。まあ、前から僕もあの家は気になっててね。いつか大々的な調査をしてやろうと思ってたんだ」
「……気になる、とは?」
 思わず口からこぼれてしまった疑問に汀夏はしまった、と思うが、角倉は茶目っ気たっぷりに「ナイショだよ」と片目をつぶってみせた。
「ま、僕らの方でも少し調べてみよう。調査が終わったところで連絡をするから少し待っててくれるかな」
「ありがとうございます」
 汀夏は深く頭を下げた。言うが早いが、角倉は立ち上がり「じゃあ、早速だけど出てくるね」と言って応接間を出て行った。出て行く際に、西園寺を見て「ゆっくりしてくれていいからね」と付け加えるあたりが、抜け目ない。暗に千代子の機嫌をしっかり取って帰るように、ということである。
「……相変わらず嵐のような人だなあ」
 話の途中では、特に口をはさまなかった西園寺がぽつり、とつぶやく。その言葉に、千代子はにこりと笑って言った。
「ええ、でもそこがお父様の素敵なところよ、勇様もよくご存じでしょう?」
「……それは否定しません」
 千代子と西園寺の縁談を驚異的な速さでまとめ上げたのも角倉である。余談だが、ぜひうちに来て娘の婿に、と乞われた西園寺は彼を「変わったお人だなあ」と思ったと言う。
「なにはともあれ、力を貸してもらえそうでよかったな」
 西園寺の厚い手が汀夏の肩を叩く。汀夏はその遠慮のない力に顔をしかめながら、千代子に頭を下げた。
「後押しいただき、ありがとうございます」
 千代子の助け舟がなければ、角倉は動いていない。絶妙な間合いで角倉に働きかけてくれた千代子に汀夏は深く感心した。
「……勇様がいらしたことに感謝なさってくださいね」
 あくまで西園寺の友人ということで、千代子は助けてくれたらしい。汀夏は改めて横に座る西園寺にも頭を下げた。
「やめろやめろ、そんな堅苦しいのは俺はいらん。いいからお前は一回家に帰れ。昨日もろくに寝てないんだろう? 隈がひどい」
 照れたようにシッシッと手を振る西園寺に汀夏は苦笑した。気のいい男であるのに、面映ゆいとすぐに粗雑な態度をとるのが、玉に瑕である。
「では、お言葉に甘えて私は失礼する。千代子さん、今度改めてお礼をさせてください」
「ええ」
 千代子は鷹揚に頷き、使用人を呼ぶと汀夏を案内し、見送るように伝えた。