「――その後は、角倉署長に調査を任せていたが、今日になって松白家に行く、と報せを受けた、というわけだ」
「左様でございましたか……。千代子様にはお礼を申し上げなければなりませんね」
同じ年のころの女性は何を喜ぶのだろうか、と思いながら満碧は言う。ものよりは西園寺とどこかに行く機会の方が彼女は喜ぶのかもしれない。
そうしてしばらく歩くと、路肩に停まっている車の運転席から、恩加島が転がるように出てきた。
「御無事でようございました……! この数日、心配でなりませんでしたが、お怪我や体調に変わりはございませんか?」
汀夏の指示で近くまで迎えにきてくれていたようで、彼は満碧の手を取って、泣き出さんばかりに喜んでくれた。生家と菊名橋家の因縁を知った今となっては、その優しさが少し心苦しい。だが、多少気が引けようとも、恩加島にこれ以上心配をかけまいと「大丈夫ですよ。ありがとうございます」と礼を言った。実際、松白家に戻されてからの生活は最低限の保障はあり、数日で体調を崩すようなものではなかった。
汀夏は黙ったまま、満碧を見ていたが、
「帰ってからもう少し話そう。恩加島、車を出してくれるか」
と言って、車を出させた。
菊名橋邸に帰った満碧は、今度は藤世に戻りを歓迎された。満碧の顔を見て安堵のあまり泣き出した彼女を、汀夏と二人がかりでなだめ、ひと心地ついたころにはすでに夕刻になっていた。
疲れはあったものの、満碧と汀夏は入浴を済ませたのち、汀夏の私室で並んで軽食をとっていた。夏の夕暮れの風が、汀夏の部屋に吹き渡り、風呂上がりの汗ばんだ肌を撫でる。
軽食としてふるまわれたのは少し塩をきつめに振った握り飯である。疲れた身体に塩分がしみ、満碧はホッと息を吐き出した。ようやく自分のペースで呼吸ができるような心地がしたが、この後、満碧にはするべきことが残っている。軽食をとり終わった満碧は、居住まいを正して汀夏の方に身体を向けた。
「お話したいことがあります」
緊張した面持ちで話を切り出した満碧とは対照的に、汀夏は柔らかいまなざしで満碧を見つめた。
そのまなざしに見つめられると、後ろめたい気持ちとは別の意味で緊張してくる。満碧があたふたとしていると、汀夏が「ふふ」と小さく吹き出した。
「笑い事ではないのですが……!」
「いや、すまない。何か私には言いづらい話があると予想はしていたのだが……」
思ったよりも満碧がかしこまるので、ついおかしくなってしまった、と汀夏は言った。
「話の腰を折ってしまってすまない。話をしてくれるだろうか」
汀夏に乞われて、満碧は改めて松白家で見聞きしたことを汀夏に話した。百年前、汀夏の高祖父が呪いを受けたときの真相、そして今の呪いを解く手段を手に入れたこと。特に後者は、にわかには信じがたい状況での出来事であるため、信じてもらうのは難しいと思っていること。
ところどころつっかえながら、そして途中からは支離滅裂になってしまい、きっと汀夏も聞くのは大変だっただろう。ただ、最後にこれだけは伝えたかった。
「前にもお話しましたが、ここに来たことでおれは、未来と希望、そして自由を得ることができました。そのご恩に報いる気持ちは今も変わっていません。ただ、この話をお聞きになり、そしてこの後、汀夏様の呪いが完全に解けたとして、おれのことを許してくださるかどうかは別です。出て行けと言われれば出て行きますし、死んで侘びろということでしたら、そうします。汀夏様のご判断を俺は受け入れます。――長きにわたって耐え難い苦しみを背負わせてしまい、申し訳ございません」
一気呵成に言い切って、満碧は頭を下げる。口の中はからからに乾いていた。断頭台に上がった咎人のように、満碧は汀夏の裁きを待つ。
永遠にも似た長い時間が経ったと満碧が思う頃、ふぅ、と小さく息を吐き出す音が聞こえた。
「満碧、顔を上げてくれ」
言われてのろのろと満碧は顔を上げる。まともに汀夏の顔は見られなかった。
「ありがとう。貴殿が話してくれたおかげで、高祖父がどういう経緯でこの呪いを引き受けたのか、わかってよかった。高祖父は、無鉄砲な人ではなく、人として神の願いを聞き入れようと努力をする、神祇省に勤めるにふさわしい人だった」
「ええ……おれも、そう思います」
満碧の同意に汀夏はにこり、とほほえんだが、残念ながらまだ目を伏せていた満碧はその笑みを見ることはかなわなかった。
「そして、貴殿のこれからだが……」
判決にも等しい宣言に満碧は身体をぎゅっと硬くして待つ。
「――このまま、私の伴侶としてこの家にいる、というのは貴殿の中の選択肢にはないだろうか」
「え?」
あまりに満碧にとって都合のよい言葉に、耳を疑い、満碧は顔を上げた。汀夏は常と変わらない穏やかな顔をしている。泥棒に追い銭、とも言うべき待遇に慌てて満碧は訊ねた。
「あ、の……おれの行くあての心配をなさっていらっしゃるのであれば、不要でございます」
行くあてなどないことは汀夏も知っているだろうが、それで汀夏の気が済むのであればいくらでも出て行こうと思っていた。つらく厳しい生き方にはなるが、しばらくであれば耐えてみせる、と。
「いや、別に貴殿を憐れんでのことではない」
「ではなぜ……」
これまでの汀夏が満碧を大切にしてくれたのは理解している。うわべだけではなく、一人の人間として、丁寧に扱ってもらったと思っているが、今の話を聞いてもなお、これまでと同じような接し方をしてもらえるとは到底思えなかった。
「私は貴殿が思っている以上に、貴殿のことを好ましいと思う。……困ったことに、先の話を聞いても、揺らぐ気配がない。だから、私のためにこれから先も、隣にいてほしい」
「……最後の解呪が終わったら、おれは只人に戻るかもしれません。〝浄めの力〟も持たないただの人であっても、よいのですか」
満碧の問いかけに汀夏は「愚問だな」と笑った。その笑みに満碧は、ようやく汀夏が本気で発言していることを理解した。
「私も、貴殿のおかげで、自分の命をまっとうに使おうと思うことができた。これからも甘えることがあるだろうが、許してくれるだろうか」
それに許す、と答えるのはあまりにも烏滸がましいと満碧は思った。だが、汀夏が懸命に満碧に伝えようとしてくれたことはよくわかり、黙ったまま首を縦に振った。その様子を見て、汀夏は満碧を手招く。
「こちらに」
言われるがまま、汀夏の横に寄り添う。肩に回された手はぬくもりに満ちていた。
「ん……」
触れ合わせた唇からはわずかに塩の味がした。徐々に肩を抱く汀夏の手に力が入る。
「汀夏様」
「うん?」
「これからもどうぞよろしくお願いします」
そう言った満碧に汀夏は何も言わず、これまでで一番美しいほほ笑みでもって返した。
その後のことは、満碧もふわふわとした心地で一部始終はっきりと覚えているわけではない。ただ一つ言えるのは、信頼と愛情を持って接してくれる相手に、心と身体を解放して預ける行為は、得も言われぬほど幸福だった、ということだけである。