Case1:ハイドランジアの微笑 - 1/5

 

「クソあちい……なんだってあいつの家はこんなとこにあんだ」

 悪態をつきながら石段を上る。年々暑くなるのが早くなるような気がする、と思いながら、江角泰地《えすみたいち》はカッターシャツの腕をまくった。UPIに所属するようになってからは基本的に私服勤務だが、日中からスウェットで過ごす勇気はなく(警察官が不審者として通報されては本末転倒である)、カッターシャツにストレッチパンツ、という組み合わせで過ごすことが多かった。

 これから江角が会いに行く人物は寺の住職でもあり、江角の幼馴染でもある。石段を三十段昇ったところで、踊り場に出て、九十度左に曲がる。そのまま、また五十段近い石段を上っていく。まだ五月が始まったばかりだというのに、じりじりと刺すような日差しに肌を焼かれつつ、江角は石段を上りきった。一段一段の段差は大したことはないが、約八十段すべてを上ると少し息が上がる。幼いころはしょっちゅう互いの家を行き来したためこの石段も平気だと思っていたが――子どものころの向こう見ずの体力を甘く見ていたようだ。

「おや、たいちゃん。久しぶり」

 山門の向こうから、ひょっこりと涼し気な顔をのぞかせたのは、この寺の住職兼江角の幼馴染である春木利生《はるきりお》だった。

「元気そうで何よりだな、利生」

「突然連絡があったから宗教勧誘かマルチかと思ったけど、違いそうだね」

 参拝じゃないならこちらにどうぞ、と言って春木は裏の勝手口の引き戸を示した。幼いころは何度も我が家のように出入りした勝手口である。

「なんで寺の住職してるオマエに宗教勧誘すんだよ。んなことするやつは正真正銘のアホだろ。おまけにマルチも捕まえる方だっつの」

「口が悪いのも変わってないね」

 警察官という職業のおかげで、年上の人間に対しては敬語を使うように叩きこまれているが、本来の江角はこれくらい気安い――というよりは荒い――口をきく男である。

 勝手口から家に上がると、左手にキッチンおよびダイニング、右手にリビングスペースがある。ダイニングのテーブル上には黒い漆塗りの菓子鉢が置かれており、中には個包装の寒天ゼリーが入っていた。春木の好物である。

「相変わらずジジくせえもんが好きだなオマエ……」

「いいじゃないか、ほっといてくれ」

 檀家さんには評判がいいんだよ、と言う春木に「ここの檀家、年寄りが多いよな……」と江角はつぶやいたが、春木はそれを無視した。

「で? 今日はどしたの。まさか旧交を温めに来たってわけじゃないよね?」

 ガラスに入れた麦茶を出しながら春木は江角に訊ねた。

 文句は言いつつも、突然やってきた江角に対して、麦茶に氷を入れ、籐《とう》の茶托とともにふるまうあたりが春木の人の好さである。

 石段上りによって発汗していた江角はありがたく麦茶に口をつけ、リュック型のビジネスバッグの外ポケットからアルミ製の名刺入れを出した。これまではほとんど使うことなかった名刺だが、UPIに異動して以降、活躍頻度が倍以上になった。

 江角は名刺をテーブルに置くと、春木の目の前まで滑らせた。名刺を取り上げた春木はしげしげと組織名を見たのち「へえ」と一言つぶやいた。

「知ってるだろ、UPI」

「そりゃね。どんなに小規模でも住職や神主の一族は知ってるんじゃないのかな。まあ、まさかたいちゃんが所属してるとは思わなかったけど、でもそれなら今日の訪問の理由もなんとなくわかったよ」

「話が早くて助かる……単刀直入に言うが、特別協力人としてオレの仕事を手伝ってくれねえか」

 江角の頼みに春木は目を細めた。細く丸い金属フレームで囲われたレンズの奥の目が三日月のように弧を描く。

「それは光栄だけど……私も修行中の身だよ。よっぽど切羽詰まったわけでもあるの?」

 通常警察組織においては二人一組で仕事をするが、UPIにおいては例外が認められており、警察官一人+霊的な補助を行う特別協力人の二人組で仕事をするケースがほとんどだった。それは江角も例外ではなく、つい先日までは国屋が口利きをしてくれた住職と行動を共にしていたが、孫を授かった彼が「いつまであるかわからない命を孫のために使わせてくれ」といよいよ引退宣言してしまったため、新しい相棒を探している真っ最中である。なお、住職や神職の一族に代々UPIのことが伝えられているのも、協力を依頼する可能性がゼロではないから、という理由である。

「いつもなら大体息子や娘に代替わりした老僧に頼むんだが、心当たりのところにみんな断られて正直もう打つ手がない」

 江角が現状を白状すると春木はケラケラと笑った。

「たいちゃんのその自分に不利な話も正直にするところ、変わらないね」

「そう簡単に変わったら苦労してねえよ」

「苦労してるんだ」

 春木は面白がるように江角の言葉を反芻したのち「いいよ」と言った。

「は?」

「だから協力人になってもいいよって。うちはまだ父が現役で住職しているから私の出番は多くないし、それなら特別協力人になってもいいかなって。手当も出るでしょ?」

 特別協力人という役職はボランティアではない。正式な公務員という扱いにこそならないが、準公務員(会計年度職員と似たような扱いである)となり、協力手当という名の給金が出るうえ、ある程度の福利厚生の恩恵にも預かれる。

 春木の快諾に江角はパッと顔を輝かせ、顔の前で両手を合わせて春木を拝んだ。

「助かる!」

「それはなにより。契約書もあるんだよね?」

「ああ。持ってきている」

 江角はそう言ってバッグから透明のクリアファイルに入れられた書類を取り出した。その用意のよさに呆れたように春木は言う。

「私が断らない前提じゃないか」

「違えよ。承諾してくれたあとに逃がさねえようにだよ」

「もっと悪いよ」

 咎めるような物言いではあるものの、声と顔が笑っており、全く説得力がない、と江角は思った。なんだかんだ言うものの春木という男は好奇心旺盛で、自分が面白そうだと判断したことは喜んでやるのだ。

「ふーん、一応契約は途中でも切れるんだ」

「明記されちゃいないが、負傷の可能性もないとは言い切れないからな。お互いの保険だ」

 お互いの、というところに春木は苦笑した。

「まあたいちゃんたちも負傷者と一緒に仕事するわけにいかないよね」

「……そういうことだ」

「痛いとこ突かれると顔に出るところも変わらないね。野球してるときは全然出なかったからずっと野球してればいいのにって言われてたのを思い出したよ」

「うっせえ、ほら早く書けって」

 春木はケラケラ笑いながら書類に必要事項を記載して、江角につき返した。

「仮にも警察官なのに私への態度悪くない? ほら書いたから確認して」

 江角は春木の書いた書類を上から下まで必要事項が記載されていることを確認して、再びクリアファイルに書類をしまい込んだ。

「利生」

「ん?」

「色々迷惑をかけるかもしれねえけど、よろしく」

 江角の言葉に、春木は「こちらこそよろしく」と言って右手を上げ、江角はその手のひらに自らの右手を勢いよくぶつけた。パン、と乾いた音が響く。

「たいちゃんが担当した以外にも面白そうな話があったら、教えてね」

「……それは機密漏洩になるから勘弁してくれ」