第四話 Good-bye to Brilliant white days -Opening- - 1/4

四、
 
 ――その日のことはきっと忘れられないだろう、と松本は言った。
 
「最近、動きがきなくさい」
「? なんのです?」
 ある日の夕方、いつもの通り六条院が隔離されている療養所までやってきた松本はその日あったことを話していた。その中で唐突な六条院の言葉に松本は戸惑った。
「例の宗教団体だ。そなたたちがずっと動向を気にしていただろう」
「あ、あー……。〈世界を滅ぼす〉大戦以前から動いてたあれですか。一時期、組織壊滅に陥ったと聞いていますけど」
 松本の言葉に六条院はそうだとも違うとも判断がつかない微妙な表情をした。
「違うんですか?」
「いや、一時期組織がほぼ活動停止していたのは事実だ」
 壊滅ではなく活動停止、という言葉に松本はわずかに眉を上げた。その二つの単語の間には大きな隔たりがある。組織としての形がなくなったのか、あるが活動をしていなかったのか、どちらが正しいのか。あるいは両方正しいのか。
「確か、不正経理だったかで宗教団体としての活動を停止させられたと聞いている。そのあと、団体が運営していた病院で、医療事故も起きてほとんどの活動を自粛せざるを得なくなったはずだ」
 わたしが〈アンダーライン〉に入隊したばかりのころだが、と六条院は付け加えた。今から十五年ほど前のことである。
「それが何だって今頃……あ、」
 松本の頭は一つの可能性をはじき出した。
「当時の信者や団体運営幹部の子どもが成長して、団体を再起動させられるようになった、とか」
「さすがだな。その可能性が高いとわたしも思う。経理の不正はあったが、宗教団体としてはまっとうな活動をしていたうえ、子どもの教育や社会福祉にも貢献していた団体だ。ほぼ活動をしていない状態でも心の拠り所にはなっていたのだろう」
「まあ、宗教って信仰と結びつけられますけど、精神面での安定を図ることへの影響の方が大きいですからね……。で、その動きがきなくさいというのは?」
 松本の言葉に六条院は目を伏せて答えた。
「これは、あまり信憑性がある話ではない。ゆえに話は六割信頼できないものとして聞いてほしい」
「わかりました」
 六条院がそういうということはよっぽど特殊な状況なのか、と心の準備をして松本は聞く体制に入った。
「――そなたは、ハイエルトXO2(エックスオーツー)錠という薬に聞き覚えがあるか?」
 六条院が出した薬の名前には聞き覚えがあった。今では例外はあるものの一般的には服用が禁止されており、もうほとんど流通していないが、
「〈世界を滅ぼす〉大戦で出回った向精神薬ですね。俺含め実験体は服用を禁じられていましたけど、服用した人は多かったんじゃないですか。当時は合法薬でしたし」
「ああ。そうだ。それに似た薬が最近また出回っているらしい」
「……またここの医師の会話聞いてたんですね」
 松本のつっこみに六条院は肩をすくめるだけだった。悪びれるそぶりも見せない六条院に松本は呆れた。
「これのおかげでわたしもだいぶ楽になったゆえ、退屈だと感じるときも増えた」
 そう言って六条院はヘッドギアを指で軽く叩いた。
 側頭部から後頭部にかけて半円状の鉢巻きのような形で装着するそれは科技研の技術の結晶だった。せめてもの罪滅ぼしに、となにも悪くないはずの元岡が解析に知恵を絞り、設計と実行は花江が担当したものだ。六条院の状態に特化して作られたそれは脳の負担を軽くするだけではなく、装着感も軽く、快適である。
 この装置のおかげで、随分二人で会話できる時間が長くなった。初めて装着したときの六条院が穏やかに笑ったのを松本はよく覚えている。
 閑話休題。
「で、その向精神薬が出回ってるんですか」
「そうだ。元のハイエルト錠より粗悪なものが出回っている、らしい。そういう話は少し前から出ていたと記憶しているが、最近はどうだ?」
「あ、あー……具体的な薬物の名前まではわかっていませんでしたけど、このところ逮捕した被疑者の大体三から四割くらいが、薬物使用を疑われて検査すると陽性が出ていました。多いから何かあるんだとは思っていたんですが」
 まさか、松本も知っている薬の後継が勝手に製造され、違法なルートで流通していたとは想像もしていなかったが。
「戦後失われた技術も多いゆえ、粗悪になるのは想定のうちだな」
「後継薬……言いづらいのでポストハイエルトとしましょうか。これがどこで作られているかですね。国外から入ってきてたら面倒ですけど、今まで税関で見つかったことはないので、どこかで製造されていると思うんですけど」
「製薬工場にあたりは?」
「つけて聞き取りには行きましたけど、機密が多くて中には入れてもらえませんでした」
 新しい薬物は科技研といえどもすぐに解析することは難しい。既存の薬物と比べながら慎重に同定する必要がある。が、機密の問題で解析用のサンプルとして実物を手に入れられていないことが、より解析と同定を困難にしていた。
「だろうな」
「あとは、まあ、そういう大手の製薬会社は使わないと思うんですよね。彼らには社会的地位も信用もありますし、失いたいなんて夢にも思っていないんじゃないかと」
 松本の分析に「あ、」と六条院は小さくつぶやいた。
「なんです?」
「宗教法人の方を訪ねるのはどうだ?」
「あ、そうか。それはまだ……というか今日までその発想がなかったから、これからですね。医療系の施設もあったはずですし、当たらせてみます」
 すっかり指示を出す側の顔をするようになった松本を六条院は穏やかに見つめた。
「ん?」
「いや、なんでもない。ところで、そなた自身で覚えていることは何もないのか」
 視線に気づいた松本が振り返ったところで六条院は訊ねた。松本はうーん、と指を額に当てて考え始めたが、
「あんまり、ないんですよね」
 と苦笑した。
 ハイエルトXO2錠について松本が覚えていることは少ない。むしろ〈世界を滅ぼす〉大戦について覚えていることが少ない、という方が正しい。ただ、この薬についてはときおり米澤が話題にしていたことをぼんやりと覚えている。
「あの人は、これの効能を嫌っていた気がします。自分の方がよっぽど倫理的にやばいことしてるのに何言ってんだと今なら思いますけど」
 松本の文句を言うような口調に六条院は苦笑した。
「まあ、気持ちもわからなくはないが……あれは戦前は違法だったが、進むにつれて合法に変わったものだった。米澤博士が忌避するのも理解できる」
「うーん……」
 結果としては彼女の方が後世まで残る遺物を作り出してしまったのだが、再現率は限りなくゼロに近いということで黙認されている節がある。どうしてもっと別のことに活かせなかったかなあ、と松本は思うが、おそらくこれも結果論なのだろう。
「また何かわかったら報告しますね」
「何度も言うが、もうわたしはそなたの上官ではない。特に何も言わずとも問題はない」
「でも、まだ〈アンダーライン〉所属じゃないですか。俺がしたい話を勝手にしてるだけですし、機密保持にも違反しませんから、聞いてくださいよ」
 にこり、と笑いながら言う松本に、六条院は聞くだけだぞ、と思いながらそれ以上は何も言わなかった。
「じゃあまた来ますね」
「ああ、気をつけて帰れ」
 引き戸を開けて松本が病室を去る。それと入れ替わりに顔を出した看護師は「楽しそうでしたね」とあたりさわりのないことを言って、日課である採血の準備を始めた。毎日二回繰り返される検査のため、六条院の腕は針の痕が目立つようになっていた。
「毎日来てくださる方は本当に珍しいですよ」
「……そう、だろうな」
 かつて自分も彼と同じ仕事をしていたのだからよくわかる。日々忙しいはずなのに、その合間を縫ってこうしてやってくることがどれほど稀有なのか。松本はいい部下に恵まれているのだろうな、と六条院は思っていた。
「わたしが、甘えているんだ」
 秘密を打ち明ける子どものように声をひそめると看護師は「あら」と楽しそうな声を上げた。
「そうなんですか。てっきり松本さんの方がそうだと思っていたのに」
 なぜだろう、と六条院が首を傾げると、看護師はくすくすと笑って言った。
「だって、病室に入る前と後じゃ全然違う顔してるんですよ」
 出てくるときはいつも晴れやかなお顔ですよ、と言う彼女の言葉を、六条院は素直に嬉しいと思った。