久世と稲垣が仮契約のパートナー関係になってから三ヶ月経って、大体の生活スタイルが確立した。寮住まいの久世が、稲垣の家に週末だけ通う。プレイを行う場所も専ら稲垣の家だった。たまには久世の家でも、と稲垣に提案されたが、
「寮に住んでない稲垣さんが俺の部屋に来たら目立つでしょ」
と久世は即座に却下した。なお、稲垣も本来であれば入社時に入寮予定だったようだが(なにせ寮は家賃が安い)、学生時代に住んでいた賃貸の更新期間に退去すると連絡し忘れたせいで引っ越しそびれたらしい。だが、そのおかげでプレイ場所には困らなかったため、悪いことばかりではない。
「それで、なにを悩んでるのー?」
久世の高専時代からの友人である佐野アヤコは、アイスコーヒーにガムシロップを入れてマドラーでかき回しながら言った。夏の午後の喫茶店は外の暑さが嘘のように涼しかった。
「んー? なんとなくちょっと、一線を引かれてるっていうかなんというか」
「え? 別に本契約したわけじゃないんでしょ? 別にいいじゃん……と言いたいところだけど、三ヶ月経ってもそれはちょっと気になるね」
他人の生活に興味はまったくありません、という顔をしているようで、意外と気にかけてくれるのが彼女のよいところだと久世は思っている。
「……あのさ、アヤちゃんは仮契約のSubに遠慮する?」
久世は頬杖をついたまま訊ねる。伸ばしっぱなしになっている髪がさらり、と久世の頬に滑り落ちた。佐野は久世の問いにそうだね、と少し考え込んだ。その考え事にふける佐野の顔を見つめる。キュッとつり上がった目とそれを強調するようなアイライン、髪を染める人間も多い中で地毛のままの長いストレートヘアが似合う女だ。
「なに?」
久世の視線に気がついた佐野が顔を上げ、前髪をさらりとかき上げた。
「いや、相変わらず素敵だと思って」
「どうも。わたしのこと褒めてくれるの李織しかいないよ」
「あれ、付き合ってる人は?」
「別れた。やっぱり女のDomは嫌だって。器の小さい男だったからこっちから振ってやった」
佐野はそう言って怒りを鎮めるように、アイスコーヒーの三分の一を一気に飲んだ。
「わたしの話はとりあえず置いといて、李織のさっきの問いかけだけど、仮契約のときだからこそ遠慮しないときもあるけど、遠慮するときもある」
「何が違うの、その二つ」
「長く付き合う気のない人には、遠慮せずこっちのやりたいことさっさと話してやれるところまでやろうかなと思うけど、そうじゃない人には少し控えめにするかな」
佐野の答えに久世は「そういうものかな、」と返事をした。
「あくまでわたしは、って話だからね? 李織の相手はまた別かもしれないし、わからないよ」
「……うん。でも、アヤちゃんのおかげでちゃんと話そうって思えた。今日、相手の家に行くから話してみる」
「そ? それならよかった」
佐野がアイスコーヒーに口をつけたのを見て、久世も自分の目の前に置かれているオレンジジュースに口をつけた。届いてからしばらく放置していたせいで、氷が融けて薄まっていた。
「氷抜きで頼めばよかった」
「李織、いっつもそれ後悔してるよね」
佐野に指摘をされるが、注文したものは注文したものだ。久世は黙ってストローに口をつけたまま着々と中身を減らした。
そうして二人で話を続けていると、佐野はちらりと腕時計を見た。今日は夕方に一件だけ片付けなければならない仕事があると予め言われていたことを思い出す。
「あ、ごめん、そろそろ時間だね?」
「うん。わたしこそ、あんまりゆっくりできなくてごめん」
鞄から財布を出そうとする佐野の手を久世は制し、伝票を持って立ちあがる。
「今日は俺がいっぱい相談乗ってもらったから払うよ」
しかし、その腕を今度は佐野がつかんで制止した。
「だめ。わたしたちは友達だから、お金はちゃんとしておくべきだよ」
「……いいのに」
「それなら今度飲みに行こう。今の仕事終わったら時間取れるから」
仕事の愚痴でも聞いてよ、と朗らかに言う佐野に、久世は黙って伝票と自分の飲み物代を手渡すことしかできなかった。
一方の同日同時刻、稲垣も久世同様に同僚兼友人を巻き込んで話をしていた。こちらは焼肉を所望されたことによりとあるチェーン店だった。稲垣も友人もまだ質よりは量を取りたいお年頃だ。
夏の昼の店内は涼しい……と言いたいところだが、各テーブルに埋め込み式の無煙ロースターが設置されているために店内の気温は低くなかった。
「稲垣が三ヶ月も関係続けてるなんて珍しいな」
阿知波海人《あちわかいと》は稲垣ではなく、網の上で焼かれている上カルビの焼き加減を気にしながらコメントをした。
「最長記録更新したんじゃね?」
「……した」
やっぱり、と笑って阿知波は上カルビを自分と稲垣の皿に乗せた。
「で? 最長記録更新した稲垣は何が不満なわけ?」
「不満はない」
「じゃあなに? 俺は肉食ったら帰るから、食ってる間に言って」
阿知波は次の上カルビを網の上に乗せながら言う。
「なにか、隠されているような気がする」
「訊けば?」
阿知波の言葉は短かったが正論だった。稲垣は反論できず、黙って網の上の肉をすべて自分の皿に移した。
「俺、稲垣がどういう性質のDomか知ってるからはっきり言うけど、お前に対して不満を持つようなSubはすぐに関係解消してただろ」
「……そうだな」
稲垣本人も気にしていることだったが、稲垣はDomとしての「相手を支配したい」という欲求が強い。独占欲が強い、と言い換えるのが妥当かもしれない。
「だからそんなに悪いことを隠してるわけじゃないと思う。心配しすぎ」
「そうかもしれない」
俺の悪いところだ、と稲垣は自省の言葉を付け加えた。阿知波はそうかな、とそっけなく言った。
「俺は稲垣が短い期間でもちゃんと、その人その人に向き合ってるのえらいと思ってるよ。そんなに自分の悪いところばっかり見なくてもいいんじゃないの。そもそも稲垣に言い寄ってくるSubみんな、稲垣がちゃんと注意してるのにゴリ押しするじゃん」
俺、そういうのキライ、と阿知波は言った。稲垣は、社内の人間関係の悪化を恐れた結果、押し負けたことは黙っておくことにした。
「でも一つだけ気になったから言うけど、今回の人、稲垣がまだ本気で何かしたことないから続いてるんじゃないの」
「……なんでわかるんだ」
「わかるよ。だって関係続けてるのに稲垣あんまり楽しそうじゃないし、イライラしてるもん。そろそろ続けるか続けないか考えた方がいいんじゃないかなって俺は思うよ」
阿知波はそう言うと、通りがかった店員に手を上げ「タン塩二人前追加で、それと冷麺ください」と呑気に注文をした。
「よく入る腹だな」
「まあね。生きるための基本は食べることでしょ」
今日も飯が上手くて幸せだと阿知波はにこにこしながら少し焦げた豚バラを口の中にほうりこんだ。
それからしばらく肉を堪能したのち、食べ放題の終了時間が来たので支払いをして店を出た。
「あーごちそうさま。やっぱり食べ放題っていいね」
おなかいっぱい、幸せ、と阿知波は店を出たところで腹をさすった。ごちそうさま、という一言を忘れないのは阿知波の美点だと稲垣は思う。
「そりゃ何より」
「稲垣も相手に言いたいことちゃんと言えよ。振られたらまた慰める会を開いてやるから」
「振られることを前提にするな。お前が飯を食いたいだけだろうが」
そんなことを言いながら歩いていると、稲垣の前を歩く見慣れた男の後ろ姿があった。――隣には、ひとりの女性。
親し気に見えたが、恋人の距離感ではなく、血縁関係にも見えなかった。一体彼女は誰なのか。そればかりが気になってしまう。
「稲垣?」
思わず歩みを止めた稲垣を不審に思ったらしい阿知波が振り返る。
「どした?」
「いや、知り合いがいた気がして、つい」
「ああ、そういう人いるよな」
幸いにも阿知波は後ろ姿から彼を久世だと判断しなかったようだ。阿知波が話しかけてくるのに適当に相づちを打ちながら、稲垣は阿知波と別れるまでずっと「あの女性は誰なのか」ということだけをぐるぐると考えていた。