その日の夕方、薫子はいつもと変わらず榊の水を変えるために祠に足を運んだ。明日からは妹の仕事になるが、今日までは自分がすると言ってあった。母が亡くなり、姉が嫁いでから長い間、薫子の仕事だったがこれも今日で最後なのだと思うと感慨深いものがあった。
「え、」
榊立てに手を伸ばしてふと指を止める。
榊にはもう二度と結ばれることはないと思っていた白い紙が結ばれていた。紙を外そうとして、指が震えた。紙には見慣れた流水のような字が書かれていた。
――忘れなむと思ふ心のつくからに ありしよりけにまづぞ恋しき
(……ご自分から私の申し出を断られたのに、今さらこんなことをおっしゃるなんて)
そう思いながら手紙の続きを読む。そこには、
『今夜、待っていてください』
と書かれていた。思わず手に力が入って手紙にくしゃり、としわが入った。
(どんな心積もりでいらっしゃるのかしら!)
薫子があさひの言い分を泣く泣く呑んだのは、彼の言葉が薫子のことを十分に考えたものだったからだ。だからこそ二度とあさひには会わないと決めたはずだった。
だが、その決意もたった二行の手紙で簡単にひっくり返ってしまった。石に成り果ててしまったのだと思っていた心がいとも簡単に動かされてしまう。
「本当にずるい方」
ぽつり、とつぶやいた言葉は晩秋の風がさらっていった。薫子は榊の水を変えるのも忘れてその場でずっと手紙を胸に抱いたまま立ち尽くしていた。
○
その夜、薫子は「今夜は母の仏壇がある離れで眠りたい」と父に願い出た。父は薫子の申し出を特に不審に思うこともなく「お前の好きなようにしなさい」と答えた。薫子は父の許可をありがたく受け取り、仏間に布団を敷いた。
なお仏間とは呼んでいるものの、もともと母が自室としていた場所にそのまま仏壇が置かれ、なし崩し的に仏間になってしまった部屋だ。薫子の自室を含め、他の家族の部屋は母屋にあるため、普段の離れに人の気配はない。
(人が寄りつかないようにしたのはいいけれど、私は本当にここで待っていていいのかしら)
寝巻を着たままにするか迷ったが、羞恥心が勝った結果、一番気に入っている白花色の袷を身に着けた。裾に赤い椿があしらわれた上品なものだ。部屋に差しこんだ月光が、淡く着物を照らした。
冬が近い晩秋の夜は寒い。特に縁側は冷えていたが薫子は気にせず縁側に座した。まんじりともせず、薫子が庭を眺めているとふと視界をさえぎるものがあった。
「こんばんは」
声をかけられて、薫子は顔を上げる。会わなくなって久しくなったあさひの顔が目の前にあった。今までと違うのは、天狗の面をつけていないことと、隠していたはずの墨色の羽が月の光を受けてつやつやと輝いていることだった。薫子は驚いて思わず腰を浮かせた。
「よかった、手紙、読んでくださいましたか。……そのまま捨てられることも覚悟していたのですが」
心の底からホッとしたような顔で言うあさひに再び会えた嬉しさはあるものの、そのまま素直に喜ぶのはどうにも癪で、薫子はあさひにぴしゃりと言う。
「今さらどのような心積もりでいらっしゃるのかと一言申し上げたくてお待ちしておりました」
「これは手厳しい……と言いたいところですが、因果応報ですね。わたしがすべて悪いのですから」
申し訳ありませんでした、と頭を下げるあさひに薫子は言い表せない感情がこみ上げてくるのを感じた。今さら会ってどうしようというのか、明日に嫁入りを控えた薫子を動揺させて何がしたいのか。
この後またすぐに別れなければいけないことに耐えられそうもなく、ほろり、と薫子は心の内をこぼす。
「一体、あさひ様はわたくしをどうしたいのですか。明日になったらわたくしはこの町を離れます。最後に一目お会いできて嬉しゅうございますが、二度も枕を濡らすことになるわたくしがあんまり惨めでございましょう」
心の内の柔らかい部分をこぼすうちに、はらはらと頬を涙が伝った。あさひの指が薫子の頬に触れ、その涙を拭い去る。そして、あさひは懐に手を入れると、小さな桐箱を取り出して、薫子に手渡した。
「開けてくださいませんか。そこに今夜わたしがここに来た理由があります」
すん、と小さく鼻をすすりながら薫子が桐箱を開けるとそこには、椿の意匠が彫られたつげ櫛があった。思わず涙が止まるほどに驚いた薫子は「覚えていらしたのですか」と訊ねた。あさひは当然、と言わんばかりの顔で言う。
「ええ、もちろん。わたしが初めて聞いた貴女の好きなものでしたから」
「……櫛を贈る意味もご存じでして?」
恐る恐る訊ねた薫子に、あさひはふっと笑いかけた。見ているものの負の感情を抜いてしまうような柔らかい顔に思わず見入ってしまう。
「意味もなく貴女にものを贈ることはしませんよ。当然意味は理解したうえで、です」
「どのような心境の変化でしょう?」
薫子の問いかけにあさひは「簡単なことです」と答えた。
「自分が『天狗』であることをきちんと思い出しただけです。人間の理に縛られて生きることはできない、自由な生きものであることを」
「あのとき、わたくしに無理をかけたくない、とおっしゃったのは嘘だったのですか?」
自分でも意地の悪いことを言っている、と薫子は思った。あさひは薫子の内心など構わずに答えを口にする。
「それは本当です。今でも貴女に無理をかけたくないと思っています」
「では、どうして」
「それ以上に貴女にそばにいてほしい、ということにやっと気づきました。要するにわたしのわがままです。わたしのわがままをどうか聞いていただきたいのです」
「……しょうのない方ですこと」
たしなめるつもりで口にした言葉には、抑えきれない愛しさがにじんでしまった。それに気づいたのだろうあさひもガラス玉のような左目を細めた。
「薫子さん」
そう呼びかけてあさひは右手を差し出した。
「お待たせしましたが、『天狗』に攫われてくれませんか?」
「――はい」
迷いはなかった。
石のような心を抱えて生きていくことはとてもできそうにない。家族にも嫁ぐ相手にも迷惑などという言葉では済まされないほどの負担をかけることは分かっていた。加えて、今と同じような生活ができるわけでもない。それでもなお、薫子はあさひの手を取ることをためらわなかった。
あさひは薫子が自らの手を取った瞬間、薫子を腕の中に抱きこみ、どこから取り出したのか、真っ黒な外套で包みこんだ。
「あの、これは」
「寒くないようにです。言ったでしょう。わたしは『天狗』なので空を征くものです」
しっかり捕まっていてくださいね、と言うあさひに薫子は慌ててしがみつく。ふわり、と身体が浮いたのちすぐに、ぐん、と上昇する感覚を覚えた。
薫子が下を見ると、見慣れた家が遠ざかっていく。本当に上空にいるのだ、と思うとめまいがして、あさひの肩に顔をうずめた。
「あまり下を見るのはおすすめしません。月だけご覧になるのがいいと思います」
薫子の様子に気づいたらしいあさひが苦笑しながら言った。
「……ええ、そうします」
「慣れれば苦ではありませんけどね」
慣れるほどこのひとは自分を抱えて飛んでくれるのだろうか、と薫子は思ったが黙っておいた。
顔に当たる風は冷たかったが、外套に包まれた身体は温かかった。月光に照らされたあさひの端正な顔をそっと見る。そして、ふと思いついたことを口に出したくなった。
「あの、」
「なんでしょう?」
「――わたくしのこと、死ぬまで離さないでくださいましね」
あさひから贈られた櫛の意味を考えるとそれくらいは伝えてもいいだろう、と思ってのことだったが、あさひは薫子の言葉を聞いて「あっはっはっは」と大声で笑った。あさひが口を開けて笑うのは初めてだった。
「もう! 笑わないでくださいまし」
「違いますよ。薫子さんの控えめなところは美徳ですが、死ぬまでなんて寂しいことをおっしゃらないでください」
どういうことだろうか、と薫子が思っていると、あさひは
「夫婦は二世といわれるのですから、来世まで安泰ですよ」
と言って薫子を抱きしめる力を強くし、ぐん、と力強く羽ばたいた。額に当たる風は強くなったが、身体は先よりもずっと温かかった。
その後の二人の行方は杳として知れない。しかし、とある土地には、記録が残されている。
――どこからともなくやってきた天狗とその妻が穏やかに暮らした、と。
【終わり】>>>NEXT参考文献