川の水が運んだ泥が海に堆積するように、手紙のやり取りは続き、いつしか薫子の持っている桐の文箱には収まりきらないほどになっていた。ほんの一言二言を書き記したやり取りは、雨の日を除いてほぼ毎日続いている。
生まれて初めて異性と交わす手紙がこれほど背徳的なものになるとは思っていなかった。しかし、少しずつ心の内に感じたことを記していくうち、薫子はすっかりあさひのことを信用するようになっていた。一滴、また一滴と水が零れて溜まれば水たまりはいつしか池になり、そこから水が溢れれば川になる。
(あの方はどんなつもりで私とこんなことを続けていらっしゃるのかしら)
その答えを聞きたいような、聞きたくないような揺れ動く気持ちを持て余しながら、薫子はせっせと手紙をしたためた。
そんなやり取りを続けていたが、夏の終わりのある日、あさひからの手紙に
『思へどもなほぞあやしき逢ふことの なかりし昔いかでへつらむ』
と書かれていた。
いつもであれば流水のように滑らかな線で書かれている文字なのに、この日はいくつもの墨溜まりがあった。あさひが悩む様は上手く想像できなかったが、あの人でも迷うことがあるのだ、と薫子は意外に感じながら手紙の文字を眺めた。
なお、手紙の内容が、直截的ではないものの熱烈な愛の告白だということに気づいたその夜、薫子はろくに眠ることができなかった。ずっと心臓が早鐘を打ったままで、うとうとしたかと思えば、すぐに外が明るくなってしまった。盛大に隈を作った薫子を周囲は心配したが、薫子は「少々寝苦しゅうございました」の一点張りで通した。恋わずらいで眠れぬ夜がある、という小説の描写の意味が身を持って理解できた瞬間だった。
そこから三日三晩考えた末、薫子はようやっとあさひへの返事を書くことができた。わざわざ新たに墨をすって書いた文字は震えてひどく不格好だった。
『おぼつかな君知るらめや足曳の 山下水のむすぶこころを』
相手の引用元が万葉集であれば、こちらもそこから返答の歌を選ぶべきだろう、と考えた末の選択だった。
返答を榊に結びつけた日は気が気でなく、放課後の学友たちとのおしゃべりもそこそこに家まで帰ってきてしまった。
(あった……)
自分が結んだものとは違う紙が榊に結びつけられているのを見つけた瞬間、全身から力が抜けそうなくらい安堵した。
『てっきり袖にされたものとばかり思っていましたので嬉しく思います』
文字はいつもの様に戻っていたが、墨を足すのも惜しかったのか、ところどころ掠れている文字が愛おしく思えた。
傍目には恋愛ごっこのように映るのかもしれない。だが、どうにも薫子から見たあさひはいい加減なことをするような人間ではなかった。もし、薫子を騙すつもりであれば、まどろっこしい手紙のやり取りを長い間続けることはないだろう。
(でも、どうして私だったのかしら)
薫子の気質を好ましい、と言ってくれたことはありがたい。だが、世の中には薫子よりももっと器量がよく、性格もいい女性がいるはずだ。
(言葉をもらったはずなのに、前よりずっと落ち着かないのはどうしてでしょう)
これが万葉の時代からずっとある気持ちなのだろうか、と考えながら薫子はあさひからの手紙をじっと見つめ続けた。
初めて会ったときに彼に対して抱いた不信感はすっかり消え、毎日のやり取りによって慕わしい気持ちはうず高く積もっていた。
「薫子、ちょっと」
「はい?」
わずかばかり昼より夜が長くなった季節に、帰宅した薫子を迎えたのは父だった。
普段は、やれ商談だそれ会合だとあちらこちらを飛び回っているはずなのに、帰宅した娘を自ら迎えるとはどうしたことだろうか、明日は槍でも降るのではなかろうか、と心配しながら薫子は着替えもおざなりに父のもとへ参じた。
父が薫子を呼びつけた部屋はこの家で唯一洋風に造られている応接間だった。クッションのきいた長椅子と、天板がガラスでできた背の低い円卓を中心に、調度品があつらえてある。壁には父がどこからか買いつけてきた絵画が飾られている。絵画の心得がない薫子には良さがわからない代物だったが、父はたいそう気に入って、よく眺めていた。
「お父様、御用はなんでございましょうか」
小遣い帳を持ってこいとは言われなかったため、いつもの確認ではないことだけはわかっていた。しかし、それ以外はとんと見当がつかない。すぐに話を切り出されると思っていたが、父にしては歯切れが悪く、中々本題に入らなかったため、薫子の方がしびれを切らした。
「お父様、お話されにくいことでしたら、日を改めますか?」
薫子の問いかけにようやく父は腹を決めたようで「いや、今日話をする」と言った。
「うん、実はな、お前に縁談が来ている」
これだ、と言って父は円卓の天板に釣書と写真を置いた。写真には正装をした陸軍の青年が写っていた。
世間から見れば悪い話ではないだろうが、薫子は一瞬息が止まる心地がした。薫子の年齢を考えると、縁談がきてもまったくおかしくない。現に高等女学校の学友も入学したときに比べると減っており、退学の理由の大半が結婚をするためである。父がどのくらいこの縁談に乗り気かがわからない以上、まずは温度感を探ることになる。
黙ってしまった薫子に父は恐る恐る声をかけた。
「軍でこの手の世話をしているのと知り合いで頼まれたんだが……その、どうだ?」
奥歯に物が挟まったような物言いをする父の意図が、うっすらと薫子にも読めた。父がこういう言い方をするときは決まって自分の思惑を隠しているときだ。陸軍の青年を見合い相手に持ってくるということは、軍部への商売を拡大したい、という意思があるはずだが、それを隠そうとする父の真意がわからなかった。
この婚姻が意味するところを隠されたままでは、薫子も返事のしようがない。
「お父様」
凛とした薫子の声に父が姿勢を正した。
「このお話、その方に頼まれただけではありませんね? お父様が何をお考えかはおよそ見当がつきますが、隠し事をされてはわたくしも判断いたしかねます」
「はあ、まったく。お前の慧眼には感心するばかりだな。よくよくあれに似てきた」
母が亡くなってからというもの、きょうだいの中で一番母に似ている薫子に対して父は弱い。きょうだいたちも父に苦言を呈するときには必ず薫子に頼むほどだ。
「お前の推察通り、軍部への商売を拡大することは考えている。もちろんこれは商売人としての私の話だ。だが、軍部の人間にお前を嫁がせるとなると、寡婦になる可能性も低くない。まして今は交戦中だ……父として娘に必要ない苦労はさせたくない」
「さようでございましたか」
金に目がない父ではあるが、娘に対する人並み以上の情はあるらしい。要は父自身も薫子に「絶対に受けなさい」と強制するほど乗り気の縁談ではない、ということだ。娘可愛さだったとしても今の薫子にとってはありがたいことこの上ない。薫子はいささか安心して、父に願い出た。
「少々考える時間を頂戴してもよろしゅうございますか」
「ああ、よく考えなさい。先方には私からも言っておく」
これはお前に預ける、と言って父は写真と釣書を薫子に手渡した。それを受け取って応接間を辞そうとした薫子の背中に父は声をかけた。
「薫子、すまないがたばこが切れたから買ってきてくれないか」
「? ええ、構いませんが」
普段であれば雑用は使用人の役目だが、どうしたことかと思っていると、父はたばこを買うには十分すぎるほどの額を薫子に手渡した。
「釣銭は好きに使いなさい」
どうやら父なりに中途半端な態度で縁談の話をしたことを詫びているらしい、と気づいて薫子は素直にその謝罪を受け入れることにした。花や装飾品ではなく、一番手っ取り早い金子を渡すのが父らしい、と薫子は思う。
「ありがとうございます、お父様」
薫子の言葉に父はホッと胸をなでおろしたように見えた。普段は豪放磊落な商売人として名をはせている父が細かく気を遣うのがおかしく思えたが、薫子はそれを笑うことはせず、出かける支度を始めた。