十か月前、夏。
――その日の最高気温は、夏一番の高温だった。
わんわんと蝉の声がこだまし、自動車の外に数分出るだけで滝のような汗が流れるような日だった。
「こうも暑いと仕事したくなくなるな」
信号を待ちながら運転席に座っている深江がぼやいた。自動運転車が増えた今、運転席と助手席のどちらに座るかは特に有意な差はなくなってきていた。しかし、有事の際のマニュアル運転(この場合はマニュアル車の運転の意ではなく、自動運転に対する手動である)ができることは必須である。
「……こればかりは同意します」
「お、珍しい。徳永に同意されるなんて明日は槍が降るな」
「降りませんよ、というかよそ見しないでくださいってば」
いくら自動で運転されるとはいえ、運転中によそ見されるのは不安になる。
「みんな家に引きこもって事件なんて起きなきゃいいのになあー」
信号が変わって発進したあとも深江のぼやきは続いた。その横で徳永は必死に止める。
「そんなこと言っちゃだめですってば」
「なんでよ」
「だって、先輩がそれ言うと必ず――」
隊長から通信入るんですもん、と徳永が言い切る前に、車内の通信機からザザ、とノイズが聞こえてきて、思わず天を仰いだ。フラグの回収が早すぎる。
『――本部より各地区巡回チームへ。【住】地区二番街〈ベータ〉にて、銀行員ならびに利用者を立てこもり事案が発生中。至急応援を願います』
指令を滑らかに告げたのは第二部隊長を務める三雲の声だった。ザザッ、ともう一度音がして通信は終了した。徳永と深江はどちらともなく顔を見合わせて肩を落とした。
「ほら見たことですか、先輩があんなこと言うから」
「俺だけのせいじゃねえだろお⁈ お前だって俺に同意したじゃねえか! ほら行くから本部に通信入れろ」
深江の指示に徳永は本部に「こちら深江・徳永。緊急対応案件なしのため向かいます」と伝えた。すると、事件発生中の建物の位置情報が本部から送付され、カーナビの画面上で『こちらを目的地にセットしますか?』という文字がチカチカと点滅した。
徳永はその画面表示の『はい』ボタンをタッチし、目的地を【住】地区二番街〈ベータ〉に位置する銀行にセットした。
「暑いとアホなことするバカどもが出てくることをすっかり忘れてたぜ」
「口が悪いですよ先輩……」
そういさめるものの、徳永も内心では(どうせすぐに捕まるのだから銀行強盗するなどナンセンス。おまけに人質を取って立てこもるなんて愚の骨頂だ)と思っているのだから、五十歩百歩、似た者同士の二人である。
「内心お前もそう思ってるくせに俺にだけ言わせるのよくねえと思うんだが」
「雄弁は銀沈黙は金、と言いますから」
すました顔で言う徳永に「生意気言いやがって」と笑いながら、深江は自動運転を切って、手動運転に切り替えた。
「俺が運転した方が早いからな」
「この自動運転システム、警邏巡回の時にはいいですけど、目的地が決まってても最短距離をなかなか通らせてくれないですもんね……」
人間だけでは取りこぼしてしまうような細い道(一方通行で車が行き交えないところまでしっかりと入っている)までくまなく巡回できるように、という考えでプログラムされているため、有事の際に遠回りさせられることが多々ある。
「科技研の方で警邏巡回と急行で自動運転のモードを切り替えられるように調整中だって聞いたぞ。まだ実証実験中らしいが」
「それは使えるようになるのが楽しみですね」
さて、行きましょうか、と言って徳永はサイレンのスイッチを入れた。
急行した現場は外から物珍しそうに眺めている野次馬であふれていた。
「ったく、規制線すら張れてねえのかよ」
悪態をつきつつ深江は自動車に積まれている道具箱からテープを取り出す。黄色の地に二段の黒文字が書かれている。上段には『KEEP OUT ■ 立入禁止』の表記があり、下段には『UNDERLINE』との文字が入っていた。
「深江先輩! お疲れ様です! あ、徳永もお疲れさん」
応援でやってきた深江と徳永の姿を見つけた別の隊員――志摩――が転ばんばかりの勢いでやってきた。深江にはしっかりと挨拶をしたものの、同期である徳永にはぞんざいな扱いである。
「はい志摩もお疲れさん。規制線くらい張っとけよ。俺の仕事が増えるだろー」
「すみません」
「悪い、冗談だ。別に規制線くらいどうってことない」
素直に謝罪する後輩に深江は苦笑しながら言う。
「状況は? 志摩何か知ってる?」
横から徳永が口を挟めば、志摩は首を横に振った。
「いや、応援で呼ばれた隊員たちはみんな今到着したばかりだからほとんど何も知らない」
「役に立たないなあ」
「役に立たないって言うな、よ……⁈」
――パン、パン、バン!
軽口をたたきあっていると、行内から破裂音と思しき音が三回聞こえてきた。ハッとして銀行を振り返る。
「銃声……?」
誰からともなくつぶやかれた言葉に周囲の人間がざわめいた。
一気に逃げ出そうとして転倒する人間もおり、暑さも相まって地獄のようだった。うんざりしたように深江は言う。
「はい志摩と徳永はまず規制線を張ること、そんで周囲の人間の避難誘導。俺は銀行の方に突入しようとしてる連中と合流する。あと救急に連絡あるかどうか確認して、なければ最低でも十台は搬送車派遣してもらうように連絡してくれ」
「了解しました。先輩もお気をつけて」
徳永は深江から規制テープを受け取って敬礼した。深江も敬礼を返したのち、パッと徳永に背を向けて走り出す。
「行くよ、志摩!」
「わかった、わかったからちょっとゆっくり走ってくれ」
お前早いんだよ、と言う志摩に「鍛え方が足りないのよ」と徳永は𠮟責した。
「そんなわけないだろ、オレだって鍛えてるっつの」
短距離であれば志摩よりも徳永の方が速い。周囲の人に「下がってください!」「避難される方は落ち着いて行動してください! あ、そっちはだめです!」と指示を出しながら、何とか規制線をはることに成功した。
「オレたちも応援行った方がいいかな」
志摩はチラチラと銀行の方を気にしながら言う。破裂音が三回聞こえて以来、銀行はしんと静まりかえっていた。銀行入り口のシャッターは下ろされており、中の様子をうかがうことはかなわない。
「規制線の前の警備も大事な仕事なんだからだめに決まってるじゃない。ほぼ退避させたけど、一般人が間違って入ったらどうするの。責任取るの、隊長になるんだよ」
銀行内よりも安全な場所にいることに対する引け目のようなものがあるのだろうが、外の警備は大事な仕事である。危険度に高低はつけられるが、重要度に優劣はつけられないのが、この仕事である。
「最低限先輩からもらった指示を守れるように動かなきゃ」
「そうだな、うん、お前の言うとおりだ……あ、こら! 危ない」
早速、規制線の下をくぐろうとした子供を志摩が捕獲した。四~五歳に見える男児は志摩の腕の中で「離せよお!」と言ってジタバタと暴れている。近くを見ても保護者と思しき大人はいない。
「離せよ、じゃないだろが。黄色いテープの中には入っちゃだめなんだよ。危ないからテープの外でお兄さんたちと待ってような」
「オジサンとなんてやだ!」
「おいこら誰がオジサンだ」
「志摩やめな」
幼児と同じレベルで言い合ってどうする、とあきれながら徳永はしゃがんで子供に視線の高さを合わせた。
「こんにちは、おなまえ言える?」
徳永の問いかけに男児は「たかはしゆうた、五さいです」と手をパーにしながら言った。
「ちゃんと言えてえらいね。誰か大人の人と一緒に来た?」
「おかあさんと……でも、まってるのあきて、お外出ちゃった」
「そっか、わかった。じゃあやっぱり私たちと一緒にお母さん待ってよう。すぐに出てきてくれるよ」
徳永の言葉に幼児は眉をハの字にして問いかけた。
「おかあさん、げんきだよね?」
幼児なりに黄色いテープが何を示しているのかは察しているらしい。げんきだよね、という言葉選びこそ幼児のものだが、何を案じているのは痛いほど理解できた。徳永は「うん」と大げさなほど首を縦に振って肯定した。
「大丈夫。お母さん、きっとすぐに戻ってきてくれるよ」
徳永がそう言ったのと同時に耳元の無線機のスイッチが入った。
『徳永、聞こえるか?』
ホワイトノイズの向こうからひそめられた深江の声がする。
「こちら徳永。聞こえます」
『今こちらで話をしているんだが、近くで四、五歳の男児を見かけなかったか?』
「はい。今こちらで保護しています」
『お、ちょうどよかったか。こっちで母親らしき女性と接触できたからそのまま保護していてくれ』
「了解しました」
無線の通信はすぐに切れた。徳永は男児に向かって微笑んだ。
「お母さん、元気だって。お迎えに来てくれるまで一緒に待ってようね」
「わかった!」
男児は元気よく手を上げて返事をした。そのやりとりを見ていた志摩が「ふーん」とわざとらしい声を出す。
「なに」
「いや、思ったよりも子どもの扱いうまいなって」
「あんた私のこと何だと思ってんの? 子どもが可愛いと思う程度の感性はあるよ」
とはいえ子どもと一緒のレベルで遊べる志摩も志摩で貴重な存在である。
「ねえ肩車して」
子どもは志摩を見て言う。その様子を見た徳永は思わず吹き出した。先程までおじさん呼ばわりしていたが、きちんと志摩と徳永を見比べ、どちらの背が高いか判断して、志摩を選んでいる子どもは賢い。
「オレのことオジサンって言った悪いやつにはしたくねえな~」
「おにいさん、おねがい!」
「お前さっきまで徳永にあんだけ愛想振りまいてたじゃねえか、現金なやつだな」
そうは言いつつも志摩は子どもを担いでやる。遠くがよく見えるようになって子どもはキャッキャとはしゃいだ声を上げた。
しばらく担いでやれば気が済んだのか、下ろしてーと言うので志摩は下ろしてやった。
「よし。じゃあ、ゆうたは俺たちの車で母ちゃんを待とうな。ゆうたと遊びたいけど、俺たちには仕事があるんだ」
「うん」
肩車されて気が済んだのか、子どもは素直に志摩の言うことを聞いた。
「じゃあ俺、車両で待機してる連中に預けてくるな」
「うん、よろしく」
よいしょ、と子どもを抱き上げて志摩は歩いて行った。手を繋ぐよりも脱走を防げて安全に運べるな、と思いながら徳永はそれを見送る。
――不気味なほどに動きがない。
子どもに気を取られてすっかりおろそかになっていたが、銀行に入っているだろう隊員から何も連絡がないことが気になる。緊迫感のある現場で情報が入ってこないことが妙な不安を煽った。
何もなければよいが、と膨らむ不安を振り払うように徳永が頭を振った瞬間、耳元の無線通信機のスイッチが入る音がした。
『こちら車両本部、徳永、聞こえるか⁈』
「こちら徳永、聞こえます」
『これから銀行内部より人質ならびに犯人グループが外に出てくる。負傷者はいないが、女性被害者への対応を頼みたい。至急車両本部に来てくれ』
「了解しました。規制線警備はどうしますか」
『志摩を返す。無人になる時間ができるが、こちらへの移動を優先してくれ』
「了解です」
通信を切って徳永はホッと息を吐いた。負傷者なしということは先程聞こえた破裂音は威嚇なのだろう。
「よし」
一刻も早く被害者をもとの生活に戻せるかも〈アンダーライン〉隊員の腕にかかっている。徳永は早速、車両本部があるほうへ向かって走り出した。