自分たちの不安など大人にとっては忘れてしまったもので、それ以下の年齢の子にとっては未知のものだろう。毎日繰り返される模試と補習、どんなにいい判定をもらってもぬぐい切れない自身への疑い。こんなに疲れることに毎年数十万人が挑んでいるという事実に思わず小松《こまつ》はため息をついた。
「ありえないな」
「何が?」
目の前で赤本を広げている永井《ながい》は顔を上げないまま言葉を発した。声に出していると思っていなかった小松は慌てて口を押えた。
「声に出てた?」
「出てた」
朝、七時前の図書室には小松と永井しかいない。おかげで小松がうっかり独り言を声にしても、苦情が飛んでくることはなかった。
「それで、何がありえないって?」
「こんな疲れる受験勉強《こと》を毎年数十万人がしてるって事実」
「それは確かにありえてるけど、ありえないな」
永井は顔を上げてはっきりと言い、自分でもおかしくなったのかわずかに笑った。
「でも永井、余裕だね。今から二次の勉強できるなんて」
「違う、スピードと効率重視の勉強に嫌気が差したから気分転換」
「気分転換」
共通で誰しもが受けるテストはもう一週間後に迫っていた。誰もが共通で追いこんでいるときに、飽きたと言える永井はただ者ではない。永井は黙って赤本に顔を戻しかけて――途中で動きを止めた。
「雪降ってきたよ、小松《こまつ》」
「降るかもって予報だったけど、朝からだったっけ。どうりで寒いわけだ」
広くて古い図書館はエアコンだけでは温まらないので、石油ストーブがたかれている。朝一番に来るとストーブの近くの席を確保することができた。昔ながらの電源が必要ないタイプのストーブで、毎日教員の誰かが点火と消火の管理をしているらしい。灯油が燃えたときの独特のにおいがほんのりと室内全体に漂っている。きっといつかずっと先の冬の日にこのにおいをかいで、この図書室を思い出すのだろうと小松は思った。
「そういえばずっと気になってたんだけど」
「ん?」
「永井はどうして一緒に勉強してくれるの?」
永井と小松はクラスメイトでもなければ、部活が一緒だったわけでも、中学が一緒だったわけでも、家が近所というわけでもない。共通の友達もいない。文理も違う永井と小松が会うのは図書室だけだ。永井は小松をまっすぐに見つめて言う。
「小松がいいやつだから」
思いがけない言葉に小松は面食らった。いいやつ、と言われるに値するようなことをした覚えがなかった小松はただ驚いた。永井は静かに笑いながら付け加える。
「小松ががんばっている姿見ると、自分もがんばりたいって思えるから。そういうふうに感じさせてくれる小松はいいやつなんだよ。間違いなく」
「それは、お互い様ってやつだと思うけど」
小松が言うと、今度は永井が驚いたような顔をした。
「わざわざいやなやつと向かい合って勉強しないよ」
「それもそうだ」
小松は再び外に目をやる。先ほどまで静かに降っていた雪は、今や勢いを増して吹雪いていた。
「頑張ってるやつが報われる世の中だといいのにな」
小松がぼうっと外を見ていると永井が唐突に言葉を発した。小松は永井の言葉に心底同意した。がんばっている人のがんばりがそのまま報われる世の中であれば、間違いなく現時点で合格をもらえるのではないか、と思った。
「そうだね」
「頑張っても、まだ足りないって突き付けられるのが一番きつい」
「確かに」
誰も大丈夫だと言ってくれる人はいない。こんなに近くにいるのに、互いの孤独を知ることもできない。それは、先の見えない進路よりもより一層、二人を絶望させるものではないか。
「なんて言っててもしょうがないか。ごめん」
「……いいんじゃない。お互いに今の正直な気持ちなんだし」
お互いの孤独をそっくりそのまま分かち合うことはできない。だが、その一部を言葉にして互いの間を埋めようとすることはできる。
二人は再び黙って、それぞれが手元に広げた問題集に視線を落とす。先ほどまでは重たい気持ちで手を付けていた問題だが、少しだけ答えへの筋道が見えたような気がした。