二、
――この運命からは死んでも逃れられないのだと思っていた。
○
その日の夜、私室にいる汀夏のもとを満碧が訪ねてきた。昼間、部屋を辞したのち、急ごしらえで形代と木札を作ったという。気休めかもしれないが、今ある呪いの一部を浄化する、と言う満碧を、汀夏はありがたく受け入れた。
汀夏の身体に呪いの紋様が浮き出るようになったのは、帝国大学を卒業しようか、という時期だった。父が鬼籍に入って以降、年々重たく感じる身体に鞭を打って動かしていたが、いよいよ自分の番が近いのだ、といやでも理解せざるを得なかった。
――まだ、死にたくない。
その時に己の中に湧き出た感情を汀夏は今でも鮮明に覚えている。自分のせいで背負ったものではないのになぜ、という強い怒りとともに生きることへの執着を自覚した。一方で、ここで自分がどんなに激しく憤ったとしても、定めを変えることはできないのだという深い諦観があることも否定できない。
そんなときに、汀夏は松白家のことを思い出した。当代の子には強い浄めの力を持った者がいるという話を頼りに、松白家に赴いたが、交渉するのは骨が折れた。簡単に言うと松白家としても最大の収入源である満碧を簡単によそにはやれない、という話である。業を煮やした汀夏が、半ば強引に金を積んだことで、なんとか交渉は完了した。
「汀夏様? 大丈夫ですか、体調に変わりはありませんか」
ぼんやりと物思いにふけっていると、背後から満碧が声をかけた。
「ああ、すまない。大丈夫だ。続けてくれ」
浄化というものを汀夏はよく知らない。自らの身の呪いのため、寺社の門をくぐると具合が悪くなる。祈祷師を呼んだこともあるが、効果はなく、それ以降は縁遠いものになっていた。てっきり何か唱えて幣を振るのだと思っていたが、「軽いものはそれでも祓えますが、汀夏様には効き目がありません」と満碧に否定された。汀夏の呪いの場合は、満碧が作った形代に呪いを直接移しとることで、浄化を進めるのだという。
肌脱ぎをして、晒している部分から徐々に身体が軽くなるのを感じながら、汀夏は一つだけ惜しいな、と思う。満碧が背後でどのように浄化の作業をしているのかを見ることができない。
(さぞ美しいのだろうな)
満碧の持つ、真珠の髪と燐葉石の瞳を世間は不気味だという。だが、汀夏の目にはきらきらとした美しい宝石のようにしか見えなかった。そんな彼が真っ直ぐに真剣な顔をしている様は、この世のものとは思えないほど、綺麗なのだろう。
「移し終わりましたよ」
声がけとともに満碧が拙い動きで汀夏の浴衣を直そうとするのを止め、汀夏は自分で乱れた着物を直した。
「これから浄化の作業に入ります」
照明を抑えた部屋の中でも、燐葉石の瞳は明かりを反射して強い光を放っているように見えた。自ら発光しているような輝きに、蛍のようだ、と汀夏は思った。
満碧は、汀夏の背後から正面に場所を移し、呪いを移し取った三つの形代にそれぞれ、ふぅ、と小さく息を吹きかけた。そして、一回柏手を打つ。
パン! という乾いた音が鳴ったかと思うと、三つの形代はすべてちりのように消滅し、清涼な空気だけが残された。目の前であっという間に済んでしまった浄化の作業に、汀夏は思わず訊ねる。
「これで、終わりか?」
「はい、一日に浄化できる上限がございますので。お……失礼しました、私の経験上、強力な呪いは一度に祓いすぎると、お身体に影響が出ます」
おれ、と言いかけて訂正する満碧に汀夏は「そのままでいい」と声をかけた。
「ですが、」
「貴殿が自然体である方がいい」
汀夏の言葉に満碧は戸惑っていたようだったが、最後は「はい」と返事をした。
「満碧」
「なんでしょう」
「貴殿から見て、私の呪いは解くのが難しいだろうか」
汀夏の問いかけに満碧は一瞬目を見開いたが、すぐに「どうしてそのようなことを訊かれるのですか」と問い返した。汀夏は言うか言うまいか、迷った挙句、本音を口にすることにした。
「……自らの運命に対して憤りの気持ちはある。こんなところで死んでたまるかという気持ちもある。だが、四代も解呪できないまま続くものを今さらどうにかできるわけもないと思っている私がいるのも事実だ」
汀夏が吐露した本音を満碧は途方に暮れた顔で聞いていた。その表情を見て、汀夏は苦笑する。汀夏の本音を聞いたところで、今の満碧にこれ以上何か答えてもらえるわけではない。
「すまない。今の言葉は忘れてくれ。……今夜はもう部屋に戻って休みなさい。おかげで私もだいぶ楽になった」
満碧を安心させるよう笑んでみせる。まだ不安そうな顔をしていた満碧だったが、汀夏も引き下がらないことを感じたのだろう。おやすみなさいませ、と言って部屋を辞していった。
誰もいなくなった部屋で汀夏は布団に身体を横たえ、真っ暗な天井を見つめた。気持ちはやや重たかったが、身体は満碧のおかげで軽かった。骨と肉に力がみなぎるような感覚を覚えたのはしばらくぶりだった。
(私の心境を吐露したところで、彼は困るだけだろうに……悪いことをした)
おまけに慣れない場所に来たその日に話すべきことでもなかった、と汀夏は自らの言動を反省する。現時点であまり自分の感情や考えを積極的に話す様子のない満碧には酷な質問だった。
ごろり、と寝返りを打って、汀夏は目を閉じる。今日の自分の振る舞いを若干悔いる気持ちはあれど、それ以上に心地よい眠りへの誘惑が勝ってしまった。
一方、部屋に戻った満碧は、後ろ手で障子を閉めると、早鐘を打つ心臓に手を当てて、大きく深呼吸をした。浄化での疲れではなく、最後に汀夏が口にしたことを考えるとどうしても呼吸が早くなってしまう。
昼間対峙した汀夏は、名家の当主にふさわしく泰然と振舞っていた。家柄や学歴を鼻にかけることなく、静かに満碧を受け入れてくれた、と感じた。傍に恩加島がいたことも、汀夏に当主たる振舞いをさせたのだろうと思う。だが、先ほどの汀夏は静かすぎるくらいだった。その汀夏が発した言葉は冷たいつららの様に満碧の胸に突き刺さった。
――四代も解呪できないまま続く呪いを今さらどうにかできるはずもない。
その言葉に満碧はさっと胸の底が冷えるような心地がした。汀夏の言う通り、一般に呪いというのは時代が下るにしたがって、解きづらくなるもので(呪いの発生源の特定が難しくなるためである)、これまでに満碧が解いたことがある中では親子二代に渡るものが一番長い期間かけられていたものになる。この時は呪いの根本原因を解いたのではなく、呪いの進行スピードに対して、それを上回る速さで浄化を実施して――つまるところ力業である――呪いを解除した。汀夏の呪いが四代も前となると、ほとんど解くための手掛かりはなく、また四代経っても涸れない呪いは非常に強力であり、満碧の力を持ってしても、力業で解除することは不可能と言っていい。今日初めて汀夏の呪いに触れてみて、満碧のこれまでの経験の中でも群を抜いて強力なものであることがわかった。この世のすべてを憂い、投げ出してしまいたくなるような無力感に苛まれる呪いだった。
(あの言葉はおそらく、汀夏様の本心だ。おれの働きでどうなるものでもないだろうけど)
解呪は難しいか、と満碧に問うた汀夏はひどく心細い顔をしていたように見えた。憂色をただよわせてほしくない、と満碧は思う。しかし、そう思ったところで、満碧にできることは、なるべく汀夏が穏やかに過ごせるように尽力することしかない。
満碧はまだ震える息を大きく吐き出すと、ようやく身体を布団に横たえた。家で使っていた薄い敷布団とは異なり、柔らかく満碧の身体が沈みこむ。
(家を出られたのは、汀夏様のおかげなのだから……)
せめてその恩に少しでも報いたいと満碧は思う。誰かのために何かをしたいと思うのは初めてのことだった。
翌日。
満碧が目を覚ました時には、すでに日が高く昇りきっており、朝よりも昼が近かった。家の主人の見送りもできず、何たる有様かと布団の横で項垂れる満碧に、食事を運んできた藤世は慰めの言葉をかけた。
「旦那様が、昨夜は負担をかけたようだからゆっくり寝かさせておきなさいとわたくしどもに言いつけたのですよ。ですから気に病まれる必要はございません」
「そう言われても……」
なおも食い下がる満碧に、藤世はにっこりとほほ笑んだ。頬の肉が上がって、福の神のようである。
「大丈夫ですよ。わたくしどもは皆、満碧様に感謝しているのですから。ここ数年、旦那様がお勤めに出られるようになってから、あんなにお元気な姿は初めて見ました。いつ頃からでしたかもう定かではありませんが……ご朝食を召し上がってから出勤されたのも随分久しぶりでした」
藤世はそう言って、目の端を前掛けでぬぐった。
「それもこれも満碧様がいらしたおかげです。本当にありがとうございます」
頭を下げる藤世に満碧は戸惑う。こんなにも真っ直ぐに謝意をぶつけられたことはこれまでなかった。
「さあ、冷めないうちにお召し上がりください。美味しゅうございますよ」
藤世が運んできた食事は満碧の想像よりも質素だった。満碧の身体的疲労を気遣ってか粥と漬物、味噌汁という献立である。昨夜出された夕食も豪華なものではなかったが、丁寧に作られていることはわかるものであり、必要以上の贅沢をする家ではないのだということを理解する。
「ありがとう、藤世さん」
「あらいやだ、呼び捨てで構わないと昨日もお伝えしましたのに」
「おれがそう呼ぶって決めたんです」
昨夜汀夏も構わないと言ったので、満碧は少しだけ口調を崩した。藤世は意外そうな顔をしたが、すぐに元のにこやかな顔に戻った。
「それと、あとで恩加島さんと話をしたいんですが……いつもはどちらに?」
「恩加島ですか? この時間なら、自動車の手入れをしているはずですから、食堂に呼んでおきましょう。お食事がお済みになったら食堂までご案内します」
「ありがとう。では、いただきます」
満碧は手を合わせて食事を口にする。昨日の夜と同じく、上品な薄味で整えられており、胃の腑にじわりと染み渡る。実家の食事ではめったに感じることのなかった言い知れぬ感覚――おそらく美味いというのだろう――があった。
決して早食いというわけではないが、もくもくと食べ進める満碧に藤世は優しく「お変わりもございますからね」と言った。きっとこれだけで腹は満たされると思ったが、藤世の気遣いを満碧はありがたく受け取った。