食事を済ませた満碧が食堂に向かうと、すでに恩加島が待っていた。老齢ではあるが、すらりと背筋を伸ばして立っている恩加島は年齢よりも若く見える。
「満碧様、お呼びとのことでしたが、何か不手際がございましたか?」
心配そうに訊ねる恩加島に、満碧は首を横に振った。
「いえ、ありません。昨日の書類の話の続きをしたいのと、教えてほしいことがあったのでお呼びしました」
満碧はそう言って、恩加島に座るよう促した。向かい合って座ったところで満碧は再び口を開いた。
「昨日話に出た入籍届ですが、あとで署名しますので部屋に届けてくれますか」
満碧が直球にそう告げると、恩加島は驚きに目をみはった。昨日の今日でそんなことを言われるとは思ってもみなかったようだ。しかし、恩加島はすぐに落ち着きを取り戻して、満碧に訊ね返した。
「そ、れは……わたくしどもは願ったり叶ったりの状態でございますが、満碧様はよろしいので?」
「はい。もとよりおれは実家から売られたようなものです。うっかり実家に戻されるような可能性をなくしたいのです」
金で買われた、ではなく売られたと表現した満碧に恩加島は頭を軽く下げた。主人の行いを悪く言わなかった満碧に対する謝意だろう。満碧としては、実家から汀夏に難題をふっかけるつもりで金の話をしたのだろうと想像がついていたので、率直なところを話しただけのつもりだったが。
「逆におれからもうかがいますが、この家にも跡継ぎが必要になるかと思います。そうなったときにおれでは、それを叶えることは絶対にできません。菊名橋家はそれでもよいと判断されたのですか」
満碧の問いかけに恩加島は是とうなずいた。
「これは、わたくしの自身の気持ちもありますが、今この家にいる使用人どもは旦那様がご幼少のみぎりからお仕えしておりまして、わたくしどもが願うのは旦那様に少しでも長く生きていただきたい。ただそれだけでございます。もし跡継ぎが必要になれば、養子を取ればよいと大旦那様は生前仰せになられました」
恩加島の言う大旦那様、というのが汀夏の父である、と理解して満碧は話を続けた。
「汀夏様ご自身のお考えはご存じですか」
「ええ。ただ、旦那様は自身が死しても養子はとらず、菊名橋家を絶やすようにとおっしゃっていました。理由は……お察しください」
頭を下げる恩加島に、おそらく汀夏は自分の死とともに呪いを絶やすつもりなのだと満碧も理解した。しかし、その手法は悪手である。汀夏の身体に収まっていた呪いが、彼の死とともに消えるとは思えない。汀夏という器を失った呪いがどうなってしまうのか、想像するだけで恐ろしかった。ただ、他の人間を家の騒動に巻きこみたくないのだという汀夏の姿勢は、好ましいものだと満碧は思う。
「ええ、わかりました。汀夏様は、責任感が強くてお優しい方なのですね」
満碧がそう言うと、恩加島は我が意を得たとばかりに大きく何度もうなずいた。
「先程も申しましたが、わたくしは少しでも長く汀夏様にはお元気でいらしてほしいのです。ですから、満碧様が当家にいらして本当に感謝しておりますよ」
藤世と同じことを言う恩加島に、この家にいる使用人は本当に汀夏のことを大切に思っており、汀夏もまた彼らを単なる使用人としてではなく、ひとりの人間として大切に接しているのだと満碧は感じた。
(でも、そうであるがゆえに、汀夏様が弱音を吐くことはないのかもしれない。少しでも健康に、長く生きてほしいと願っている皆の前では言えないだろう……)
満碧は内心ひそかに汀夏に同情する。
「ところで、満碧様。教えてほしいこと、というのはなんでございましょう」
恩加島の言葉で満碧はハッと我に返る。
「あ、その……菊名橋家のことを教えていただきたくて、恩加島さんがご存じの範囲でいいので、呪いを受けてからこれまでのことを教えてもらえませんか」
満碧はじっと恩加島を見つめて頼んだ。恩加島はやや困惑したように言う。
「わたくしが答えられることであれば、お答えしますが……旦那様にお尋ねになってもよろしいのではございませんか?」
「……おそらく汀夏様はおれに心配をかけないようにしたいと思って、素直におっしゃらないことがあるでしょうから」
満碧の言葉に恩加島は「確かにそうでしょうね」と失笑した。
「では、僭越ながらこの恩加島からお話しいたします。わたくしが初めて菊名橋家に参りましたのは、旦那様のおじいさまである冬嗣様がご当主をおつとめになっていた頃でございます。わたくしは十五で、冬嗣様は二十二、そして秋哉様――大旦那様がお生まれになったばかりのことです。そこから五十年、菊名橋家に勤めて参りました」
五十年という年月にくらくらした。ここで恩加島は冬嗣、秋夜と二人の当主を見送ってきたことになる。
「冬嗣様も秋夜様もお若くして亡くなられまいましたが、優秀な方々でした。菊名橋家は代々神祇省のお役目を引き受けてきた家でございますので、お二人も例に漏れずお勤めにはなったのですが」
「……もしかして、」
顔を曇らせる恩加島に満碧は恐る恐る口をはさむ。
「はい。満碧様がお察しの通り、短命の呪いにかかっている者は神祇省の重要な役職にはつけられないと閑職に追いやられてしまったのでございます。不当な評価であるにも関わらず、ご不満ひとつおっしゃらないので、わたくしは悔しくてなりませんでした」
恩加島は食卓に置いた手をきつく握りしめていた。彼の本心なのだなと思いながら、満碧は続きを促した。
「ですが、閑職とはいえ神祇省に勤めている役人ですから、世間の目は羨望に満ちたものになります。大旦那様にはその乖離がことさら重くのしかかっていたようです。そして、それをご存じだった旦那様は閑職に就く現状を良しとなさいませんでした。周囲の文句を跳ね返すように勉学に励んで、帝都大学を首席で卒業されたのです。そうなってしまえば、神祇省の人事担当も重要な役職に就けざるを得ませんから」
汀夏のことを話す恩加島は自分のことのように誇らしげだった。きっと汀夏が帝国大学の卒業を一番に報告した相手も恩加島だったのだろうなと満碧は思った。汀夏にとって幼くして亡くした父より、恩加島の方がずっと身近で父に近い存在だったのだろう。
恩加島は話を続ける。
「本当に努力家で素晴らしい方なのです。表にはお出しになりませんから、それをわかってくださる方はほとんどおりません。わたくしも還暦を迎えて五年経ちました。旦那様の前では申しませんが、先が長いとは言えぬ身です。ですから、こうして旦那様のことをお話して、理解いただける方がいらしてくださって本当に嬉しいのですよ」
満碧に優しい笑顔を向ける恩加島に、どこかホッとしたような気持を覚える。身内に優しくされた記憶はほとんどないが、父や祖父がいればこのような感じなのかもしれない。この人のためにも、役に立ってみたいと満碧は思う。
(でも、どうやって?)
学校は小学校までしか出ていない。それも家の勤めであったり、容姿のことで遠巻きにされたりしたため、途中からはほとんど行けていない。最低限の読み書きがかろうじてできるだけの自分に何ができるのか、満碧は考えなくてはならない。おまけに考えるための時間が多く残されているわけでもない。何かできることがないか、というのは汀夏に相談するべきだろう、と自分の中で一旦の結論を出し、満碧は目の前の恩加島に礼を言った。
「ありがとうございました。お話が聞けてよかったです」
「こちらこそ。途中から旦那様の自慢話になってしまってお恥ずかしい限りですが」
照れたように頭の後ろに手をやる恩加島に、満碧もおかしくなってくすくすと笑った。恩加島の話に出てくる汀夏は、菊名橋家の当主ではなく、一人の青年であった。
満碧が笑うのを恩加島は優しいまなざしで見つめた。
「初めてお笑いになりましたね」
「え?」
そうだったか、と満碧は思わず頬に手をやる。笑ったのは久しぶりのことだ、と意識すると頬を上げる動きに違和感を覚える。
「恩加島は、満碧様にも明るく、お元気でいてほしいのですよ。それだけは覚えていてくださいませ」
恩加島は食堂の大きな柱時計に目をやり「申し訳ございませんが、このあと別の仕事がございますので、ここで失礼いたします」と言って椅子から立ち上がった。
「あとで書類をお部屋にお届けに参ります。それでは、わたくしはこれで」
腰からスッと上半身を折って、恩加島は綺麗な一礼をした。満碧も慌てて立ち上がり「ありがとうござました」と礼を述べた。
○
その日の夕刻、満碧は部屋に届けてもらった入籍届に署名をした。〝松白満碧〟と書いて、ふとこの名前を書くのは最後になるのだと思う。未練がある名ではないため、清々しさすら覚える。
届人の欄にはすでに戸主である汀夏の名が記されていた。その名を表すかのように、さらりと流れる水のような美しい手である。満碧はほぅ、と小さく息を吐き出した。
(汀夏様はどんな顔で受け取られるだろう)
誰かの帰りを待ち遠しいと思ったのは生まれて初めてだった。
満碧は入籍届を持ったまま、汀夏の帰りを知らせる音が聞こえないかと静かに耳を澄ませた。