喧嘩で補導をされた少年を迎えに来てくれないか、という電話が六條にかかってきたのは春のある金曜日の夕方だった。後見人として事務的に登録された名前だった。少年の両親は事故死しているため、現在の保護者は祖母であり、高齢の彼女を向かわせるのも酷だろうと判断してのことだった。
「優しいな」
立ち上がった六條を見上げて事務所の主・南方源は言う。丸いレモンティー色の目がくるり、と動いた。元々童顔であることもあり、親しみをもちやすい雰囲気がにじみ出ている。少年の後見人としての適正度合は自分よりも圧倒的に南方の方が上だと六條は思っていた。
「……仕方ないでしょう。なんのためにこの制度があると思っているんですか」
「こういうときのため、だな。ただ、仕方なく行くわけじゃないだろ」
学生時代から付き合いのある先輩弁護士だとこういうときにやりにくい、と六條は思った。六條の考えていることや行動原理は大体この人には読まれているのだ。
「まあ、身近に全力で甘えられる人間がいない思春期はあまりよろしくないと思いますので」
誰も自分を見捨てないだろう、という甘えがあるからこその幼少期のイヤイヤ、思春期の反抗である。だが、おそらくこの少年は高齢の祖母に甘えないだろう、という確信が六條にはあった。
「うん、おまえはそういうことを考えられる男だよな。ランダムの制度もたまにはいい仕事をする」
「たまには、ってなんですか」
「おまえを選んだのはナイスな人選ってことだ。ほら早く行ってやれよ。警察だって暇じゃないし、おまえも暇じゃないだろ」
南方に追い払われるように六條は事務所を出たが、そのときにはたと気がついた。
(こういうときは何かお詫びの品がいるのだろうか)
だが今から行くのは警察だ。公務員でも特に厳しく規律を守っているだろう彼らに菓子折りをもっていったところで事務所に持ち帰ることになるのは目に見えていた。
「遅くなりました」
頭を下げて入った警察署の中で『少年課』とプレートが下がっている一角に近づく。口の端と額に絆創膏を貼られた少年は六條の姿を見るなり目をそらしたが、その近くにいた警察官は立ち上がって六條に会釈をした。茶色のくせ毛とぱっちりとした蜂蜜色の目が優しい印象を与えており、警察というよりは教員と言われた方がしっくりくる出で立ちをしていた。
「いえ、先生もお忙しいところありがとうございます。僕は松木と申します」
六條よりもやや年若い雰囲気を感じる青年は「名刺です」と言って名刺を差し出した。松木千遼、と書かれた名刺を受け取り、六條も慌てて鞄からアルミの名刺ケースを取り出した。もう少し高級感があるものにしろ、と南方から苦言を呈されているこのケースだが、水濡れに強く軽いので六條は気に入っている。
「今日なんですけど、相手も彼も初めての補導でしたのでこれ以上のお咎めはなし、ということになります。お手数ですがこちらに記入を」
六條は松木が差し出した書類に自身の情報を書き込んだ。書類を返して少年に「帰ろう」と声をかける。
「……」
「おーい、さっきちゃんと帰るって話したろ」
無視を貫く少年に苦笑しながら松木が声をかける。渋々少年は立ち上がって荷物を持った。松木は少しだけ腰を落として少年と目を合わせる。
「もう派手な喧嘩すんなよ」
派手じゃなければいいのか、と横で聞いていた六條は思ったが黙っていた。人と人は別の生き物である以上衝突はする。雨降って地固まるということわざが示す通り、ある程度のぶつかり合いは必要だと弁護士という仕事をしていると嫌でも感じる。
少年を家まで送り届け(手間をかけさせて申し訳なかった。夕飯を食べて行け、という少年の祖母を懸命に躱したのは余談だ)、事務所に帰ろうというタイミングで電話がかかってきた。番号は夕方少年を迎えに行った警察署のものだった。
「――もしもし」
『あ、六條先生のお電話ですか? 夜分にすみません、先ほどお会いしました――署少年課の松木です』
また何か少年課の刑事から電話を受ける用事があっただろうかと六條が考えていると松木は続きを話した。
『あの、軸にお名前が彫られている万年筆が僕の手元にあるんですけど、六條先生のではありませんか?』
言われて六條はスーツのペンポケットを手で押さえる。そこにいつも挿しているはずの万年筆はなかった。書類に記入した際にしまい忘れたのだと思い出す。
「すみません。わたしのですね」
『あーやっぱり。持ち主がわかってよかったです!』
『明日取りにうかがいますので、署の方で預かっていただくことは可能ですか』
『もちろんです。受付に預けておきます』
松木はそう言うと『では』と言って電話を切った。翌日の予定を脳内で反芻し、昼前に一度事務所を抜けて警察署に行く、という予定を追加した。
翌日の昼前に、六條が警察署に顔を出すと、ちょうど六條の姿を目にしたらしい松木が近寄ってきた。
「ご足労かけてすみません」
「いえ、こちらこそ。ご連絡ありがとうございました」
六條は松木から万年筆を受け取ると、スーツのペンポケットに挿した。
「どなたかからの贈りものですか?」
「え? ああ、兄から司法試験の合格祝いにと」
兄、とは言うものの六條は双子であるため、彼を兄と感じる機会は少ない。彼の方が先に社会に出ていたこともあり、祝わせてほしいと渡されたものだった。
なぜそんなことを訊かれるのだろう、と不思議に思っていると、松木が小さくふき出した。
「すみませんちょっと気になって。自分で名前入りのものを買う機会って少ないじゃないですか。だから就職祝いとか、誰かからもらったものかなと」
「よく見られていますね……」
警察という職業柄か松木の観察は正しかった。敵にしたくない相手だ、と思っていると向こうから「おーい松木」と松木を呼ぶ声が聞こえた。松木は振り返って相手を確認すると、六條に向き直った。
「じゃあ、僕はこれで。また何かあったときにはよろしくお願いします」
「はい」
お気をつけて、という言葉に送られて六條は警察署をあとにする。春の風が花の香りを巻き込んで吹き付けてきて、六條は小さくくしゃみをした。