夜も更けた時間に、ふと来訪者の気配を感じて甘霖は目を覚ました。
水神である甘霖が暮らすのは、自分自身の神気で作り上げた領域――神域であり、訪ねてくる者があればすぐに感知できる。
「甘霖さま、起きていらっしゃいますか」
部屋の外から侍従である一が声をかける。甘霖は起きている、と答えて部屋を出た。廊下からは庭にさめざめと降っている雨がよく見えた。
「こんな夜更けに一体どなたでしょうか」
甘霖の式神である一は幼い子どものような見た目をしており、甘霖を見上げながら訊ねた。
「……わからない。だが、厭な気配はしない」
来訪者の気配は広大な屋敷の表門にあった。甘霖と一が表門を開けて外に出ると、一人の男がずぶ濡れのまま、門に背を預けて座っていた。よく日焼けした肌に、同じく日焼けして色が抜けた海老茶の髪をした男だった。呼吸こそしているが、目を閉じてじっとしたまま動かない。
動かないことを心配して、顔をのぞきこんだ一が、あっ、と声を上げた。
「浩宇さま?」
その声につられて甘霖は男の顔をのぞきこみ――首を横に振った。
「違う、よく似ているが別の者だ」
目をつぶったまま、意識を失っている男に向けてかすれた声で言った。そして、このまま雨ざらしにするのも気の毒になり、一に「客間に運んでやってくれ」と指示をした。見た目こそ子どもだが、成人男性を一人運ぶくらいは難なくこなす。
「かしこまりました」
「私はもう少し眠る」
「はい。おやすみなさいませ」
一は甘霖に向かってお辞儀をした。甘霖は踵を返すと自室に戻る道を足早に歩く。歩きながら男の顔を思い出し、甘霖はぎゅっとくちびるをかみしめた。
――男の顔は、すでに黄泉路へ立った伴侶に瓜二つだった。
○
古来より神々が住まう世界を〈天上界〉と呼ぶ。
神々はその力の大きさに対応した神域を持ち、そこに住まうのが一般的だった。〈天上界〉の中でも、人間の暮らしに密接に関わる要素の火・風・水・土を司る四神は絶大な力を持ち、広大な神域の中で自由に暮らしていた。
水神である甘霖の神域には水が満ちている。
土地の三分の一程度を占める池があり、エの字を描いて建っている建物の縦棒の真下にあった。池には蓮が浮かび、その下を鯉が泳いでいる。また、居住地としている屋敷の柱は朱色に美しく塗られており、通称を〈水の都〉といった。
エの字の建物の上部は甘霖および式神が暮らす居住区であり、下部は客間や大広間といった来客用の設備が整えられている。その上部と下部を繋ぐのが朱塗りの橋だった。現在は来客も絶えて久しく、もっぱら上部の居住区ばかりが使われていた。
○
――ここはどこだ。
部屋全体がぼんやりと明るくなる時間に、男は目を覚ました。なぜ自分はこんなところで柔らかな布団に横たわっているのだろう、と思い、ここに来るまでのことを思い出そうとした。
しかし、いくら考えても目覚めるよりも前の記憶がぽっかりと抜けている。それどころか自らのこともまったくわからなかった。何かを思い出そうとしても、鈍く頭が痛むだけだ。
「もし、お目覚めでしょうか?」
部屋の外から声がかかり、男は返事をした。子どものような声だったな、と男が思っていると部屋の木戸が開けられ、お辞儀をする小さな子どもの姿が見えた。ただし、総角に結われた髪の下にある耳の先端がとがっており、人間ではないことが見て取れた。
「……おれは死んだのか」
人ならざる者の姿を見て、思わずそう零すと、子どもは「滅相もございません」と首を振った。
「と言ってもにわかには信じがたいでしょうね」
子どもは子供らしからぬ苦笑を見せた。
「あなたの状態について主より説明がございます。ぼくのあとについてきてください」
男は布団から出ると、子どものあとをついて歩いた。子どもはゆっくり歩く男を時折振り返りながら、長い廊下を歩いた。廊下からは庭と巨大な池が見える。
子どもが「ここです」と言って立ち止まるころには、男は息を切らしていた。
「大丈夫ですか?」
「いや……あまり」
前の状態を知らないため比較しようがないが、成人男性の体格をしていながらこの距離の移動で息を切らすのはおかしい、と男は思った。
「今は少し体力が落ちていらっしゃるだけです。すぐに慣れて平気になりますのでご安心くださいね」
そう言われてそうか、と納得はできなかったが、とりあえず男はうなずいた。そして、子どもに訊ねる。
「ここまで来ておいて言うのもあれだが、屋敷の主に会うのにこの格好でいいのか」
「ええ。構いません。主はそういうのを気にされる方ではありませんから」
どうやら失った記憶は自分自身のことについてだけだ、と男は思う。寝間着で家の主に会うことが礼儀を欠くと思い至れてよかったと安堵した。このまま屋敷の主に会うのは気が引けたが、侍従の子どもがそう言うならば、と男は渋々納得した。
「甘霖さま、お連れしました」
「ご苦労、一。入りなさい」
部屋の中に向けて子どもが声をかけると、中からは涼やかな声が返ってきた。水面を吹き渡る初夏の風を思い起こす声に、男は思わず姿勢を正す。
「どうぞ、お入りください」
木戸を開け、一と呼ばれた子どもが促す。恐る恐る男は部屋に入り、この家の主を前に平伏した。
「畏まらず、楽にしてくれ」
二人だけになってからの第一声はこれだった。変わらず涼やかな声だ。本当に楽にしてもいいものか判断しあぐねて男は平伏したままでいた。
「私は形式的なやり取りを続けるのが苦手だ。楽にしてくれ」
二度目の言葉でようやく男は顔を上げ、目の前にいる屋敷の主を見た。
白縹色の長い髪を頭頂部付近で束ね、薄い薄荷色の衣装を身にまとっている。光沢のある衣装は絹で出来ているのだろう。
およそ人間では見たことが無いほどの美貌に思わず見惚れた。
「どうした?」
訊ねられて男は黙って首を横に振った。思わず見惚れた、と答えることは憚られた。屋敷の主はたいして気にした様子もなく「さっそく本題に入ろう」と言った。
「単刀直入に問うが、これまでのことを何か覚えているか」
「いいえ。まったく」
自分の名前さえ思い出せない、と付け加えると、屋敷の主はやはりか、とつぶやいた。
「……あの、やっぱりおれ、死んでしまったんでしょうか」
恐る恐る男が訊ねると、屋敷の主は首を横に振った。先ほどの子どもにも違うと言われたが、ここでも否定されて男はホッと胸をなでおろした。
「ここは水神である私の神域だ。生身の人間では訪れることができないが、ひどく疲弊した魂が極稀に訪れることがある」
やはりとんでもないところに来てしまった、と男は顔を青くした。どこから来たかもわからないまま、神の住まう領域に入りこんでしまっては、もう自分はどこにも帰れないのではないか、と男は底知れない不安を覚えた。
「ああ、そんなに不安に思うことはない。別に取って食ったりはしない」
そう言って水神は目を細めて男を見た。腹の底まで見通されるような視線に男はなんとなく居心地の悪さを感じる。
「おそらく、どこか水場で死にかけたのだろう。記憶がないのはここにたどり着くまでの代償だ」
「代償……?」
「そうだ。この世界での記憶は生命力と言い換えてもいい。生命力が底を尽きかけている状態では、記憶を維持することも難しい。回復して記憶が戻れば自然と元の世界に戻ることができる」
水神の言葉に男は安堵した。神の怒りを買うような事態にはなっておらず、どこに帰るかはわからないが元居た場所に帰ることができるらしい、とわかっただけでも僥倖だ。
「しばらくはここでゆっくりするといい。ああ、でも名が無いのは不便だな」
水神はしばらく考えていたが、ふと思いついたように顔を上げた。
「海鳥、と呼ぶことにしよう」
男は水神の名づけをありがたくいただき、深く頭を下げた。そしてふと相手の名前を聞いていないことに気がついた。
「あの」
「うん?」
「あなた様のことは何とお呼びすればよろしいのでしょうか」
その問いかけに水神は言葉では言い表せない不思議な表情を見せた。愛しさと悲しさと懐かしさを混ぜたような表情が意味するところを海鳥は見たことがなかった。
水神は端麗な顔をわずかに緩ませて答えた。
「――甘霖と呼んでくれればいい」
恵みの雨と同じ意味を持つ名前は、海鳥の耳に心地よく響いた。
「ここにいる間の世話係に私の式をつけよう。名前は二という。一と一緒に廊下に待機させて在る」
「ありがとうございます」
海鳥はもう一度深々と頭を下げ、部屋を辞した。背中にじっと見つめる甘霖の視線を感じることだけが、ほんの少しだけ居心地悪かった。
廊下に出ると先ほど道案内をしてくれた子どものほかにもうひとり子供が控えていた。ふたりの子どもは髪飾りと着ている服の色が異なるだけで顔はそっくりだった。ふたりのうち、黄色の髪飾りと服を身に着けている方が、海鳥にぺこり、とお辞儀をした。
「海鳥さまのお世話をまかされました二と申します。お困りのことがあればいつでもお声がけください」
「ああ、うん。ありがとう」
丁寧にあいさつをされて海鳥は戸惑った。甘霖と話をしたときにも感じたが、どうやら元の世界の自分はこのような丁重な扱いを受ける身分ではなさそうだ。なんともいえない違和感があった。
「まずはお部屋までご案内します。当面必要そうなものはご用意しましたので、安心してくださいね」
海鳥はもう一度、二に礼を言った。
「海鳥さま」
「ん?」
赤い髪飾りと服を身に着けている子ども――一が海鳥に呼びかけた。
「この世界に迷い込んだ方は丁重に扱うよう定められていますから、気兼ねすることなく休んでいってくださいね」
その言葉に海鳥は曖昧にうなずいた。海鳥の腰のあたりに顔がある二がえへん、と胸を張った。
「僕がきちんとお世話しますから安心してください」
さ、行きましょう、と言って二は海鳥の手を引いて歩き出した。体格のいい大人である海鳥はつんのめりそうになりながらついていく。
その後ろ姿を見送った一は部屋の中の甘霖に向けて「入りますよ」と言った。そっと戸を横に引いて一が室内に入ると、甘霖はホッとした顔を見せた。
「本当によろしいのですか? あの方をここにおいて」
「よいも何もない。お前自身も言った通り、この世界に迷い込んだ人間は丁重に扱って帰すよう定められているだろう? それを私の勝手で曲げるわけにはいかない」
「……でも、甘霖さまではなくともよいではありませんか。この世界にはたくさんの神様がお住まいでしょう」
「そうは言っても、門の前にいたものを無碍にはできない」
おまけに元々大事にしていた伴侶に顔が似ていては放っておくのも寝覚めが悪い。
「それは、そうですけど……。ただでさえまだ癒えていない傷があるのに、わざわざ塩を塗るようなことをしなくてもいいのではないかと思います」
「大丈夫だ。そのうちあれも元居た世界に帰る。私も塩漬けになるわけではないから問題はない」
甘霖の言葉に一はぷくり、と頬を膨らませた。式神である以上、通常の子どもよりかなり大人びた振る舞いをするが、喜怒哀楽といった感情を表すときだけは子どもらしさがにじみ出る。
「甘霖さま、ぼくは、あなたが心配なだけです。あなたがまた傷つくのは見たくありません。神域の雨だってずっとやまないじゃないですか」
もう! と怒る一を甘霖は手招きした。怒りつつも一は素直に甘霖に近寄る。
「雨は、いずれやむはずだ。私にもいつやむのかわからないが」
「……またみんなで外で宴会をしたいです」
「うん」
そうしたいな、と言って甘霖は一の頭を優しくなでた。
一方、海鳥は二の案内のもと、客間の前までやってきた。先ほどまで寝かされていた部屋の隣にあたり、エの字の下の横棒部分に位置している。
「こちらのお部屋に一通りの家具と衣類が揃っております。ですが、足りないものがあったら、部屋の中の鈴を鳴らしてください」
「わかった。ありがとう」
「僕は甘霖さまの式神なので、普段はお屋敷の中のあちこちにいますが、その呼び鈴が鳴ればすぐにこちらの部屋の前に移動できますので」
人智が及ばない術が使われているのだな、と感心しつつ海鳥が二の話を聞いていると、背後からトタタタ、と軽い足音がして、海鳥の腰に衝撃が走った。
「ウッ!」
後ろを振り返ると、二と同じ姿の子ども(服と装飾品の色は緑色だった)が海鳥に背後から抱きついていた。
「浩宇さま、おかえりなさい! ボクずっと、待っていたんですよ。浩宇さまがいなくなってから、ずっと雨が降っているし、お屋敷も暗くて、さびしかったです」
嬉しそうに言って海鳥に抱きつく子どもを二が慌てて引き離す。
「三、この方は浩宇さまではありませんよ。よく見て」
二に言われて海鳥の顔を見上げた三は泣き出しそうな顔をした。
「事情はよくわからないが……。悪いな、違う人間で」
「……いえ、勘違いしたボクが悪いです」
先ほどまでのキラキラした瞳が曇り、しょんぼりとした三を見て、海鳥は思わず謝罪したが、よく考えると自分が謝罪することではない、と思い至る。
「その、浩宇って男はよっぽど俺に似てるんだな」
「ええ、見た目はとても」
「どんな男だったんだ?」
訊ねた海鳥に二と三は顔を見合わせた。そして「申し訳ありません」と謝罪をした。
「甘霖さまのお許しがないとお話できないのです。ぼくたちのせいで海鳥さまも気になるとは思いますが、堪えていただけませんか」
「わかった。主神の許しがないなら仕方ないな」
自分に似た男がいた、という話は非常に気になるが、主たる水神が許可をしないのであれば仕方ない。甘霖に直接訊ねる、ということも視野に入れながら、海鳥は一旦引き下がることにした。
おとなしく引き下がった海鳥にふたりの子どもはホッとしたような顔をした。
「では、改めて、こちらでゆっくりとお過ごしください。さっきもお伝えしましたが、何かあれば呼び鈴で呼んでくださいね。遠慮はいりませんから」
「ああ、ありがとう」
少し迷ったが、海鳥はふたりの子どもの頭を撫でた。決して優しいとは言い難い手つきだったが、ふたりは嬉しそうに海鳥に頭を撫でられていた。
(浩宇ってのは一体何者なんだろうな)
まさか自分の本当の名前ではないだろうな、と思いながら海鳥は自室としてあてがわれた部屋の扉を開けた。