第二話

 水神の神域で過ごす日々はよく言えば穏やか、悪く言えば退屈だった。ゆっくりしていくといいと言われたものの、数日で海鳥は飽きていた。
 することがないと退屈だ、と言った海鳥に世話係の二は書庫を案内してくれたが、残念ながら海鳥は文字を読むことができなかった。己は書物が読める人間ではないのだな、と海鳥はまた一つ自分のことを知った。
「申し訳ございません。お役に立てなくて……」
「いや、俺に学が無いのが悪い」
 しょんぼりと項垂れた二に海鳥は言う。
「逆に訊くが、神々はここでどうやって暮らしてるんだ?」
 いくら人間と寿命と時間感覚が違うとはいえ、退屈ではないのか、と思って海鳥は訊ねた。
「そうですねえ、基本的にはお休みになっていることが多いです。ここは自宅という扱いですから。甘霖さま含め、この世界に住まわれている神様はご自身が管理される場所にお出かけされていることが多いので、お戻りになったときには休まれているんです。大体、数十年ごとに繰り返されますね」
「……」
 うっかりこの神域が無神のときに迷い込まなくて本当に良かった、と海鳥は自分の運のよさに深く感謝した。
「あとはたまに他の神域にお住いの方が遊びに来てくださることがあります。そういうときも数年単位で滞在されますから、退屈はしませんね」
「なるほどな。今が特別なにもない時期ってことか」
「そうなります」
 二は海鳥の言葉にうなずいた。そして思い出したように「あ!」と声を上げた。
「伴侶がいらっしゃる方は、おふたりで仲睦まじくお過ごしになりますね」
「……」
 そういう情報はいらない、と海鳥は思ったが口には出さなかった。
「伴侶がいらっしゃらない方は湯治とか、その近くのお茶屋さんに行かれることが多いと聞いています。海鳥さまもお出かけされてみます?」
「いいのか?」
 甘霖の管理する神域から出られないものだと思っていた海鳥は二の提案に驚いた。
「甘霖さまの従者としてならお出かけできますから、甘霖さま次第ですが」
「そういうことか……」
 自分のわがままで神域の主を振り回すのは気が引けた。
「遠慮されずとも大丈夫ですよ。おうかがいを立てるだけならただですし」
 数日接していて気がついたが、甘霖の式である一から三はそれぞれ少しずつ性格が違う。一はやや心配性であり、三は相手を問わず甘えたがる気質が強い。二はほかのふたりと比べるとやや大らか――雑ともいう――であり、主たる甘霖にも率直な物言いをすることが多かった。
「二は大丈夫でも俺の気持ちが大丈夫じゃねえんだよな……」
「?」
 きょとん、と海鳥を見上げる二に「何でもない」と海鳥は言った。
「どうします? おうかがい立ててみます?」
「いや、今日はやめておく」
「わかりました。いつでもお声がけくださいね」
 海鳥は二に生返事をして、それにしても、と空を見上げた。
「ここはずっと雨が降ってるんだな」
「ええ、そうですね」
 やむことはないのか、と海鳥が重ねて訊ねようとした瞬間、びゅう、と強い風が吹いた。思わず海鳥は目をつむる。がたがたと屋敷全体の木戸が揺れ、池の水面がゆらゆらと揺れた。
 風がやんだのを感じて目を開けると、まばゆい光が瞳を焼いた。
「初めて見た。晴れるとこんなに綺麗なんだな」
 突風によって屋敷の空全体を覆っていた厚い雲が吹き飛び、上空に輝く太陽が顔を出した。池の水面が太陽の光を受けてきらきらと輝く。晴れるとここはこんなに楽園のような様相を表すのか、と海鳥がここにやってきてから初めて見る太陽に感動していると、甘霖がやや不機嫌そうに部屋から出ていくのが見えた。
「……?」
 一体なんだろうか、と海鳥がいぶかしんでいると、甘霖の部屋から一緒に出てきた一が長い橋を渡って、海鳥たちがいる方のエリアにやって来た。
「お客さまがいらしたので、おもてなしの準備をしますね」
「……数年単位で滞在するっていう?」
 恐る恐る海鳥が訊ねると一は首を横に振った。
「いえ、今日いらした方はせっかちなので、今日のうちに帰られますよ」
 では、と言って一は厨のある方へ行ってしまった。残されたふたりは顔を見合わせる。
「俺は部屋に戻っておいた方がいいか?」
「どうでしょう。お部屋に戻られてもおそらく今日のお客さまは海鳥さまに会いたいとおっしゃるような気がします」
「……人前に出られる服に着替えておいた方がいいか」
「その方がよいと思います」
 屋敷の中にいるだけであり、時折、式神たちだけでは届かない高所の掃除を手伝うこともあったため、海鳥の着ている服は使用人同然の汚れても構わない服だった。せっかく色々用意したのに、と式神たちは言ったが、海鳥は聞き流していた。

 海鳥が自室で着替えて廊下に出ると、甘霖と並んで歩いて来た客と鉢合わせた。甘霖よりも上背があったが、全体的に軽やかな印象を受ける男だった。真っ白な髪は雑な手入れしかしていないのか、四方八方にはねているが、着ているものは甘霖と同じく光沢のある上質なものである。客は海鳥を見ると目を見開いたのち、大声で笑い始めた。
「はははははは! そうかそうか、最近感じた不思議な気配は君だったか!」
「?」
 なるほどなあ、とうんうんうなずいている客に対し、海鳥ははて、と首を傾げた。もしかすると自分はこの男に会ったことがあるのだろうか。
「オレは風獅。名に風とついている通り風神だ。〈天上界〉で一番力を持ってるのもオレだから、いざってときには頼ってくれ」
 よろしく、と差し出された手を海鳥は握った。温かくも冷たくもない不思議な感触の手だった。そして自分が名乗っていないことを思い出した。
「名乗りが遅れましたが、俺は――」
 甘霖につけてもらった仮の名前を口にしかけた瞬間、風獅の人差し指が海鳥のくちびるに当てられた。
「おいおい、甘霖。拾った人間の躾はちゃんとしろよ。神に名乗るやつがあるか」
 尖った声で言う風獅に甘霖はさらりと答える。
「それが名乗るのは私がつけた仮の名だ。問題はない」
「そりゃ君は〈天上界〉で俺の次に力を持っている神だから問題はないだろうけど。いいか人間の坊主、そもそも神に名乗るな。今のお前につけられている名前は甘霖の加護を受けているが、それを考慮しても名乗らない方がいい。名前を知られるということは支配権を相手に与える、ってことだからな」
 オレが優しい神様でよかったな、と言って風獅は海鳥のくちびるから指を離した。そして風獅は海鳥を指さして甘霖に言う。
「なあ甘霖、気が変わった。こいつと話をしていいか」
「本人がいいなら私は構わない……が、そもそも自分が招かれざる客だということに自覚的になってくれ」
 海鳥の意思は一応尊重してくれるらしいが、この世界で一番の実力者に求められては実質断れない、と海鳥は思った。現に招かれていないにも関わらず、甘霖の神域にやってきている時点で、海鳥と甘霖の立場はよく似たものだろう。
「オレは堅苦しいのが苦手だからな、そうかしこまらなくてもいい。さっきも言ったがオレは優しい神様だからな」
「……はあ」
 人間に対して握手を求める当たり、確かに親しみやすいのかもしれないが、今の海鳥にとっては甘霖の方がまだ信頼できる相手だ。
海鳥は助けを求めるように甘霖に視線を送ったが、残念ながら気づかれることはなく、「私は厨にいる。あとは任せた」と言って踵を返されてしまった。そんな甘霖と海鳥の様子を風獅は吹き出すのをこらえながら見ていた。
 海鳥の後ろにいた一と二が「こちらにどうぞ」と言って客間の戸を開けて、風獅を案内した。客間の卓にはすでに湯気を立てた茶が置かれていた。その後ろに続いて海鳥も部屋に入る。一と二はごゆっくり、と声をかけて戸を閉めてしまった。
 室内には海鳥と風獅のふたりだけが取り残される。
「さ、座るといい」
 さっさと上座に座った風獅が言う。もとから自室であったかのような風獅の振舞いに海鳥は一瞬ためらったが、その場に腰を下ろした。
「さて、君はどこから何を聞きたい? オレはなんでも答えてやれるぞ」
 風獅はにこやかに言った。なんでも、という言葉は誇張ではなく事実なのだろうと感じさせる響きだった。
「ではまず……あなたがこの世界で一番力を持っているというのは本当ですか?」
「うん? 面白いこと訊くなあ。さっきこの神域が晴れたのは見てたか?」
 確認されて海鳥はうなずいた。
「あれは風神のオレが風を利用して甘霖が作り出した雲を薙いだからだ。ほかの神の神域にあるものに手を出せるのは上位の神だけだからな。と言っても納得はしないか。この世界における神の力の強さは、人間の生活とどれだけ密接かによる。風神であるオレは大気中の空気の管理者でもあるから、一番力を持ってるって理屈だ」
 呼吸ができなければ人間は死ぬ。そして水が飲めなくても人間は死ぬ。生命維持の大事な要素を担っている二神の力はほぼ同等だが、わずかに風獅が強い力を持っていた。
「わかったか?」
「とてもよく」
 海鳥がうなずくと風獅は「よし、次」と言った。
「俺とあなたはどこかで会ったことがありますか」
「ないな」
 即答されて海鳥は落ち込んだ。自分のことを知っているからこその高笑いではなかったのか。
「まあそう落ちこむな。君自身に会ったことはないが、君によく似た男に会ったことはある」
 これはチャンスだ、と海鳥は思った。甘霖よりも上位に位置する風獅には箝口令も関係ない。海鳥の知りたいことを話してくれるかもしれない。
「浩宇という名前の男ですか?」
 思い切って海鳥が名前を出すと風獅はややいぶかしむような表情をした。
「なんだ知ってたのか」
「名前だけ聞きました」
 暗に詳細は聞けなかった、と言えば風獅は笑った。
「まあ甘霖は話さないだろうな。本当によく似ているが、君と浩宇では魂の形が違う。オレたち神は見た目だけじゃなくて魂の形も見るんだ」
「魂の形……」
 よくわからない話だ、と海鳥が思っていると風獅は「昔話をしてやろう」と言った。
「本当はオレからじゃなくて甘霖から聞くのがいいとは思うが、そんなことしてたらおそらく君の寿命が尽きちまうからな。一言でまとめると浩宇は甘霖の元伴侶だ。神の伴侶になる人間の話はそこらじゅうに転がってるだろ?」
 と、風獅は言ったが、神話や伝承の類も海鳥の記憶からは失われており、今一つピンとくるものはなかった。それよりも引っかかったのは〝元〟という単語だった。
「元?」
「ああ、少し前に死んだけどな。浩宇が死んでからここにはずっと雨が降ってる。時折オレが来るとき以外はずっとだ」
 そう言われてようやく海鳥は、式神たちがすぐ自分に懐いた理由と、甘霖の態度がよそよそしい理由を理解した。最近亡くしたばかりでは仕方がない、とも思う。
「あ、悪い。少し前って言っても人間の感覚だと違うな。四十年ほど前だ」
「四十年⁈」
 仕方がない、と思った自分自身を海鳥は殴りたくなった。神の感覚では四十年は短いのかもしれないが、人間にとって四十年はあまりに長い。
「神域に四十年も雨が降る、というのは普通のことですか?」
「悲しみ方は神によって違う。そこは人間と同じだ。オレの神域では雷が鳴るしな。まあ……そうはいっても甘霖は湿っぽくなりすぎる」
 この朗らかで軽やかな風神も何かを悲しむことがあるのだ、と海鳥は思った。
「君、今失礼なことを考えただろう」
「いえ」
 とっさに否定したが、おそらく風獅には海鳥の考えていることなどお見通しだろう。
「まあいい。それで他には? オレの気分が許す限りは答えてやる」
「俺の記憶はどうしたら戻りますか?」
 何をするでもなく、ただこの世界にいるだけでいいのか、と海鳥が訊ねると、風獅は「うーん」とうなった。
「オレから答えを言うことはない。オレも正解を知らないからな。ただヒントを与えることはできる。とにかくこの屋敷の主である甘霖と関わることだ」
「?」
 そんなことが本当に記憶を取り戻す手助けになるのだろうか、と海鳥は首を傾げた。
「オレの言うことを疑っているな?」
 風獅が目を細めながら言った。素直に海鳥が肯定すると「君は正直な人間だなあ」と風獅子は苦笑した。
「まあ疑うのも無理はないだろうが、君が記憶を取り戻して元の世界に帰る手がかりはこの屋敷にある。迷いこんだ人間が最初にたどり着く場所は、なにかしら縁がある場所だからな」
「わかりました」
 この世界で一番力を持つと豪語する神様が言うからには本当なのだろう、と海鳥は半ば無理やり納得した。自分のことが何もわからない今、この世界に長く在るものの言うことを信じることしかできない。
「書物が読めればそれが一番楽だろうが、それはすでに試したんだろ?」
 風獅の問いかけを海鳥は肯定した。そして文字が読めないことが発覚した。
「それならなおさら甘霖と関わらないといけないな。関わり方はなんでもいい。話をするでも、ただ近くにいるでも、な。今の君の一番の武器はその顔だ」
「……弱みにつけいるようで気が引けますが」
「人間ってのは意外と清廉だな。まあ、使えるものはなんでも使っておけ。オレが許す」
 確かに使えるものはそれ以外になにもない。風獅の言葉で海鳥の腹は決まった。
「ん、よし。じゃあ最後にオレの加護もやろう」
 風獅はそう言って白い糸を編みこんで作られた腕輪を海鳥に手渡した。麻のような手触りのそれを海鳥はしげしげと眺めた。
「オレの髪を編みこんで作ったものだ。霊験あらたかだぞ。君に風の加護があるように祈っているぜ」
 風獅はそう言って片目をつむった。すっかり冷めてしまった茶を一気に飲み干して、立ち上がる。
「じゃあ、オレは帰る。甘霖によろしくな」
「あ、お見送りを」
「必要ない」
 海鳥の申し出をさらりと断って風獅は部屋を出て行った。次の瞬間、ひと際強いつむじ風が吹いた。目を開けていられないほどの強風が収まると風獅の姿はすっかり消えていた。
「……帰ったか。相変わらず騒々しい男だ」
 厨で茶を飲んでいたらしい甘霖が顔を出し、遠くの空を眺めた。視線の先を追うと一頭の白竜が小さく見える。
「人の姿では飛べない。だからああやって移動するのが私たちの常だ」
「へえー……」
 また一つ不思議なことを知ってしまった、と思いながら海鳥は空をおよぐ風獅の姿を見つめた。うろこが太陽光に反射して時折チラッ、チラッと光り、海鳥は目をすがめながら行く先を追った。
「話せたか?」
 風獅とふたりきりにしたことを甘霖なりに気にしているようだった。気にするならば彼も割り込めばよかっただろうに、と思ったが口に出さずに海鳥はうなずく。
「元の世界に戻るための助言をもらいました」
 あとこれも、といって腕輪を見せると甘霖は「珍しいな」とつぶやいた。
「あれは自分のものを誰かにやることは滅多にしない。大事に持っておくといい。元の世界に戻っても、きっと身を守ってくれるはずだ」
 そんなに貴重なものだったのか、と海鳥は左腕につけた腕輪をしげしげとながめた。どこをどう気に入ってもらったのかはわからなかったが、貴重なものを贈ってもらえるということが、海鳥の心を深海から浅瀬へとすくい上げてくれた。
 そして心が少し軽くなったことで、海鳥は甘霖に声をかけることができた。
「あの」
「ん?」
 海鳥の方が身長が高いために、甘霖に少し見上げてもらってようやく目が合う。その瞳の奥の感情はわからなかったが、海鳥は続けて言った。
「今夜、部屋の前に行きます。部屋の中には入れなくていいですが、少しだけ俺と話をしてください」
 海鳥の言葉に甘霖は一瞬口元を震わせたが、すぐに「わかった」と返事をした。しぶられると思っただけに海鳥は拍子抜けした。
「いいんですか」
「断ってほしかったのか?」
 問い返されて海鳥は首を横に振った。甘霖はその様子を目を細めて見て、
「月があの屋根を越えるくらい高くなったら、部屋の前にくるといい」
 と、ほっそりとした指で赤い屋根をさした。
どうやらこの神域は今夜まで晴れたままであるらしい、と海鳥は理解してホッと胸をなでおろした。