四、飛揚 - 1/3

 それからふた月が経過し、町は豪商の娘が都市部の軍人に嫁ぐ話でもちきりだった。以前と変わらず『てんぐ堂』を手伝うあさひの耳には客のうわさ話がひっきりなしに入ってくる。
「次の大安だってよ」
「何がです?」
 常連客の男が唐突に言った言葉にあさひは戸惑った。男はあさひに金を払いながら言う。
「何ってほら、松菱のお嬢さんの嫁入りの日」
「ああ……」
 極力関心を持たないように過ごしていたが、いざ聞かされると動揺する。次の大安はもう三日後に迫っていた。
「いやあ、亡くなった松菱の奥様が嫁いできたときもそれは美しかったけどね。俺は今回も楽しみでね」
「さようですか」
「おや、お兄さんはそうでもない?」
 あさひの答えが素っ気なく聞こえたのだろう、男はあさひに重ねて訊ねた。
「その、わたしはどうにもそういうのに興味が持てなくて」
「まあ、あんたは最近来た人だもんな。俺はお嬢さんが小さかったころから見てたもんでね。自分の娘……いや、孫が嫁ぐみたいなもんで嬉しいんだよ」
 と言う男にあさひは曖昧にあいづちを打った。
「盛大に嫁入りを祝うだろうし、せっかくだから見送ってやんなよ」
「……ええ」
 あさひの返事に気をよくした男は「じゃあな」と言って、店の引き戸を開けて去っていった。引き戸が完全に閉まった音を聞きつけたトミ子が、駄菓子屋とたばこ屋を仕切る襖を開けて顔を出した。
「本当に町の一人として見送るだけで満足できますか?」
「満足する、しないの話ではありませんよ。それが人間の理でしょう」
 あさひの言葉にトミ子はため息をついた。
「言い方を変えましょう。これからあのお嬢さんが死ぬまで一生……いえ、死んでからも線香すら上げられない関係でいいのかをよく考えなさいな」
「……」
 黙りこんだあさひにトミ子は苦笑する。
「理に従うのも大事なこと。しかし、一生後悔して過ごすのもよくないとあたくしは思いましてよ」
 そう言ったトミ子の横顔は、あさひの知らない寂しさをはらんでいた。思わず、トミ子の過去について問いかけたくなったが、それを飲みこんだ。代わりに別のことを問いかける。
「……あなたに迷惑がかかるのでは?」
「あたくしをいくつだとお思い? 貴方に心配されるような小娘ではございませんよ」
 ぴしゃり、と言うトミ子にあさひは「失礼しました」と謝罪した。トミ子はふん、と小さく鼻を鳴らす。そして、
「物わかりのよさが美徳になると思わないようになさい」
 と言い捨てて駄菓子屋の方に顔を引っこめてしまった。その場にはあさひだけが残される。
(……トミ子さんには、かなわないな)
 背中を押すどころか張り倒す勢いの喝だったが、これで腹は決まった。あさひはきっちりと閉められた襖に向かって頭を下げる。
(そうだ、わたしが人間の理に縛られて生きる必要はどこにもない。自由に生きてこその天狗なのだから)
 そう開き直ったあさひは、久しぶりに紙を用意して筆を執った。以前のように榊に結ぶ手紙を書くためだった。手紙に書く内容はすでに決まっていた。墨を含んだ筆を迷いなく紙に下ろす。
 なじられてもそしられても構わなかった。ただもう一度機会がほしい、とあさひは強く願った。

 薫子が想像していた以上に、嫁ぐことは簡単に決まってしまった。
 薫子自身、考えた末にこの縁談には気乗りがしない、と父には伝え、父も納得していた。しかし先方からぜひに、と強く望まれたこともあり、渋々承諾することになった。父がげっそりとやつれていたことから、交渉が難航したのだとうかがえたため、それ以上つっぱねることはできなかった。
(……なんだか、夢みたい)
 いよいよね、と言われても薫子にはいまいちピンとこない。ふわふわと地に足がつかないまま時間が過ぎていくだけだった。
 一度だけ、挨拶にといって相手の男性が家を訪ねて来たことがあった。写真で見たのと同じ正装でやってきた彼は、軍人らしからぬにこやかさで、
『あなたとぜひ一度お話したかったのです。お父上のお話以上に素敵な方だ』
 と言った。褒められているはずなのに、まったく嬉しいという気持ちにはならず、むしろ軍部という厳しいところにいるはずの人間がこんなに軽薄でよいのかと不信感さえ抱くほどだった。
(心が石にでもなってしまったよう)
 同じようなことをあさひに言われたときには、駆け出しそうになる足をその場に留め置くことが難しいくらいだったのに、と思う。
(……私の心はあの人に持って行かれてしまったわ)
 結局その日は、隣にいた父に促されなければ返事もろくにできなかった。お世辞にも愛想がいいとはいえなかっただろうと思ったが、相手が『奥ゆかしい方なのですね』と上機嫌で帰ったことが不幸中の幸いだ。
 父は薫子に何も言わなかったが、心配していたようで、嫁入りの支度は気の置けない友人とするのがいいだろうと美世子の家に相談をしてくれた。美世子だけではなく、彼女の母もなにくれとなく気にかけてくれたおかげで、支度は着実に進んでいた。
「薫ちゃん?」
「え、あ、ごめんなさい。なんでしょう?」
「大丈夫? 緊張していらっしゃるの? もう明日ですものね」
 ほとんど準備は終えてしまった今、二人は薫子の自室で最後のおしゃべりに花を咲かせている。
「自分ではそうでもないと思っていましたけど……そうかもしれません」
 嫁ぐことに迷いがないわけではない。だが、決まってしまったことはもう覆せない。覆すとなると父を筆頭に関係者に迷惑をかけることになる。
「ねえ薫ちゃん」
 美世子は薫子の手を取って言う。美世子の手はふっくらとして色白で、薫子の骨がやや目立つ手と比べるととても温かみがある手だった。その手に触れられると、薫子はいつでも優しい気持ちになれた。
「大丈夫よ。薫ちゃんはどこでもきっとうまくやれるわ。お裁縫だってうんと練習したでしょう? お母様も認めていましたし」
 美世子の真っ直ぐな言葉に薫子は涙ぐみそうになった。誰にも言えない心残りがあるのだとはとても言えなかったが、沈んだ気持ちは少し上を向いた。
「ええ、そうね。本当に特訓に付き合っていただいてよかった。落ち着いたら一度お礼にうかがうわ」
 美世子の母による特訓によってどうにか〝不得手〟から〝人並みに少し劣る程度〟にまで裁縫の腕は向上した。これから一生彼女の母には頭が上がらないのだろう、と薫子は思う。
「そういえばこちらは? 持参品の方には入れませんの?」
 部屋の隅に置かれた文箱を美世子が不思議そうに見つめた。薫子は「置いていく予定よ」と答えた。
「え、どうして? あれは亡くなった薫ちゃんのお母様が買ってくださった大事なものでしょう?」
「ええ。だからこそ家に置いておこうと思って。お母様にいただいたものは、この家に残しておきたいから。一応新しいものは買いましたし、そちらを持っていく荷物に入れておいたの」
 半分本当で半分嘘だった。あさひとのやり取りをどうしても捨てられず、かといって嫁ぎ先にそんなものを持っていくわけにもいかない。考えた末、箱ごと家に残していくことを選んだ。
「そう……」
「落ち着いたら美世ちゃんにもお手紙を書くわ。お返事、くださる?」
「もちろんよ」
 そう言って美世子は薫子をぎゅっと抱きしめた。
「元気でいらしてね」
「ええ、ありがとう」
 こうして美世子と話したこともいつか思い出になってしまうのだろうか、と思いながら薫子は美世子の背中をゆっくりと撫でた。