二、
数週間後。
気落ちしていたエルヴィスもすっかり元気を取り戻し、珍しく――ほとんど初めてと言ってもいい――自らオーエンを部屋に招いていた。話したいことがあるから部屋まできてほしい、と言うエルヴィスにオーエンが緊張したのも無理はない。
「で、話ってなんだ?」
ほんのりとレモングラスが香り、金箔が浮かべられた甘い茶を飲みながらオーエンは訊ねる。先日振る舞えませんでしたので、と言ってエラが淹れた茶は味、香り、温度ともに完璧だった。
「他でもない。ルカのことだ」
「……おい、だから国王陛下のことを呼び捨てにしてくれるな」
歴代の王、女王の名前は光にちなんだ意味を持っており、光の加護によって国全体を照らす存在とされている。そして、その名を直に呼ぶのは基本的には不敬とされていた。
「ふん、わたしとおまえしかいない場所で誰が告げ口をするんだ」
「誰かの耳か目があったらどうすんだよ。あっという間に不敬罪でしょっぴかれるぞ。お前は王族だからいいかもしれないけどな、俺は一応一般人なんだよ」
「王の乳兄弟という時点で一般人ではないだろうに……」
エルヴィスのつぶやきをオーエンは無視した。幼いころは気の置けない仲だったかもしれないが、今や片方は一国の王である。
「それで、陛下がなんだって?」
「やはりわたしにはあの側室のオメガが不可解だ。どこで出会い、誰が許可をして宮廷に招き入れたのかが一切わからない。王族の出会いの場など限られているのにも関わらず、だ」
「要するにどこの馬の骨かもわからねえやつを側室として迎えたのが気になるって話か」
仮にも王の側室を馬の骨呼ばわりをするオーエンの方がよっぽど不敬罪に引っかかるだろうと思ったが、エルヴィスは指摘せずに話を続けた。
「エレノアや王の側近たちにも訊ねてみたが、誰も知らないと言うのは不自然だ。そしてわたしの見立てが正しければ、あの側室は隣国の出身だ」
「なんでわかるんだよ」
「左手を下にして両手を重ねて感謝の礼をしたからだ。あれは隣国では一般的な仕草だが、この国では一般的ではない」
エルヴィスの〈人〉の宮廷魔術師としての仕事の一つに宮廷内のオメガの体調管理がある。それは王の側室であっても例外ではなく、ヒートの時期をずらしたり、軽くしたり、避妊薬を渡したり、と多岐にわたる。
「なるほどな」
「言葉や服装は変えられても、身に着けてきた習慣は変えるのが難しい。わたしの母もそうだったからよくわかる」
付け加えられた言葉にオーエンは記憶をひっくり返す。エルヴィスが彼自身の母の話をすることはなく、命日だという日に王族の墓場へともに参るのみだった。オーエンも宮廷で育った身ではあるが、エルヴィスの母との面識はなく、どのような人間だったのかを知らない。
「お前の母君は外から来た人だったんだな」
「そうだ。まだ先代の王がご健勝であらせられたときに、国を転々としながら暮らしている旅芸人の一座が宮廷に招かれた」
異国の音楽、踊り、物語を披露するとの名目で招かれた一座の中にはオメガの女がいた。それがのちにエルヴィスの母となる女である。
「だが、旅芸人たちが自らの芸を披露する機会は失われた。先王の弟、要するにわたしの父と旅芸人の女がその場で番ったのだから当然だろうな」
エルヴィスが当時を知ることはないが、相当な混乱を起こしただろうことは容易に想像がついた。特に先王の弟にはすでに番となったオメガの女がいるにも関わらず、別のオメガの女を勝手に番にしたのだから、ひどく叱責されたことだろう。
「その後『運命の番』という概念が発見されたことで、当時の父の行動は生物として当然の行為だと理解された」
そしてその事件をきっかけに、アルファとオメガをまとめて育て、遺伝子的に相性がよい相手と番わせるシステムのプロトタイプ版が整えられた。
エルヴィスは一度言葉を切り、手元の茶が入ったカップに視線を落として再び口を開いた。
「だが、それがわかるまでに十年近い歳月が流れた。偶然訪れた異国で、わけもわからないうちに王族の番となって元の番のアルファと別れた母の心労は相当なものだっただろう。初めに父と番っていたオメガの女にはひどくいじめられた挙句、最期は精神を病んで自死したよ……わたしが八つの時の話だ」
その後父もすぐに病死し、あっという間にエルヴィスは宮廷内での後ろ盾を失った。しかしエルヴィスはオメガであり、宮廷で育てられる対象だったため、幸運にも生きてこられた。
「……知らなかった」
「初めて言ったからな。言うべきではないとわたし自身も思っていた」
同情されたくない、と気持ちもあったが、それ以上に母の生き様を人に話してよいものか悩んだからだ。
「一つだけ訊いてもいいか」
「なんだ?」
「初めにお前の父君と番っていた女を恨んでいるか」
エルヴィスはオーエンの問いかけに虚を突かれたような顔をしたが、すぐに真顔に戻って答えた。
「……人間としては許していない。あの女の行為が母を追い詰めたのは事実だ。だが、わたしもオメガとして彼女のやり場のない怒りは理解できる。恨み、という一言で片づけることはできない」
エルヴィスは後から知ったが、本来の彼女は穏やかで慈愛に満ちた女性であり、国の慈善事業などには積極的に関わっていた。エルヴィスの父を亡くしたあとは王族の身分を脱して、児童養護施設の職員として暮らしていると風の噂に聞いた。
オーエンには明かさなかったが、エルヴィスにとって彼女は「自分はあのようにならない」という戒めの意識を持つ対象でもあった。
「話を戻すが、わたしはエレノアと側室どちらもが幸せに暮らせる道を探したい。オーエン、協力してくれるか」
真剣な顔をするエルヴィスにオーエンは圧倒される。昔からエルヴィスの頼み事を断れたためしがなかったなあ、と思いながらオーエンはうなずいた。
「俺にできることはしよう。何をすればいいか見当もつかないが」
「まずは側室のオメガの来歴と現在の行動を調べる。相手を知らなければ打つ手も考えられない。今のところ隣国で暮らしていたと推測できるが、それ以外の情報は皆無だ。近衛兵を束ねる立場であるおまえの地位を使わせてもらう。王が側室の寝所を訪れるタイミングも逃さないでほしい」
「……要するになるべく行動を見張って、めぼしい情報があれば随時報告しろってことか」
「そういうことだ」
王とその伴侶の身辺警護をする近衛兵はオーエン以下限られた人員のみだった。王の乳兄弟という身分を持っているオーエンの存在がありがたい。
「碌な情報が出てくるかどうかは保障できないし、四六時中俺がはりつけるわけでもないぞ」
「それは構わない。断片的な情報でもつなぎ合わせたらヒントくらいにはなる」
そう言ってエルヴィスはすっかり冷めてしまった茶をすすった。慌ててエラが「新しいものをお淹れしますのに!」とエルヴィスからカップを取り上げる。
「なあエルヴィス」
「なんだ」
「お前が俺と番になるときに言ってたことを思い出した。すべてのオメガが幸福な生活を送れるようにしたい、っていうのはお前の本心だったんだな」
「……わたしは基本的に、おまえに対しては本心を口にするように気を付けているつもりだったが」
母のことを言わなかったのは悪かったと思っているが、オーエンに嘘をついたことは一度たりともなかった。口から出まかせだと思われていたのは心外である。
「いや、俺はお前と番うときまでお前のことをよく知らなかったから、宮廷内で出世したいとか、そういう下心があるのかと思ってたんだよ」
まあ、すぐにそういうのとは無縁だとわかったけどな、と苦笑するオーエンにエルヴィスはため息をついた。
「くだらないな、まったく」
「当時の俺がこの場にいたら俺も同じことを言うだろうな」
オーエンは湯気を立てている新しいカップを手に取った。エラが淹れなおしてくれた茶は先ほどの茶とは違って、少しだけ舌に苦みが残る味だった。