第一話 Fluorite(CaF2) - 1/6

一、

――その日は雲一つない晴天だった。

「本日より第三部隊副隊長を務めます松本山次《まつもとさんじ》です」

 どうぞよろしく、と三十名ほどの隊員の前で頭を下げたのは、二十代半ばの若い男だった。小麦色の肌に鳶色の髪、そしてハシバミ色の目が印象的な精悍な顔立ち――健康的な美しさをたたえていた。歓迎の意を表すようにパチパチと拍手が起きる。

「ここに来る前は、第五部隊で【貴賓《きひん》】地区の警備を主に担当していました。慣れないこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」

 その言葉を受けて隊員たちにざわめきが広がったが、第三部隊の隊長は片手を上げるだけでそれを制した。ずらりと並んでいる隊員たちよりも若く、漆黒の目と髪が人目を引く彼は、特ににこりともせずに口を開いた。本当に整っている顔は、無表情でも美しいのだと松本は思わず感心しながら話を聞く。

「今日からひと月ほど、松本には【住《じゅう》】地区の警備と治安維持について日勤で慣れてもらう。それが終わり次第、わたしの補佐をしてもらうつもりだ。このひと月の間は、隊長補佐たちに少し負担をかけることになるがよろしく頼む」

 隊長――六条院真仁《ろくじょういんまさひと》は決して大きくない声でそれだけ言うと、松本とバディを組ませる相手の名前を呼ぶ。呼ばれた彼は松本に向けてにこり、と笑って、よろしくと声をかけた。

 〈世界を滅ぼす〉大戦後に成立した都市国家〈ヤシヲ〉が設置している自警団〈アンダーライン〉。
自警団は国における警察任務を請け負う組織であり、五部隊からなる。そのうち一部隊は【貴賓】地区の警備を担当し、他の四部隊は【住】地区の警備と治安維持を実施している。
今回松本は【貴賓】地区の警備を担当していた第五部隊から昇進によって【住】地区の警備・治安維持を担当する第三部隊に所属することになった。松本も二十五歳と若いが、彼の上に立つ隊長も二十七歳と若い。
若い者ばかりで務まるのか、という意見も上がったらしいが、若い者だけだからこそできることもあるだろうという執り成しによって無事に就任が決まったと元上官に告げられたとき、松本はこっそりと安堵の息を吐いた。

「副隊長、びっくりしたでしょう」

 櫻井《さくらい》、と名乗った松本のバディは穏やかな笑みを崩さないまま廊下を歩きながら言う。〈アンダーライン〉のメインの仕事は【住】地区の警備巡回であり、第三部隊が担当する地区を三交代制で巡回する。【貴賓】地区にいたときにはなかった仕事に松本の胸は躍る。そもそも【貴賓】地区に治安維持という概念はない。外からの出入りは厳重に管理され、中にいるのも〈アンダーライン〉の中で厳重に管理されたメンバーと貴族の家に勤めている人間だけだった。

「ええ、話には聞いたことがありましたけど、本当に貴族出身の方なんですね」

 六条院、という名前を聞けばすぐにわかる。自警団に入るにあたって名前を変えることはしなかったのだろう。名前を聞けばすぐに正体が割れ、様々なことを言われただろうが、彼はそれに屈しない強さと頑固さをそなえている。

「俺たちも最初は戸惑ったけど、段々慣れるし、いい人ですよ。悪いようにはならないと思いますよ」

 そう言う櫻井の顔には目立ち始めたしわが見える。

「……そうだと、いいんですけど」
「それにほら、副隊長は第五部隊だったんだから慣れてるでしょう?」
「いや、俺が会ったことあるのはその家に勤めている人くらいで、貴族その人自身に会うことなんてなかったんですよ」

 この国における貴族の美貌は有名だった。人の上に立つものは、何かしらひとつ、人を引き付ける要素を持っているということをありありと実感する見た目である。六条院もそのひとりだ、と松本は思った。

「櫻井さんは、」
「呼び捨てでいいですよ」
「いや、これは俺が呼びたいからいいんですよ。ただでさえ年下なんだから、人生の年長者に敬意払うに越したことないでしょう」

 気を取り直して松本は口を開く。

「櫻井さんはいつからここにいるんですか」
「前の隊長のころからですね」
「前の隊長も若かったんですか?」

 その言葉に櫻井は首を縦に振った。

「第三部隊はずっと若い人が隊長するようになってますね。そういう方針、もありますし、優秀な人材腐らせておくわけにはいきませんし。まあ、だからか比較的気性が穏やかな人間と若い人間が多いのは事実です」

「ああ」

 確かに、着任挨拶への反応を見ていただけでも松本を侮ったり、馬鹿にするような反応は感じられなかった。

「なるほど。皆さん、いい人ばかりですね」
「まあ、いい人かどうかはおいておきまして、副隊長がのびのびと働けるのは間違いないですよ」
「それは、ありがたいですね」

 しみじみしながら、松本は巡回のための自動車に乗り込んだ。本日の担当地区は【住】地区七番街〈イータ〉である。

「もしかして、副隊長、運転経験は浅い方ですか?」

 しばらく松本にハンドルを任せていた櫻井だったが、ふと疑問を口にした。その言葉に松本は首を縦に振る。

「……すみません、【貴賓】地区では基本徒歩でして」

 交通車両との接触や誘拐の可能性を考慮して、【貴賓】地区は基本的に徒歩のみだった。入隊後すぐに【貴賓】地区に配属された松本は運転ができる歳ではなく(それもあって【貴賓】地区に配属されたともいえる)、運転ができる歳になってすぐに免許を取って以降もほとんど運転する機会がなかった。
 世の中には自動運転搭載車も溢れているが、安価なのは人間自身で運転する自動車だ。自警団の懐事情は決して温かいとは言えない。

「……次の休みに練習しておきます」
「付き合いましょうか?」
「いえ」

 さすがに貴重な休みを使ってもらうわけにはいかないうえ、訓練場を使うことにしているので松本は断った。

「そういえば、副隊長、すごく五感が鋭いって聞いたんですけど、本当ですか?」

 櫻井の言葉に噂になっていたのか、と松本は驚く。

「ええ。間違っていないですよ。まあ、それもあって刺激が少なめの【貴賓】地区に行ってました」

 大きな音とか強いニオイ、まぶしい光が苦手なんですよね、と笑う松本には特別にマスクとサングラスが支給されている。

「実は、香水とかも苦手で。まあだからアンダーラインを選んだって話なんですけど」

 洗剤とか石鹸も香料少なめのものを使う人が多くて助かります、と松本は言う。

「それはそれで苦労もありますね」
「はい。まあ、持ち腐れにするなよってことで、ここに来たんですが。昔よりは少し上手にコントロールできるようになりましたし」

 羨ましがられることこそあれ、ねぎらわれることはなかった、と内心で驚きつつ松本は答える。能力が活かせるならば、と入隊したが、松本の想定以上に刺激が多く、負担になっていたのは事実だ。入隊当時、松本の人事を進言して引き抜いてくれた第五部隊の隊長には頭が上がらない。

「久しぶりの【中枢】地区と【住】地区はやっぱり刺激が強いですね」
「そんなこと言うの、副隊長くらいですよ」
「まあでも、俺にとっては事実ですから」

 あはは、と笑って松本は車を路肩に寄せた。

「すみませんが、交代で」
「了解です」

 運転席と助手席を交代する。運転手交代によって自動車は滑らかに走り出した。

「そういえば」

 運転手交代後に松本が口を開いた。なんですか、と櫻井は答えた。

「隊長こそ第五部隊に配属されそうですけど、ずっと第一から第四部隊にいたんですよね」
「そうらしいですね」
「……第五部隊にうってつけのような気もしますけど」
「俺は逆だと思いますね。多分、隊長は【貴賓】地区を出たかった人なんじゃないかと思うんですよ。まあ、話していて感覚がズレてるなー、って思うところはありますけど」

 本人もそれは自覚してて、なにかと訊いてくれますよ、と櫻井は笑った。それを聞いて松本も苦笑する。

「確かに、【貴賓】地区を出たい人に第五部隊はきついですね。あの仕事だけは【貴賓】地区にとどまるしかないですし。というか、その理論だと十年近く【貴賓】地区にいた俺も感覚ズレ起こしてますよ、きっと」
「そうですかね? 副隊長は雰囲気が親しみやすいと思いますよ」
「まあ、生まれも育ちも庶民ですからね」

 松本はそう言ってふう、と息を吐いた。――瞬間。

『――本部より〈イータ〉巡回チームへ。東四北二にて流血した男性が倒れているとの通報があった。確認を頼みたい』

 自動車の自動通話ツールから六条院の声でアナウンスが入る。

「了解しました。松本、櫻井向かいます」

 運転よろしくお願いします、と言って松本は櫻井とともに現場へと向かった。