――きらびやかな金の装飾が施された宮殿、白亜の壁、天井からぶら下がるガラスの照明。
そのすべてがメルにとって目新しかった。南国というのはこうも豊かなものなのか、とうらやむ気持ちもあったが、すぐに仕方のないことだと割り切ってしまった。メルは自らの好奇心をぐっと押さえ、静かに宮殿を歩く。
(……歩きづらい)
裸足で歩く習慣のない国からやってきたため、靴を履かないまま歩くことに慣れない。思った以上に滑らないことに苦戦していると、先頭をいく侍女のサンドラが振り返った。そばかすが散った愛嬌のある顔が心配そうに眉を下げていた。
「ご気分がすぐれませんか?」
「いや、そういうわけではなく……裸足では歩きづらいな、と」
素直に告げたメルに、サンドラはああ、と破顔した。真顔でいると少年に見まがう端正な容姿だが、笑う顔は少女のものだった。
「もう少しゆっくり歩きましょうね」
そう言って少し歩く速度を下げたサンドラは優しい子どもなのだとメルは思った。
(あ……)
宮殿の窓からひゅう、と風が入る。メルの祖国とは異なって、温かくも湿った風だった。
○
メルにその知らせがやってきたのは、ある日の昼過ぎのことだった。
「……縁談? 俺に?」
雪に閉ざされ、呪術と占術を主産業とするニクス帝国において、婚姻は通常十代のうちに行われる。
しかし、メルは現在二十歳であり、これ以降、この国において婚姻は見込めないのだろうな、と諦観していた。そもそもメル自身に結婚願望はあまりなかったが、この国で独り身のオメガが生きるのはあまりにも厳しかった。
この世界において、ヒトは生物学上の男女以外にアルファ、ベータ、オメガの三種類の区別をされる。人口の七割を占めるのは一般人とされるベータだ。残り三割を二分するのがアルファとオメガである。オメガの一番の特徴はアルファとであれば生物学上の性別に関わらず、生殖が可能であることだ。オメガには『ヒート』と呼ばれる発情期が数か月に一度の割合で訪れる。ヒートではアルファに作用するフェロモンが放たれ、身体は本能的に生殖の準備に入る。
そのため、むやみにフェロモンを放たないよう、オメガは十代での婚姻が推奨されていた。初めてヒートを迎える前後でアルファと婚姻関係――番となるのである。
「そうだ。今までこの仕事をさせてしまってすまなかった。わしの力不足だ」
メルの養父であり仕事の師でもあるノエはメルに頭を下げた。呪術と占術の国であるニクス帝国において、ノエは非常に地位の高い人間であり、メルは慌ててノエに頭を上げるように言う。
「師父……謝罪の必要はありません。俺も別に望みませんでしたし、その、」
ヒートを迎える時期が遅く、呪術士として優秀なメルを番にと望む声はなかった。オメガの婚姻に責任を持つのは親であるが、扱いづらいオメガであるメルに対してノエは十分すぎるほど、愛情を注いでくれたと思っている。
「それでもやはりわしの力不足が招いてしまったことだよ。これを読んでごらん」
ノエが手渡した書状は、通常ニクス帝国で使われているものとは異なり、厚みがあり、ざらりとした感触の紙だった。書状に目を通しながら、だんだん自らの眉間にしわが寄っていることをメルは感じた。
「師父、これは……本気で? 本物ですか?」
「間違いない。ボルガ王国の使者が秘密裏に持ってきたものだ。そこを見なさい」
ノエに指さされた書状の右下を見ると、ボルガ王国の王家の紋章である扇が入っていた。
ボルガ王国は、ニクス帝国から船で三日移動し、そこから陸路をもう半日征くことで着く南方の国だった。ニクス帝国との国交は多少あれど、メル自身にとっては縁もゆかりもない土地だ。
まして、かの土地の王族と交流などはまったくないが――、
「女王自らが皇太子の配偶者として、オメガの俺を乞うている、と。そういうことなんですね」
メルの確認にノエは重々しく頷いた。そして、メルを真っ直ぐに見つめて言う。
「この国でのお前は、有名になりすぎた。誰もお前のことを知らぬ土地で、お前自身の人生を歩みなさい」
「……はい」
ノエの言葉は優しく、十分にメルを想ってのものだった。ただ、どうしても祖国から厄介払いされるのではないか、という心の奥底の気持ちはぬぐえなかった。
そんな突然の求婚の書状を得てから数日後、メルは秘密裏に船でボルガ王国に出発した。これではまるで亡命のようだ、と思いながら、メルは持ち物を簡単にまとめ、船に乗りこむ。王族に嫁ぐにあたり、宝飾品の一つも持たないのは失礼ではなかろうかと思ったが、先方の『すべての用意はこちらでいたします』という言葉に甘えることになった。万が一婚礼の用意はそちらで、と言われても、残念ながら先立つものがない。
メルの生みの親はメルが生まれてすぐに他界しており、兄弟もいない。見送りに来たのはノエだけだった。
「健やかにな」
「はい、師父もどうかお元気で」
ノエに抱きしめられて、メルも彼を抱きしめ返す。昔よりも痩せて、手のひらにノエの背骨が当たる感覚に、鼻の奥がツン、と痛んだが、ぎゅっと目をつぶって堪える。
「あとはこれを。お前の生みの母が持っていたものだ」
ノエが手渡したのは、宝飾品の入った箱だった。中には、美しく磨かれた月長石がついた耳飾りが入っていた。
「きっとお前を助けてくれるはずだ」
「ありがとうございます」
手を伸ばしたノエに、メルは少し頭を下げた。ぽんぽん、と優しく二度頭を叩いたノエは「行きなさい」と穏やかにメルに促した。
「師父、行って参ります」
そう言って頭を下げたメルを、ノエは穏やかに笑って見送った。
○
そんなやり取りから三日半経ち、やっとメルはボルガ王国の宮殿に足を踏み入れた。船を降りる前に、侍女のサンドラが身なりを整えてくれたが、ひどく薄着であり、本当にこれでよいのかとメルは首を傾げた。
(――まるで下着だけのようだな)
思うだけにとどめておく。せっかく用意された衣類にケチをつけて海に放り出されてはどうしようもない。身に着けた衣類は綿でできており、軽かった。毛皮か羊毛が当たり前のニクス帝国と比べて、着るものが簡素かつ少ない理由は、すぐに理解できた。
「……暑いな」
「ええ、湿度も気温もニクス帝国に比べて非常に高うございますので、慣れるまではわたくしと一緒にいらしてくださいね。ご気分が悪くなられましたら、すぐにお申し付けください。――絶対ですよ」
船の中からサンドラはメルに対して恭しく接した。メル自身、呪術士として他国の王族・皇族と接する機会はあったが、自らがかしずかれる経験は少ない。なんとも言えない居心地の悪さを感じるが、サンドラから悪い気は感じられないため、ありがたく彼女の気遣いを受け取る。
宮殿の中を歩き、ようやっと奥の王座の間に着いた。重厚さを感じる白亜の扉の前で、サンドラはくるり、とメルを振り返った。
「失礼いたします」
そう言ってサンドラはメルの首に、色とりどりの宝石がついた金のチョーカーを付けた。
「これは?」
「ご容赦くださいませ。正式な婚姻の場まで貴方様を保護するものでございます」
アルファとオメガの婚姻は、アルファがオメガのうなじを噛むことによって成立する。正式な婚姻の場までオメガのうなじは保護されることがボルガ王国の通例であった。
「そうか」
そういうものか、とメルは納得して顔を上げた。国が違えば文化も異なることは呪術士の仕事を通して知っていた。
「……ご不快に思われませんか?」
「それがこの国の文化だろう? それに俺が口を出すことはない。そのうち理解しなければならないものになるのだし」
最後の一言にサンドラはパッと顔を明るくし、メルに深々とお辞儀をした。
「ここから先、わたくしはお供できませんが、ここでお待ちしております。何かあれば、すぐ駆けつけますので」
「ありがとう」
大いに矛盾する二言だったが、サンドラの気持ちをありがたく受け取って、メルは苦笑しながら礼を述べた。