3. The silence is like the calm before the storm - 3/3

 ――おかしい。
 数日後、オーエンは自室にある暦をにらみつけていた。事の発端は訓練時に部下から問われたことだった。
『最近、番休暇を取られていませんけど、大丈夫ですか?』
 番関係にあるアルファ、オメガともにヒートのときに休暇を取ることが認められており、例外はあるが、基本は年間で最低十日は取ることが推奨されていた。現在は服薬によってヒートの時期をコントロールすることができるため(この薬剤開発もエルヴィスの尽力によるものだ)、互いの予定と休みを擦り合わせて計画的に休みを取ることが一般的だった。
部下に問われて急に気になりだしたオーエンは訓練終了後に慌てて部屋に戻って来た。
(……前にあったのはもう半年近く前だ)
 服薬でコントロールするとはいえ、どんなに長くとも四か月に一度程度の頻度でヒートを起こす必要がある。なお、ヒートが起きなくなる条件は大きく二つある。一つは妊娠した場合であり、もう一つは加齢による場合だ。エルヴィスの場合、可能性があるのは前者であり、その場合はさすがにオーエンにも知らされるはずだ。
(他に何か理由でもあるのか?)
 暦をにらむだけでは解決しない。オーエンは訓練着から着替えると、エルヴィスを訪ねるために慌ただしく部屋を出て行った。

「忙しいのに何の用だ」
 部屋を訪ねたオーエンを出迎えたのは非常に不機嫌なエルヴィスだった。無造作に束ねられていたと推測される髪はまとまりがなくボサボサだ。
「大事な用だ」
 オーエンが真剣に言えば、エルヴィスも黙って部屋に入るように促した。「何も出ないぞ」と言って招かれた部屋の中は散らかり放題だった。整理整頓が得意な侍従がいるはずなのにどうしたことか。
「エラは?」
「今日は休みだ」
 エルヴィスの侍従は少なく、侍従長のエラを入れても四人だ。王族の中で飛びぬけて少ないのは、余計な争いの種をまかないようにしているからだった。加えて、エルヴィスが私室に入れるのはエラのみであり、彼女が休みを取っただけで部屋は無法地帯と化す。
 しかし、今日のオーエンの用は散らかっている部屋にはない。遠まわしに話すのはオーエンの不得手するところであり、単刀直入に訊ねた。
「端的に訊くが、最後にヒートがあったのはいつだ? 俺の記憶では半年近く前なんだが」
 訊ねたオーエンに対してエルヴィスは「そんなことか」と答えた。
「そんなことじゃない。お前の身体の問題だ」
「わたしの身体のことなら問題ない。きちんと抑制剤でコントロールしている。余計な心配は不要だ」
「問題ない?」
 エルヴィスの言い草に思わずオーエンは鸚鵡返しに答えた。
「問題ないわけないだろうが。眠気や食欲を我慢したら健康を損ねるのと同じように、オメガがヒートを我慢するのは大問題だぞ。いくら抑制剤が優れたものであっても、半年もヒートを起こさないのは、」
 なおも続きかけたオーエンの言葉をエルヴィスは遮る。
「それもわかっている。そもそもおまえにわたしの身体の何がわかるというんだ。どうしたっておまえはアルファだろう」
 エルヴィスが眉間にしわを寄せる。忙しくしているところに邪魔が入って苛立つのはオーエンも理解できるが、ここまで邪険にしなくてもいいのではないか。苛立ちをあらわにするエルヴィスにつられてオーエンも言葉が強くなる。
「俺はアルファだから、お前の身体のことを心から理解することはできない。それはお前の言う通りだ。だが、俺はお前の番だ。番の心配をするのは当然のことだろうが」
 オーエンが口にしたことはアルファとして、十二分に番であるオメガのことを気遣った言葉だった。国の制度も支援も整っている帝国ではあるが、身体的に制限が多いオメガを尊重せず、気遣わないアルファも一定数存在する。それを鑑みるとオーエンは非常によいアルファだ。しかし、すべてのオメガがその気遣いをありがたく受け止めるわけではない。
「……前から言おうと思っていたが」
 エルヴィスの声のトーンが一段落ちた。
「そうやって寄り添おうとされるのが一番不快だ。わたしはオメガに生まれて、今日まで自分を恥じたことはない。もちろん、平坦ではない人生だが、それはわたしが納得して歩んできてきた。だが、おまえはわたしのことを庇護する者だと思っているだろう? わたしにとってそれは、ひどい侮辱だ」
 今まで辛辣な言葉をぶつけられることは多々あったが、オーエンはそれをエルヴィスの個性として気にしてはこなかった。だが、この言葉だけは聞き流すことはできなかった。
「……そうか」
 オーエンの口から零れた声はひどく掠れていた。
「俺は、お前にそんなふうに思われていたんだな……」
 特別不仲でもなければ親密でもない関係だった。傍から見れば不思議な番関係だっただろう。だが、オーエンはそんな周囲の目を気にすることなく、エルヴィスの人生を支え、彼の仕事も応援したいと真剣に考えていた。そうでなければ、こうして番の関係を続けることはなかった。
「オーエン、」
 オーエンの目に映ったエルヴィスは真っ青な顔をしていた。言い過ぎた、と顔が雄弁に語っている。虫の居所が悪くて口が滑ったのだろうな、とオーエンも思うが、あれがエルヴィスのまぎれもない本音なのだと思うと、溢れる言葉を止めることができなかった。
「俺は俺なりにお前のことを考えていたけど、お前を傷つけていたんだな。ヒートが訪れれば共寝をする程度には、俺を許してくれていると思っていたが、とんだ勘違いだったのか」
「すまない、わたしが、言い過ぎた」
 青を通り越し、血の気が引いて白くなった顔でエルヴィスは言う。だが、その謝罪を受け入れる余裕は今のオーエンにはない。エルヴィスの謝罪を無視してオーエンは平坦な声のまま淡々と話を続けた。あまりに衝撃が大きいと感情を声に乗せるのは難しいことを初めて知った。
「……今まで、無理に付き合わせて悪かった。今後、俺はお前に一切関わらない」
 帰る、と言ってオーエンはエルヴィス部屋を出た。
番ってから初めて、住居を共にしていなくてよかった、とオーエンは思った。

 ぱたん、と閉まったドアに向かって伸ばしかけた手をエルヴィスは力なく下ろした。自分が言いすぎたことはわかっていた。だが、口にしたのは、長年心の中で燻っていたことだったのも事実だった。いくら努力をして、〈人〉の宮廷魔術師の座に就いたところで、生物学上の性別の前には無力だ。どこまでも気遣われ、庇護される生き物だと突き付けられるたびに、言いようのない無力感と絶望感に押しつぶされそうになる。
 そして、気遣いを見せるオーエンはまったく悪くないとエルヴィスも頭では理解している。蔑ろにされがちなオメガの感情と身体によく寄り添おうとしてくれる稀なアルファだ。
(ひどく、傷つけてしまった)
オーエンはエルヴィスを純粋に気遣っていただけだった。それが妙にエルヴィスの癇に障ったのも、抑制剤で無理にヒートがない期間を伸ばしているためであり――要するに抑制剤の副作用だ。つまり、オーエンの心配と叱責は正論以外のなにものでもない。
 後悔したところで、一度口に出してしまった言葉は取り消せない。心から謝罪をしたところで許してもらえるかどうかわからなかった。何しろ、番ってからこれまで、オーエンがあそこまで傷ついた姿を見たことがない。
 だが、エルヴィスもむやみにヒートを先延ばしにしようとして抑制剤を服用していたわけではない。帝国と帝国に住まう民を守りたいという目的があったからこそ、ヒートに取られてしまう時間を惜しんだ。
(オーエンの言う通りヒートのときの相手として信頼に足ると思っていたが、伝えられていなかったのか。番も解除されるかもしれないな)
 元々番を解除されずに十年も過ごしてきたのが奇跡に近い。自分から解除を持ちかけてやった方がオーエンのためにもいいのではないか、とエルヴィスは考える。
 しかし、今は新薬の開発が先だ。
 こんなときにも冷静に優先順位をつけ、その通りに動けるエルヴィスだが、今日ばかりはその性質を恨んだ。
(……わたしに泣く資格はない)
 頬を伝う一筋の涙を手の甲でぬぐって、エルヴィスは床に落ちていた紙を拾う。やるべきことはまだたくさん残っていた。

 

 一方、自室へと戻るオーエンも険しい顔のまま宮廷の廊下を歩いていた。すれ違う近衛兵や侍従たちが、ぎょっとしたような表情をするのもお構いなしに大股で歩く。
 ようやく部屋に戻り、ドアを閉めると一気に力が抜けてずるずるとその場にしゃがみこんでしまった。
(俺も余計なことを言ってしまった)
 言い過ぎに気づいたエルヴィスが謝罪をしたにもかかわらず、追い詰めるようなことをした自覚はあった。今後一切関わらない、と自ら言い放ってしまった手前、取り消すのも難しい。そして、エルヴィスから関係の修復を言い出される可能性も低いと考えた。
伊達にエルヴィスと付き合いが長いわけではない。
オーエンとの仲を修復するよりは、今何よりも優先させなければならないことを優先できる男だ。結果的に、しばらくはこの気まずい状況が続く、ということになる。
(……番で出ざるを得ない催しがないといいが)
 二人とも人前で悟られるほどわかりやすく感情を表に出すことはしない。だが、王やエレノアなど一部の親しい人間は気づくだろう。
「……一体どうすればよかったんだ」
 思わず声に出した言葉は誰にも聞かれることなく消えていき、不毛だな、とオーエンはひとり自嘲した。

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