薫子が『てんぐ堂』についたとき、店の前はがらん、としていた。半年の間に人の興味は過ぎ去ったようで、今では以前と同じように男性客が多い店に戻っていた。正面のガラス戸を開けて店に入ると、店の中にはあさひひとりで、ほかに客の姿は見えなかった。古い造りの店内からはわずかに湿ったカビのにおいがする。
「薫子さん、こんにちは」
今日はどうされましたか、とあさひに訊ねられて薫子は言葉に詰まってしまった。父の遣いで来たのだと言うべきなのに、言葉が出てこない。
「薫子さん?」
再度声をかけられてようやく薫子は「父のたばこを買いに……」と言葉をしぼり出した。これまでにも何度か求めたことのあった銘柄をあさひは覚えている。難なくそれを選んで薫子に確認した。
「これですよね?」
「はい」
あさひは古新聞でたばこの入った箱を包んで薫子に手渡した。支払いを済ませて品物を受け取った薫子をあさひが引き留めた。
「少し休んでいかれませんか。顔色がよくないですよ」
「……では、お言葉に甘えて」
どうやってここでの滞在時間を伸ばそうかと考えていたが、めまいがして休ませてもらっていた、とでも言えばいいのだと思い至った。そんな単純なことを思いつかないほどに思い詰めていたのだと気づかされる。
あさひは薫子をカウンター横の住居へと続く上がり框に座らせ、自分が身に着けていた羽織を薫子の肩にかけた。あさひの温もりが残ったままの羽織からはいつもの手紙と同じたばこのにおいがして、薫子は自分の脈が速くなるのを感じた。あさひは住居の方に少しだけ引っこむと、すぐに盆に湯呑を二つ乗せて戻ってきた。
「お口に合うといいのですが」
あさひは桂皮で香りをつけた茶を薫子に出しながら言う。薫子はそれを受け取ると「いただきます」と言って口をつけた。一口飲むとほんのりとした甘みが口の中に広がり、ほっと息を吐き出した。
「美味しゅうございます」
「それはよかったです」
そこからあさひはしばらく黙って薫子が茶を飲むのを見守っていたが、「少し待っていてください」と言って店の表に閉店の看板を下げに行った。
「よろしいのですか?」
まだ閉店には早い時刻であることを薫子も知っていた。しかし、あさひは気に留めた様子もなくうなずいて、
「はい。邪魔が入ってはよろしくありませんから。それで、何かありましたか?」
と薫子に水を向けた。
「……どこからお話したものでしょう」
「どこからでも構いませんよ」
貴女のお話なら全部お聞きしますよ、と言ってあさひは続きをうながした。その言葉に勇気をもらって薫子はやっと話を切り出した。
「あの、先ほど、父から話があったばかりで、わたくしも混乱しているのですが」
「貴女が動揺するなんて珍しい。よっぽど重要なお話だったのでしょうね」
面白がるように言うあさひに薫子は「面白がらないでくださいまし」と釘を刺したうえで続きを話し始めた。
「どうやらわたくしに縁談がある、ということのようで」
「……縁談、ですか」
はい、と薫子はうなずいた。あさひは「どなたとの?」と訊ねた。
「都市部にお住いの陸軍の方だそうです」
薫子の言葉にあさひは「そうですか」と答えた。いつも朗らかな表情をしている顔が今日は険しかった。
「お話、受けられるのですか」
「幸い父がそこまで気乗りしないようですが、どうなるかはわかりません」
薫子の答えにあさひは重ねて訊ねた。
「貴女ご自身はどう思われているのですか」
「わたくしの意思が婚姻に必要だとお思いですか?」
家同士の結びつきを重視する風潮は抜けていない。薫子がどれだけ嫌だと思ったとしても、婚姻関係を結ぶ可能性はある。
「薫子さん」
あさひのガラス玉のような目が薫子をとらえた。その目で見られると心の奥底まで見透かされてしまうような気がして、薫子は居住まいを正した。
「わたしは一般論の話をしているのではなく、貴女がどう思ったかを知りたいだけです。教えていただけませんか」
「……前からずっと申し上げておりますけど、あなたは本当に変わったお方ですね」
一般的な男性は女性、特に薫子のような年若いものに対してはその意思を尊重することはない。というより意思がないものとして扱うことが多かった。その中であさひはことあるごとに薫子の考えていることを訊ね、それを楽しそうに聞いた。
そしてそのことは薫子にとって人生を変えるほどのことだった。自らの意思を表に出しても否定されることなく、生きてよいのだと薫子に示してくれたあさひとこれから先をともに過ごせたらどんなによいだろうかと思わない日はなかった。
「できることならお断りしたいです。どうすれば円満にお断りできるかは、わかりませんが」
「……そうですね」
今日までのあさひとの関係は至って清いが、誰にも知られていないものだった。誰にも知られていない関係を盾に縁談を断ることはできない。
「あさひ様」
「なんでしょう」
薫子は顔を上げてまっすぐにあさひを見つめた。
「あなたはわたくしを好いていると伝えてくださって、わたくしも、あなたを慕わしく想っているとお返しました。その言葉に嘘はありません」
「ええ、貴女が嘘をつくとは思っていませんよ」
「もし、縁談をお断わりできなかったら……、その、大店の娘が何をと笑われても結構ですが、苦労をする覚悟もしております。ですからどうか、」
薫子がその先を言葉にする前に、あさひは「待った」と言って薫子の言葉を遮った。あさひが薫子の話を途中で止めるのは初めてだった。
一気に言ってしまおうと思った言葉を薫子は口に出す寸前で飲みこんだ。
「次の言葉はどうか、一度口にするのを待ってください」
「なぜでしょう」
薫子が首をかしげると、あさひは「公平ではないからです」と返した。公平ではない、というのはどういうことだろうか、と薫子がいぶかしんでいるとあさひは「違いますよ」と言った。
「公平でないのは貴女ではなくわたしの方です」
「おっしゃっている意味がよくわかりませんが……そうなのですか?」
「そもそも顔を半分しか明かしていない男ですよ、わたしは。公平ではないでしょう」
「まあ、それはそうかもしれませんが……あの、わたくしは別に、その下がどのようなお姿でも問題を感じません」
薫子の言葉にあさひは「貴女はそういう方ですよね」と苦笑した。