三、流転 - 2/4

 この世にはどうしようもなく惹かれるうつくしい人間がいる、ということをあさひが初めて知ったのは、『てんぐ堂』に身を寄せてからひと月経ったときだった。
 少女と女性のはざまにある彼女を初めて町なかで見かけたとき、うつくしい目が強く印象に残った。切れ長で、きゅっとつり上がった目は、彼女の意思の強さを表しているようだった。薄い梔子色の矢絣模様の着物に、橄欖(かんらん)色の袴という服装も、マガレイトに結われた髪も、女学生の一般的な姿だったが、なぜだか彼女だけはすぐに見つけることができた。
(話をしてみたいものだ)
 どんな声をしているのだろうか、話をすればどんな風に答えてくれるだろうか、と考えながらあさひは日がな一日、『てんぐ堂』の店先にいた。店にやってくるほかの客を相手していても、ひどく退屈だったが、彼女のことを考えるときだけ、世界が色づくような心地がした。
 そしてある日、運があさひに味方した。彼女が学友に連れられてついに店にやってきたのだ。そのことはあさひの心を舞い上がらせ――それと同時に落胆もさせた。何せ店にやってくる女性客の九割九分は〝惚れ薬〟を求めていた。
(彼女も惚れ薬を求めるのだろうか)
 初めは人寄せのために言い出したことだったが、それがこんなところで裏目に出るとは思ってもいなかった。惚れ薬というのは厳密には薬ではなく、飲ませた相手の体温と脈をほんの少し上げるためのものであり――要は生姜飴のような子供騙しだった。
 彼女がそれを誰かに渡すのだとしたら嫌だな、と思いながらあさひは次々に客をさばいていく。彼女の友人だろう少女が嬉しそうに惚れ薬を買っていったのを見送ればいよいよ彼女の番だ。
(おや)
 意外にも彼女には買いたいものがないようだった。
 茶を濁すために何か買うべきだろうか、でも口に入れるものは信用が置けないし、と迷っている様子がありありと伝わってきた。あさひの外見に舞い上がることもなく、淡々と品を見定めようとする彼女にあさひは気をよくした。
 迷っている様子は愛らしかったが、あまり迷わせるのも気の毒か、と思ったあさひは傷薬を差し出した。ちらりとのぞいた左の指先に傷があったのが気になってのことだった。女性の指先の怪我として考えられるのは、包丁の切り傷か裁縫針による刺し傷だ。そして怪我をする根本的な理由は不得手であるからだ。あさひ自身は特に気にしないどころか愛嬌さえ感じるが、一般的な女性は裁縫が不得手であるとは公言しない。あまり大きな声で言わないほうがいいだろう、と判断して、できる限り声は潜める。
「こちらをどうぞ」
 あさひが傷薬を手渡すと、彼女は恥じらうように左手を隠した。図星だったか、と思ったがあさひは何も言わず、彼女から金を受け取った。その瞬間ふと魔が差した。釣銭を多く返して、それに彼女がこの場で気づかなければ、後日もう一度会えやしないかと考えてしまった。
 わざと釣銭を一枚多く返しながらあさひは言う。
「得体の知れない人間が調合しているものを容易に口にしないのは、大事なことです。その用心深さはあなたに害為す者から守ってくれると思いますよ」
「……あの、わたくし、そんなお話しましたかしら」
 やや青ざめた顔で訊ねる彼女にあさひは笑顔のまま首を横に振った。
「いえ、されていませんよ。でもわかってしまうんです」
 口にせずとも態度を見ていればわかるが、彼女は取り繕っているつもりなのがおかしかった。そしてあさひは声を低くした。
「――何せわたしは、天狗なもので」
「……」
 冗談めかして言うと、彼女は本気かどうかを図りかねた顔をしていた。困らせてしまったかな、とあさひが思っていると彼女は帰りを急ぐので、と言ったのち頭を下げて店を出て行ってしまった。
(一旦はよしとしようか)
 姑息な手段を使った自覚はあった。だが、こうでもしないと次の機会は訪れないだろうとも思った。
(どうか気づいてくれますように)
 藁にもすがる思いで祈る。その甲斐があったのか、二度目の邂逅はすぐに訪れた。

 二度目の邂逅からあとは、二日と空けず手紙――と呼んでいいのかもよくわからない代物だったが――を送る生活になっていた。屋外に置くため、慎重に天気を見定める必要があり、梅雨の間はずいぶんつらい思いをした。時間が経つほどに彼女からの手紙は優しく、柔らかくなっていった。心の内を少しずつ見せてもらえることに幸福を覚えるのだということも初めて知った。
 やり取りを続ける中で一度だけ、『てんぐ堂』の女主人であるトミ子から苦言とも助言ともつかない言葉をかけられたことがある。
「中途半端であってはなりませんよ。遊びならもっと適当な女がいるでしょうし、本気ならきちんと本気であることをお見せなさい」
 失敬な、と思ったが、幕末から明治維新を経て大正までの酸いも甘いも噛み分けてきたトミ子の言うことももっともだった。トミ子は武家の生まれであり、本来であればこのような小さな商家に嫁ぐような女ではない。本人にとっても苦い婚姻であったことはあさひも知るところであり、トミ子の言葉を無下にすることはできなかった。
 何度も迷った挙句、夏の終わりにあさひはようやく
『思へどもなほぞあやしき逢ふことの なかりし昔いかでへつらむ』
 と書いたものをいつものように榊に結びつけた。聡明な彼女であればきっとこの短歌の意味を理解するだろう、と信じて書いたはずが、書き上がった文字はみっともなく震えて、いくつもの墨溜まりを作っていた。
(こんな不格好なものを渡してもいいものだろうか)
 悩んだがこれ以上うまく書ける気がしなかったため、腹をくくった。なお、三日間返事がなかったことに対して、ひどく気落ちし、トミ子に叱られたことは、消し去りたい記憶だ。
 四日目にようやく見つけた彼女からの返答は地の底まで落ちこんだ気持ちを上昇させてあり余るものだった。
『おぼつかな君知るらめや足曳の 山下水のむすぶこころを』
 決して彼女は自分の気持ちを露骨に見せることはないが、あさひの言葉に応えてくれたと考えるには十分だ。あさひはその手紙を丁寧にたたんで糸をかけ、文箱の一番下にしまいこんだ。これだけは何があってもなくすことがないように、という願かけだった。
(……どんどん愛おしくなる)
 彼女のすべてが手に入ればどんなにいいだろうか、と考えて慌てて首を横に振る。
(彼女は彼女自身のものだ。わたしがいたずらに奪っていいものではない。それにまだ彼女に伝えていないことがいくつもある)
 そう思いながらあさひは面で隠した顔に触れる。何を見ても、彼女がすべてを許してくれたらいいのに、と願わずにはいられなかった。