三、流転 - 4/4

「でも、わたしが構います。あまり、気持ちのいいものではありませんが、一度見てから改めて聞かせていただけますか」
 あさひはそう言って、面を固定するために頭の後ろで結んでいた紐をほどいた。あさひは取った面を膝の上に置いて、薫子の方に顔を向けた。
 面の下にあったのは火傷痕とふた筋の大きな傷だった。ケロイド状になった火傷痕と額から頬にかかる大きな傷は完全に右目を潰しており、彼の右目が二度と光を宿さないことを示していた。さぞかし痛んだことだろう、と薫子は思ったが、不思議と嫌悪感を抱くことはなかった。
「ひどい有様でしょう?」
 おどけたように言うあさひに薫子は首を横に振った。あさひ自身は気づいていなかったが、面を外すときの彼の手はわずかに震えていた。軽い口調でごまかそうとするあさひを薫子は許したくなかった。
「確かにひどいお怪我ですが、わたくしがたったそれだけのことで揺らぐと思われていたのですか。そちらの方が心外です」
 そう言って薫子はそっとあさひの頬に指先で触れた。思わず身を引こうとするあさひに構わず、手のひら全体で頬を撫でる。傷跡は乾いてかさついていた。
「……恐ろしくはないのですか」
「はい。あなたのかたちが損なわれていたとしても、わたくしがあなたからいただいたもののかたちは損なわれませんから」
 きっぱりと言い切った薫子にあさひは破顔した。笑っているはずなのに泣き出す寸前に見えたのはなぜだろう、と薫子は思う。
「これで公平になりましたでしょうか」
 薫子が訊ねるとあさひは「もう一つ」と付け加えた。
「これを見ていただけますか」
 そう言ってあさひはもろ肌を脱いだ。身内以外の男性の肌を目にする機会などないに等しい薫子は思わず両手で顔を覆ったが、恐る恐る指の隙間から様子をうかがう。
「それは……」
「これでわたしの隠し事はすべてです。驚かせてしまって申し訳ない」
 ――あさひの背には黒鷲のような両翼があった。
 ところどころ羽が抜け落ちている部分があるものの、全体として立派なつくりに、思わず感嘆のため息が漏れる。およそ人体にあるはずのないそれに驚いたものの、薫子はすぐに以前のあさひの発言を思い出した。
「……あのとき、わたくしに『自分は天狗だ』とおっしゃったのは、事実でしたのね」
「はい。信じるはずがないと思って口にした言葉でしたけどね。そういうわけでわたしはここの孫でもなく、ただの居候です。怪我をして困っていたところを助けていただいたので、置いていただくかわりにお店を手伝っていました。――いくつも嘘を重ねていて申し訳ございません」
 そう言って深く頭を下げたあさひに薫子は「お顔を上げて、お着物を直してくださいまし」と静かに言った。顔を上げたあさひに向けて薫子はほほ笑む。
「嘘、とおっしゃいましたが、わたくしはそれを糾弾したいとは思いません。正直にお話いただいて嬉しゅうございました」
 言いにくいことを打ち明けてくれた時点で薫子の覚悟は決まっていた。あさひはすべてを明かしたうえで薫子に選択権をくれたのだ。
「わたくしは、それでもあなたを選びたいと思います」
 はっきりと告げた薫子に、あさひは静かに「やはり貴女はそうおっしゃると思っていました」と言った。そして、あさひは着物を整えると「申し訳ありません」と謝罪した。
「その謝罪は何に対する謝罪でしょう」
 何に対する謝罪か、薄々感づいていながらも薫子は訊ねた。
「貴女の申し出をお断りすることに対するものです」
「なぜ?」
 今の話の流れで断る理由が薫子には理解できなかった。あさひの容姿、正体を明かされてもなお、揺らぐことない自分の意思を示したはずなのにどこがいけなかったのかと薫子は思う。
「すみません。貴女がどこかで断ってくれるものと期待していました。……わたしから貴女をあきらめることはできそうにもなかったので、貴女に甘えたのです」
「あきらめられない、と言っておきながら断るのはいったいどのような了見なのですか?」
 ぐっと声は抑えたものの、怒気をはらんだ薫子の問いに、あさひは静かに答えた。
「わたしは『天狗』で貴女は『人間』です。『天狗』というものは人間には理解しがたい生き方をするものですし、その外観の特殊さでどんどん数を減らしています。羽を求めてやってきた密猟者に撃たれかけたこともあります。人目につかない山奥でひっそりと暮らすほかありません」
「ではどうして」
 そこまで言って声に涙が混じりかけたので、薫子は一度言葉を切った。大きく息を吐き出す。
「ではどうして、わたくしに好きだとおっしゃったのですか」
「……はじめは、貴女のことをさらってしまおうと思っていました。『天狗』にとって気に入った人間をさらうのは、ごく当たり前のことですから。その、無理にではなく、もちろん貴女の合意もいただくつもりではありましたが」
 あさひはさらり、と犯罪行為を口にした。彼が人間とは違う倫理観をもつものなのだと否が応でもわかってしまう。
「でも、わたしにはできなくなってしまった。この町で暮らす貴女は家族にも友人にも囲まれて生きている。わたしの一存だけで、山奥でさびしい暮らしをさせたくないと思った。――貴女には人間として、幸せに生きてほしいと願ってしまった」
「あなたと生きたいと思ったわたしは不幸になると言いたいのですか?」
 静かだった薫子の声に涙が混じる。あさひは困ったような顔で言う。
「元来の理が異なる者同士です。いつかどこかで貴女に無理をかけることになります」
「それは、構わないと申し上げておりますのに」
「いえ、それでもわたしが構うのです。いつの間にか貴女が大事になりすぎていました。そんな貴女に無理をかけたくない」
 あさひはそう言うと、薫子を引き寄せて抱きしめた。たばこの香りがほんのりと鼻腔に充満する。とうとうこらえきれなくなった涙が数滴、薫子のまぶたを乗り越えた。
「あなたの意思は、固いのですね」
 顔をあさひの着物に押しつけたまま、くぐもった声で薫子は言う。
「貴女に恥をかかせてしまって申し訳ございません。ですが、わたしは貴女に選んでいただけたことを光栄に思います。後生ですから、これだけは覚えておいていただきたいのです」
「……ずるいひと」
 わたくしに嫌われるのが怖いのですね、と言った薫子にあさひは何も言わなかった。薫子の背と頭をなでるあさひの手つきは終始優しく、このまま時が止まってくれたらいいのに、と願わずにはいられなかった。
 そしてこの日を最後に薫子が『てんぐ堂』を訪れることはなくなった。