翌日、朝。
被疑者について伝えたいことがある、という連絡を受けて久家と徳永は科学技術研究局を訪れていた。物珍しい施設内に久家は落ち着きなく周囲を見回していた。
「キョロキョロしない」
「すみません」
珍しくってつい、と言った久家に徳永は黙ってため息を吐いた。浦志に言わせると『久家くんは新人隊員の中ではまあまあおとなしい方よ。一応あなたの言うこと聞くでしょ』とのことだが、徳永にはそうは思えない。
「お待たせしました。〈アンダーライン〉第三部隊のサポート担当をしています元岡です。早速ですけど見ていただきたいことが二つあります」
ゆるくウェーブしたボブカットの長身の女性に二人は頭を下げた。そういえばこの人は志登隊長のパートナーなんだっけ、と思った徳永がちらり、と視線を元岡に向けると彼女はにこやかにほほえんだ。
「まず一つは刃物です。血液は久家さんのもの以外拭き取られていたので傷口と凶器の形を照合しました。もちろん久家さんの傷口のデータも〈アンダーライン〉の医務室から提供してもらっています」
元岡はそう言って他の被害者女性たちの傷と久家の傷口データおよび刃物の形状が一致していることを示した。
「あの刃物を凶器として考えて差し支えないということですね」
「はい。そしてお伝えしたいことの二つ目ですが、あの男性は違法薬物を使用していた可能性があります。取調べ中の態度から尿検査を依頼されました。どの薬物かまでは判定できていませんが、陽性反応が出ています」
これですね、と言って元岡は『+』マークが並んだ検査結果を見せた。
「昨日の行動にも納得がいきました。久家を転ばせておいて逃げなかったのが不思議だったんですけど」
一度転んだ人間が立ち上がるまでの時間は思ったよりもかかる。その隙に逃げなかった男の行動の謎が解けた。
「合理的な行動がとれるような状態ではなかったんでしょうね」
「……」
そのような状態の男が起こした事件が命に関わらない傷害と公務執行妨害だけであったことに徳永は安堵する。下手をすれば死人が出てもおかしくなかった。これで傷害と公務執行妨害に加えて薬物使用が罪状に加わり、おそらく男は実刑を免れないだろう。
「徳永先輩?」
久家に顔をのぞきこまれて、我に返る。徳永は元岡から渡されたデータを端末に保存すると立ち上がった。
「ご協力ありがとうございました」
礼を言う徳永に元岡は顔の前で手を横に振った。
「自分の仕事をしたまでですから。これからも協力させてもらいますので、何かあればぜひ相談してくださいね。もちろん久家さんも」
「はい」
では、と言って二人は科技研をあとにした。
同日、昼。
〈アンダーライン〉第三部隊執務室に戻った二人は男の薬物使用疑いについて松本と浦志に報告していた。苦い顔をして報告を聞いていた松本はやっぱりか、とつぶやいた。
「? やっぱり、というのは?」
「最近また増えてるのよねえ、薬物使用」
「こういうのが増えてるときはろくなことが起きない。俺の経験上だけど」
松本は左膝に手を当てながら言った。そこには以前大規模な取り締まりを行った際に負傷した痕がある。
「ただ、薬物の出所がどこかは調査機関〈ミドルライン〉の仕事だからそちらに任せる。俺たちは情報を上げて解析に役立ててもらう」
〈アンダーライン〉が一つの事件にかける時間はおよそ一週間だ。それ以上かかる事件は調査専門に担当する〈ミドルライン〉に引き継がれる。
「それと昼休憩が終わったら今回の被害者のところに顔を出して、被疑者確保の話と面通しをしてきてほしい」
「承知しました」
「次々に悪いな」
特に久家は初日から怪我もし、慣れない中であちらこちらに連れていかれることになる。松本なりの気遣いのつもりだったが、残念ながら徳永に「仕事はこういうものですから」と一刀両断されたため伝わらなかった。
昼休みを終えて、久家と徳永は被害者三人が入院している病院に足を運んだ。傷の経過観察と感染症検査(複数の人間が同じ刃物で切りつけられているため、血液を介した感染症の検査が必要だった)で数日間の入院をしているらしい。
被害者三人に、被疑者が確保されていることを伝え、写真で確認を取る。全員が「この男だった」と証言したところで二人の仕事は終わりだ。
「ご協力ありがとうございました」
最後の一人に徳永が頭を下げる。調査対象のおっとりとした品の良い中年女性は「お姉さん、ありがとうね」と徳永に礼を述べた。
「?」
「私たちのためにずっと怒ってくれていたでしょう。心配してくれた人はたくさんいたけど、怒ってくれる人は少なかったから心強かったの。ただ、代わりに怒らせてしまって申し訳ないとも思っていたわ」
「……買い被りです」
徳永は首を横に振ったが、女性はうふふ、と小さく笑っただけだった。そして、徳永の後ろにいた久家の手首から見える包帯にちらり、と目線をやると「そちらのお兄さんもありがとう」と使加えた。
「……っス」
「ちゃんと返事をしなさい」
脇腹を肘でこづかれて久家は「お礼を言われるほどのことでは」と何とか言葉をしぼりだした。女性は気を悪くした感じもなく、にこにこと穏やかな笑みを浮かべていた。
「ご協力いただくことは以上です。何もないことが一番ですが、また何かありましたら遠慮なくご相談ください」
お大事にしてください、と言って徳永と久家は病室を出た。
病院を出て自動車に戻ると、ハンドルに手をかけた徳永が口火を切った。
「今回が初めてで慣れていないのはわかるけど、最低限の挨拶と返事はしなさい。あの人は優しい人だったから許してくれたけど、そうじゃない人もたくさんいるんだから」
「……すみません」
徳永の言う通りだった。今は徳永がカバーをしてくれるが、そのうち久家が主体になる時期だってやってくる。徳永の叱責は続いた。
「まして彼女たちは被害者でこれからも傷と一緒に生きていかなきゃいけない人たちなんだから、私たちがぞんざいな扱いをしてどうするの。私たちは〈アンダーライン〉の一隊員だけど、私たちの行動ひとつでこれからの〈アンダーライン〉全体の信頼が変わるからね」
「……はい」
「まあ、最初は私が対応をするし、あなたが変なことをしたらちゃんと注意はする」
必要最低限、教育係として任されたことはするから、と念を押した徳永に久家はもう一度「はい」と返事をした。
同日、夕刻。
一日の報告を終えて、徳永と久家が退勤した後の執務室は静かだった。夕勤の隊員たちもすでに持ち場に向かって出発している。
「……とりあえずこのまま組ませるのを続行しようと思うけど、マコさんどう思う?」
二人が出て行ったドアを見ながら松本が訊ねた。今日は少し残るつもりだ、と言った松本は定時になっても席で仕事をしている。
「アタシは賛成よ。面倒見が悪い子じゃないと思ってたけど、予想以上にちゃんと後輩指導してるみたいだし、気分を切り替えるいいきっかけになったんじゃないかしら」
「初日から怪我されたのはちょっとヒヤッとしたけど」
「それはアタシも同じよ。無理に突っ込まないことはこれからも定期的に言って聞かせるべきね」
苦笑しながら浦志も同意した。
「でもそれ以上にあの二人がどうなっていくのかを楽しみにしてるアタシがいるわね」
「同感だ」
思いがけずいいコンビになってくれてよかった、と思いながら松本は立ち上がって背伸びをした。