第三話 Candy, Jam and chocolates -3 years ago- - 3/5

「八代さん」
 呼ばれた自分の名前を八代は無視した。
「八代さん」
 だが、相手はそれだけで諦めるような人間ではない。静かにもう一度名前を呼ばれて、振り返った。そこにいる相手は梶だとわかっていた。
「なに?」
「渡したいものがあって」
 はい、と言って梶は一枚の名刺を差し出した。弁護士、と書かれた名刺に八代は思わず顔を上げた。
「弁護士?」
「そう、どこまで八代さんの役に立つかはわからないけど、きっと力になってくれる人だと思うから。でも、連絡するかどうかは任せる」
「……そう」
 彼が組織の中で働きながらめいっぱいできることだったのだろう、というのは八代にも理解できた。だが、彼からこれを受け取るということは、彼と自分の今の立場をはっきりと突き付けられているようで、受け取ることができそうもなかった。間違いなく八代は法による裁きを受けた上で罰を受ける必要がある。だが、梶は正しい立場で、明るい場所にいるのだと思うと、暗澹たる気分になった。
「気持ちは嬉しいけど、私は受け取れない」
「どうして?」
 梶の疑問はもっともだ。梶にはまったく関係のない八代の気持ちの問題だからだ。だが、だからこそ梶には理由を話すことはできなかった。
「……」
 梶は黙ってしまった八代をしばらく見つめていたが、やがて、差し出していた名刺を引っ込めた。
「ごめんなさい」
 誰かの厚意に触れたのは久しぶりだった。せっかくの厚意を受け取れなくて申し訳ない、と八代は思った。だが、梶は厚意を無碍にされたことに怒ることはなかった。
「いや僕こそ、ごめん。でも、なにかあったらいつでも言って」
「……うん、ありがとう」
 梶は困ったように笑っていたが、最後まで口調は優しいままだった。優しいひとの純粋な行動を受け入れられない自分自身にひどく腹が立った。
 じゃあね、と言って去って行った梶の背中は、なぜか少し小さく見えた気がした。
 ――どこで間違っちゃったんだろう。
 どうしてこんな暗い場所にひとりで立っているのだろうか。気がつくと八代はその場に座りこんでいた。

 六条院が捜査指令の合間をぬって書類仕事をしていると、しょんぼりと肩を落とした梶が戻ってきた。その様子ではどうやら例のものは受け取ってもらえなかったようだ、と六条院は思った。
「戻りました……」
「おかえり。その様子だと不発に終わったようだな」
「はい」
 名刺、受け取ってすらもらえなかったっす、と言って梶は大きくため息をついた。このところ余暇をすべて費やしていた結果が不発に終わっては、彼もやるせないだろう。
「そうだろうな」
「えっ、隊長、わかってたんすか」
「そなたにそのつもりがないのはわかるが、知り合いに憐れまれるということが彼女のプライドに障ったのだろう」
 六条院の言葉に反論をするか、と思ったが、梶は意外にも素直に納得した。
「……そっすね。ちょっと考えればわかったのに、悪いことしたかな。僕にも同じような経験があるからこそ、現実的な助けになることをしたかったんすけど。上手くいかないもんですね」
 どうしようかな、この名刺。
 梶のつぶやきに六条院は「わたしが預かっておくか?」と訊ねた。梶はしばらく考えたのちに、静かに首を振った。
「もう少しこのまま僕が持っておきます」
「わかった。ただし一つだけ覚えておいてほしいことがある。彼女の身柄は、真に裏で糸を引いていた男が逮捕されたら、すぐに司法に預ける手はずになっている。その名刺を渡せるのもそこまでだ。彼女がそれを理解しているかどうかは、わたしにもわからないが」
「――わかりました」
 また日を開けて訪ねてみて、次も受け取ってもらえなかったら隊長に預けます、と言って梶は名刺を机の引き出しに片づけた。
「きっと徒労には終わるまい」
「そうだといいんですけど」
 よく言えば意志が強く真っ直ぐだが、悪く言えば頑固な彼女に届くだろうか、と梶は思った。
「隊長」
「なんだ?」
「また、八代さんと話をしに行ってもいいですか」
 梶の問いかけに六条院はもちろんだと首を縦に振り、「ただし、勤務時間外に行くこと」と付け加えた。

「おはようございます」
 松本が潜入を始めて一週間が経った日の朝だった。毎朝八時に欠かさずに定期報告をしに〈アンダーライン〉第三部隊の執務室にやってくる松本を出迎えるのは六条院だ。
「調子はどうだ?」
「ぼちぼちですかね。出荷用に流れてくる箱を見ていると今は廃墟になっているか、もしくは事業届が出されていない倉庫に行くものが三つありました。どこが違法薬物の倉庫になっているかはまだわかりません」
 はいこれ、と言って松本が出したのはデータ記録用のミニチップだ。ボールペン型の小型カメラで撮影をした記録が入っている。六条院はそれを受け取って端末で読みこんだ。
「こういう機械ってちゃんと使えばこうして役に立ってくれますね。大体最近関わるのだと盗撮だとか盗聴だとか事件ばっかりで嫌になってたんですが」
「それにはわたしも同感だ。ああ、思ったより性能がいいな」
 画質も悪くないと、と言いながら六条院は記録された静止画を見た。そして静止画から読み取れる荷物のラベルに書かれた住所をさらり、と手元に書き留めた。特に気負って文字を書いているようには見えないのに美しい文字が連なっていく。
「そういえば今頃訊くのも変ですけど、今回の案件は〈ミドルライン〉担当では?」
 本来であれば調査に時間を要する案件は調査機関である〈ミドルライン〉が担当するはずだ。今回わざわざ松本に話が回ってきたのも本来の業務分担を考えると、疑問が生じる。
「そうだ。本来であれば〈ミドルライン〉の担当になるが」
 そこで六条院は言いにくそうに言葉を切り、不本意そうに「人手不足を理由に押し付けられた」と付け加えた。理不尽に対してはきちんと突っぱねることが多い六条院が断れなかったのだから、相当強く言われたのだろう、と松本は推測した。
「あちらはあちらで、別の大掛かりな捜査を実施しているらしい」
「はー、そうなんですか」
 〈ミドルライン〉の仕事は表に出てこないものが多い。捜査中の案件の情報を表に出してはいけないというのは当然だが、組織の実態がつかみにくいという欠点もある。
「ところで松本、今日あちらに出勤したら可及的速やかに辞職の意を伝えてほしい」
「え、もういいんですか」
「三か所に絞れたら、あとは現場に踏み込む日と現場の地理的把握を進めていきたい」
「わかりました。最短で辞められるように言っておきます。……こういうときのために履歴書にたくさん職歴を書いておいたんですね」
 松本の言葉に六条院はうなずいた。
「〝そういう人間〟だと思われている方が好都合だろう」
「う、今回ばかりはそうですね」
「心配するな。そなたがきちんと仕事をこなす者だということは知っている」
 不本意だ、と言いながら松本は出勤すべく鞄を持ち上げかけて、すぐさま置きなおした。
「あ、そうだ! もう一つ確認しておきたいことがあったのを思い出しました。雷山、大丈夫ですか? 一応引き継ぎしましたけど、急ごしらえだったので」
「ああ、問題なく動いてもらっている。今日は第一部隊の方で仕事があると言っていたが」
「そうですか。よかったです。ちょっと心配してたんで」
 松本の言葉に六条院は訝し気に眉をひそめた。
「それはどちらを?」
「そりゃ雷山の方ですよ。慣れない業務に加えて、普段と違う隊に一時的とはいえ所属しないといけないんですから。ま、慣れない業務を担当する部下を持つ隊長のご苦労も心配しないわけではないですが、大丈夫だってわかってますからね」
「そなたに信頼されているようでなによりだ」
 六条院はそう言ってちらりと自分の腕時計に視線をやった。
「そろそろ行かねば遅刻になるぞ」
「了解です。ではなるべく早く辞められるように話もつけてきますので、また明日」
 松本は手を上げると再び鞄を肩に引っ掛けて第三部隊の執務室を出て行った。また一人に戻った執務室は随分と静かになった。
「さて、」
 松本がもたらした情報を元に、さらなる調査に取り掛かるべく六条院はデータベースへのアクセスを開始した。

 同日某時刻。【住】地区三番街〈ガンマ〉のビルの一室には二人の男がいた。一人は若い男で、オフィスチェアに腰かけたまま履歴書をじっと見つめており、もう一人は薄くなり出した髪が目立つ年配の男だった。
「こいつが最近採ったって言ってた男?」
「ええ、そうです。働きぶりは悪くないですよ」
 ――氷室さん。
 一人の男はもう一人をそう呼んだ。氷室と呼ばれた男は緩慢な動作で履歴書から顔を上げた。その拍子にブロンドベージュの前髪がはらり、と顔にかかり、氷室は鬱陶しそうに指で払った。
「どこかで見た顔だな」
「以前どこかで働かせていましたか?」
 その問いかけを「いや、うちのようなところに来るにはクリーンすぎる人間だ」と否定して氷室は机を指で叩きつつ考え始めた。いつぞや協力を要請した技術者だったか、流通業者だったか、はたまた銀行員だったか。ぐるり、と考えを巡らせているうちに思い出したことがあった。
「きみ、二年前に【住】地区の外れで起きた事件のことを覚えているかな」
「は? 二年前ですか? 残念ながら覚えがありません」
「ああ、そうだった。あの事件はかなり高い機密レベルにあるのを忘れていた。まあ、そこはいい。問題はこの男だ。あの事件の主因だったはずだ」
 氷室はとんとん、と履歴書の写真部分を叩いた。
「主因ですか。主犯ではなく」
「そうだ。主犯は一人ではなくグループで今は全員特別監視下に置かれているんだったかな。そして問題のこいつは辞めていなければ〈アンダーライン〉所属のはずだ」
「まさか。そんな人間がどうしてこんなところに」
「十中八九潜入だろうね」
 ご苦労なことだ、と氷室は笑った。そして、潜入をされた経緯には思い当たるところがあると言った。ひと月半ほど前に姿を消したバーのピアノ演奏をしていた女が氷室の名を出したのだろう。
「女のことはこの際おいておこう。おそらくしばらくしたら一斉に〈アンダーライン〉の捜査が入るだろうから各所の警戒は十分に。そしてこいつもここを辞めると言うだろうから、その時は特に引き止めずに辞めさせるように指示をしておいてくれ」
「承知しました」
 男は慇懃に頭を下げると、部屋を出て行きかけ――氷室を振り返った。
「氷室さん、一つだけ質問が」
「なにかな?」
「あなたは彼の情報をどこから手に入れたんですか?」
 男の問いかけに氷室はわずかに微笑んだ。人の上に立つことを許された者だけが見せる美しい笑みだった。
「世の中には知らない方がいいことが、たくさんあるんだよ。好奇心は猫をも殺す、と言うしね」
 ぼくはきみに幸せかつ賢く生きていてほしいんだ。
 にこやかな笑みと共にそう言い放った氷室に、男は再度深く頭を下げて部屋を辞した。