最終話 Good-bye our sweet stray dogs 後編 - 1/6

星野を証人保護施設に送り届けたのち、休日出勤なのだから早く帰れと〈アンダーライン〉隊舎を追い出された六条院は特に行く当てもないまま、真っ直ぐに自宅に帰った。会議、星野との対話や送迎であっという間に時間は過ぎており、自宅に着いたときには、あたりは薄暗くなっていた。マンションの廊下の電気はつくか、つかないかという中途半端な時間で、やや見えづらい足元を見ながら歩いていると自宅の前に〝何か〟がいるのがぼんやりと見えた。

「――おかえりなさい」
何か、はものではなく人だった。家の前に座り込んでいたその人間は顔をあげると、六条院へ声をかけた。聞きなれた声に思わず名前を呼びかけて、慌てて口をつぐんだ。いつどこで誰が聞いているかわからない。

「……こんなところで、なにをしている」
「一つだけ、返し忘れたものがあったので、返しておいてもらいたくて」

そう言って、彼――松本は〈アンダーライン〉の腕章を差し出した。ほかの装備はすべて返却され、私用の端末も処分されていたが、腕章だけはどこを探してもなかった。

「……なるほど、これを持ち出したのは理由があったのか」
「はい。これのおかげで色々調べられました」

身分詐称になっちゃいましたけどね、と松本は大して悪びれた様子もなくうそぶいた。六条院がそんな松本に「まだ退職届はわたしのところで止めてあるゆえ詐称ではないぞ」と言えば、松本は不満そうに唇を尖らせた。

「届、ってちゃんと書いたじゃないですか。退職願じゃないんですよ」
「それでも、だ」

わたしのわがままで止めている、と六条院は言って松本を立たせた。
「急ぎでどこかに行くわけでもあるまい? 少し話をさせてくれぬか」
「……いいんですか」

俺がここにいること知られたらまずいんじゃないですか、と松本はじっと六条院を見下ろした。そのハシバミ色の目をじっと見つめ返したあと、六条院は口を開いた。

「本部には行けなかったからここに来たのではないか」
――そなたも話がしたかったのではないか。

ぼそり、と付け加えられた言葉に松本は頭をかいた。困ったなあ、とつぶやかれた言葉は独り言だった。

「……幹夫さんからある程度聞いたんじゃないんですか?」
「聞いた。だが、そこからわかるのは星野教官を通した当時のことだけだ」

六条院はそう言って、家の鍵を開けた。

「そなたの口から聞きたい」
「……それ、前に俺が言った、」

松本が思わずつぶやくと、六条院はいたずらが見つかった子どものように笑った。扉を開けたまま、松本に向かって手招きをする。

「あまりここにいても見つかる。早く入れ」
「……おじゃま、します」

六条院は松本を部屋に入れると、ざっと周囲を見渡す。見える範囲に気になるものがないことを確認して、扉を閉めた。

 

 

家の中に通された松本は落ち着かない様子で部屋の中を見渡した。その様子に六条院は苦笑する。

「……そなたの家と左右しか変わらぬ間取りのはずだが?」
「そうなんですけど」

やっぱり他人の家ってちょっと落ち着かないじゃないですか、と付け加えて松本はリビングに敷かれていたラグに腰を下ろした。毛足の長いふわふわとしたラグを松本は触る。

「幹夫さんにはどこまで聞いたんですか」
「あらかたは耳にした。……そなたが、星野教官のもとで過ごしていた理由や、〈アンダーライン〉に入った理由も」
「え、じゃあ俺から話すことなんてほぼないですよ」

松本は出された水には手をつけず、思わず反論した。

「……だが、他人からの話で、本人の感情まではわからない。わたしは、なにを感じたのかが聞きたい」

六条院の声に、松本はため息をついた。

「隊長も、物好きですね」

松本は少し視線をうろつかせたのち、どこから話したらいいのかな、とつぶやいた。

「こうなる前のことはあまり覚えていませんし、〈世界を滅ぼす〉大戦のときのことは……話したくありません」
「わかった」

六条院が是と返事をすれば、松本は驚いたように目を見開いた。六条院は補足する。

「わたしは今、職務として話を聞いているのではない。……まあ、こうしてそなたに話を聞いている時点で公私混同だろうが、意思は尊重したい」
「……ありがとうございます。〈世界を滅ぼす〉大戦のあとの俺の生活は、数か月前の集団自殺者とあまり変わりません。ただ、極端に強化された能力は日常生活の妨げになるだけでした。〈世界を滅ぼす〉大戦の時の方がうるさい戦場に身を置いていたはずなのに、俺には日常生活の方が苦痛で仕方なかった」

人の声、街に流れる合成音声、におい、光――すべてがチクチクと肌を刺すように存在していた。平和がいいと望む人間たちは、この世界がほしかったのかと愕然とした。

「おまけに、俺の周りの人間はどんどんいなくなりました。俺は、誰とも足並みをそろえて生きることができない」
「……」

松本は一度言葉を切ると、小さく息を吐いて話を続けた。

「それが、俺にはどうしようもなく寂しかった。俺は誰かと一緒に年を取って生きてみたかった。でも、それが俺にはできない上、勝手に死ぬことも許されない身体です」

身体にせまる危機を察知すると、命に危険を及ぼすものをすべて排除しようとする。それは自死であっても、同じように起きてしまう。例外は、病死や老衰、または災害等の不可抗力による死だけだ、と松本は寂しそうに言った。

「どうしても隠しきれなくて、〈地下街〉におりました。そこで何年過ごしたのかはもう覚えていませんけど、あそこもあそこで中々に過ごしづらいところでした」
「……そうだな」

六条院はつい先日入った地下街を思い出す。
暗くて、寒くて、狭い。
多少自由に生活ができる監獄と言えるようなあの場所は、なんとも形容しがたい場所だった。
言葉から導き出されるイメージよりはきれいだが、生きながら死んでいくような感覚を味わう不気味な場所だった。そこには、松本以外にも過ごしていた人間は多数いた。〈世界を滅ぼす〉大戦以降、都市国家〈ヤシヲ〉から取り残されてしまった人間たちが送られて淡々と日々を過ごす場所だった。

「ある時一回、〈ヤシヲ〉全域の扉の感知機能が作動しなくなったことがありました。感知機能が作動しなければ、俺が通っても記録は残らない。絶好のチャンスだと思って、その時に俺は〈地下街〉を抜け出しました。あそこで、いつ来るかもわからない死をえんえんと待つことはできませんでした」

とはいえ、行く当てもなかったんで、姿を隠せる場所として〈ゼータ〉を選んだんですけど、と松本は苦笑した。

「そして、本当に偶然、幹夫さんに出会って拾ってもらえたんです。事情を話して、それなら、って将来の道まで用意してくれて、ちゃんと、人間として生きられるようにしてくれた。〈アンダーライン〉に入ればきっと能力を活かせるし、戦前の軍部の研究にも近づけるかもしれない。あくまで可能性の話でしたが、可能性があるなら試してみることにしたんです」
「……そうか」

数か月前の米澤の事件の時に松本が口にした言葉はやはり彼自身の経験からくる話だったのだ、と六条院は納得する。

「おかげさまで、研究に近づくことはできましたが、俺の体質を元に戻すことはできないこともわかりました。……当たり前ですね。きっと誰も戦争のあとのことまで考えていなかったんですから」
「そうだろうな。非日常が終わったあとに日常が戻ってくることを誰もが想定できなかったことが凶と出た」

六条院の言葉に松本は首を縦に振り、にこり、と笑った。

「はい。でも、もういいんです。俺はいつか死ぬまでこの身体で生きていくしかないですし、他の幹部たちにバレた以上、〈アンダーライン〉を去ります。元々そんなに長い期間居られるとは思っていなかったし、十分です。ありがとうございました。俺を信頼してくれて、過去の話をしてくれて、他にもたくさん。もうずっと俺はあなたに助けられていました。おまけに今こうして話まで聞いてくれた」

松本は立ち上がると、六条院に深々と頭を下げた。

「あまりここに長居しても迷惑がかかりますし、もう行きます」

お世話になりました、と言う松本を見ながら、六条院はとっさに行かせてはならないと思った。きっとずっと何かを飲みこみながら、人と違うから仕方がないと諦めながら、生きてきた。このどうしようもなくやさしい人間をまた地下に戻してはいけない。
そう思ったときにはすでに松本の手首を掴んでいた。

「行くな」
「だめですよ。ちゃんと隊長はここにいなきゃ」

松本はやんわりと六条院の手を外す。

「そなたがいなくなっても、わたしは探す。この都市国家の中でわたしが行けぬところはないのだから」

【貴賓】地区も〈地下街〉も彼の身分と地位があれば行ける。だが、松本としては来てもらっては困る。

「そうですけど、でもだめです。俺は本来ここにいてはいけないし、誰かと生きることももう諦めた。本当は、隊長ともっと仕事をしたかったですけど」
「……決意は、硬いのだな」
「はい。俺の同胞たちの不始末は俺じゃないとつけられない」

松本はにこり、と笑うと一瞬の間に去って行ってしまった。追いかけようと伸ばした手もするり、とかいくぐってゆく。

「松本、」

必ず戻れ、という声は届いただろうか。
パタン、と閉まる玄関のドアの音だけがその場に響いて消えていった。