三、
――その日は夏の終わりの曇天だった。
「……夏も終わりなのにまだ暑いな」
松本の出勤時間は一定だ。感覚が鋭すぎてハンデになってしまう時もあるが、基本的に健康優良児である彼は毎朝五時半には起きる。その後、調子を確かめるようにランニングに出るのが習慣だ。それが終わって着替えたあと、簡単に食事をとって出勤する。それが第三部隊に移動する前からの彼のルーティンだった。
松本が出勤する前から隊舎にいるのは六条院だけだ。彼は松本に挨拶だけ返し、もくもくと書類仕事をこなす。彼が落ち着いて書類仕事をこなせるのは、夜勤から日勤、日勤から夕勤への引継ぎが行われている時間だけだった。そして、松本はそんな彼を見ながら、自分以外の日勤メンバー全員分のコーヒーを淹れる。松本自身はカフェインが刺激になるので飲まないが、淹れるときの香りが好きだから、と言って今では誰よりも上手に淹れるようになっていた。
閑話休題。
今朝は、隊舎に入った時から何かがおかしい、と松本の勘が告げていた。うなじの産毛がチリチリと痛むような、不思議な感触がずっとしている。なんだろうか、と思いつつも自分の直感は信じるべきだと、あたりを警戒しながら自分に割り当てられた机に、腕章と端末を置き――違和感の正体に気づいた。
「おはよう、ございます」
「おはよう。いつも通りの時間だな」
いつものやり取りだが、いつもと違う。
同じ姿、声、言い方をしているが、目の前にいる男は六条院ではないと松本の勘が告げている。いつもの六条院とは少しだけ違うにおいや仕草を目の前の男から感じ取った。
「なんか今日、いつもと雰囲気違いますね」
「……? そうか?」
少しかまをかけてみたが、六条院に成りすませる人間には通用しないか、と松本はため息をついた。松本の独断になるが、制圧せねばならない。
そう思いながらじっと見ていると、六条院が顔を上げた。
「松本?」
「はい?」
「私の顔になにかついているか?」
「いえ。すみません不躾に」
松本は軽く謝罪をして、ぴりぴりとあたりを警戒しながら、ロッカールームに忘れ物をしたと言って部屋を出た。
向かう先は武器庫だ。
都市国家〈ヤシヲ〉において、一般市民の銃携帯は認められていない。認められているのは猟銃免許を持っている者か(星野はこれに該当する)、〈アンダーライン〉を含む治安維持のための組織(〈ミドルライン〉や〈トップライン〉もこれに該当する)のみだった。拳銃の個体番号と持ち主が紐づけられて管理されているため、もちろん松本に割り当てられたものもある。三十二と刻印された拳銃を手に取り、中に銃弾を込める。銃弾は二発のみ。警告と本番。それだけあれば十分だと松本は判断して本部に戻る。
六条院は顔を上げずに、通常通り仕事をしていた。松本がこれだけ警戒していると全身で訴えているのに頓着しないのはおかしい。
いつも通りの歩幅で近づき「あの、」と声をかける。六条院が顔を上げたところでその額に松本は手にしていた拳銃を突き付けた。
「あんたは誰だ。なにを目的に隊長の姿を騙っている」
――答えろ。
いつもの松本からは考えられないような冷たい声だった。糾弾してやろう、暴いてやろう、という気持ちが全面に出ている鋭利な刃物を突き付けるかのような声。
「……聡いと聞いていたけど、これほどだったとは」
六条院の貌をした男は、降参だ、と言うように両手を上げた。
松本はともすれば乱れそうになる息を懸命に抑えながらずっと引き金に指をかけたままだった。
その日の櫻井は朝からついていなかった。出勤前、気に入って履いているスニーカーの紐がちぎれ、慌てて別のスニーカーを履いて出てきたが、途中で動物の糞を思い切り踏みつけた。挙句の果てに妻に持たせてもらったはずの弁当を玄関先に置き忘れてきたことに隊舎のロッカールームに着いてから気が付いた。
「なんて日だ……」
ひとまず妻には謝ろう、と櫻井は端末で誠心誠意の謝罪を妻に送る。冷蔵庫に入れてくれれば夕飯に食べる、と送ってため息をついた。そして、いつもの通り、日勤チームとして本部の仕事の補佐をしようと、執務室まで出向いた瞬間、言いようのない緊張を感じ取り――執務室の中を見てギョッとした。
「ちょ、ちょっと何やってるんですか!」
ああ、やはり今日はついていない。
なぜ出勤して最初に見るものが、隊長の額に拳銃を突き付ける副隊長の姿なのか――。思わず信じていない神に嘆きたくなる。
「……」
第三者の闖入によって、松本も正気に返ったようで、ようやく拳銃を下ろした。
「櫻井さん、手錠貸してください」
「は?」
「隊長じゃないんです」
この男は、隊長ではない、と松本は一言一言かみしめるように言った。とはいえ、櫻井にはにわかに信じがたい話だ。
「本人も認めてますから。早く」
「ご自分で持ってないんですか」
「昨日、三山に貸して返してもらってないんですよ」
松本の言葉に櫻井は渋々従う。松本は六条院の貌をした男の手に手錠をかける。手錠をかけられた瞬間、彼はどことなく面白がっているような顔をした。
「もう一度訊く。あんたは誰だ。なにを目的に姿を騙る」
「私の名前は明かせない。ただ、姿を騙っているわけではない」
「騙っていない?」
どういうことだ、と松本が考える。櫻井はこの心臓に悪いやり取りが早く終わるよう祈るしかなかった。そして、巡回担当地区でなにも事件が起こりませんように、とも。
その瞬間、不意に松本の端末が音を立てた。
表示された相手の名前は非通知、となっており、誰だよ、と悪態をつきながら松本は通話応答を押した。
「はい、どちら様ですか」
機嫌が悪いながらも、電話には丁寧に出る。電話向こうから聞こえてくるだろう声を待っていると、
『――松本か?』
聞きなれた六条院の声がした。驚いた松本は思わず拳銃を取り落としかけるが、気力で握りしめた。
「はい。松本です」
『悪いが、そのまま端末を置いて、その場にいる全員に聞こえるようにしてくれ』
ちらり、と松本は櫻井に視線をやり、端末を机の上に置いてスピーカーホンに切り替えた。
『御無事ですか』
六条院の問いかけに答えたのは、今まさに松本によって拘束されている男だった。
「命がある、という意味でなら無事だよ」
『……だから申し上げたではありませんか。無理があると』
電話の向こうからため息が聞こえた。松本と櫻井は目線で会話をする。
――隊長が敬語で接する相手って誰ですか。
――俺も知りませんよそんなことは。
その様子が男には伝わったのだろう、面白そうに笑って電話向こうの六条院へと声をかける。
「真仁、この場にいる二人とも鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているよ」
『……それはわたしも見てみたいところですが、今は御身の解放が先です。松本、拘束をしているなら外せ』
「……はい」
叱られた後の子どものような声で返事をして、渋々、本当に渋々松本は男の拘束を解いた。解きましたよ、と報告をすると、六条院は謝罪の言葉をよこした。
『説明をしていなくて悪かった。諸事情でわたしは実の家に戻っている』
「それはいいんですが、この人はどなたですか」
松本の問いかけに、六条院は黙った。薄々正体は分かりつつあったが、六条院に答えてほしいと思った。
「いいよ、真仁。時間の問題だったんだから。事情を明かさないでほしい、というのも私のわがままだしね」
男の許可が出て、ようやく六条院は重たい口を開いた。本当は言いたくない、と思っていることが松本と櫻井にもひしひしと伝わってくる。
『その人の名は六条院常仁《ろくじょういんつねひと》。わたしの双子の兄で、六条院家の現当主だ』
――俺はクビになってもおかしくなかった。
後日松本はその時のことを振り返ってそう言った。