数日だけとはいえ、現在の六条院家の当主の護衛を任されたことは松本にとって負担になった。いつもは優し気に緩められている眉と目は険しくひそめられ、すれ違う隊員たちがぎょっとする――そんな光景への苦情はすべて櫻井に入ってくる。
「それは俺に言われても困るので少し気をつけてください」
日勤から夕勤への引継ぎのタイミングで櫻井は松本に苦情の内容を簡単にかみ砕いて伝えた。
「……申し訳ないです。人間が多いところで人間を守ろうと思うとどうしても神経が尖っちゃって」
どうしても警戒を強めざるを得ないのだという松本の言葉に櫻井は眉をひそめる。
「体調は大丈夫ですか?」
「ああ、それは大丈夫です。俺が勝手に神経をとがらせる分にはコントロールできているので。困るのは、シャットアウトしようがない状況で情報過多になることです」
「それなら、いいですけど……」
櫻井はまだ言いたいことはあるぞ、と言わんばかりの顔で松本を見た。
「もしかして、隊長の方が気になりますか?」
「……そりゃまあ気になりますよ。隊長が承認しないといけない書類も溜まってきてますし」
「そうじゃなくて」
――心配ですか。
櫻井の言葉に松本は黙り込んだ。その肩を櫻井が励ますように叩く。
「大丈夫ですよ。別に心配って言っても誰も咎めません。隊長がお強いのはみんなわかってますけどね」
「……」
心配をするのは失礼ではないだろうか、と思っていた松本の心情を見事に突かれた。
「それでも、心配していいんですよ」
「……そうですね」
松本は少しだけ眉間に寄せていたしわを緩めると、櫻井に礼を言った。
「じゃあ、あとは俺が引き継ぎますので、副隊長は家に帰ってしっかりとおやすみください。休むのも仕事ですからね!」
「はい。では、よろしくお願いします」
松本の挨拶に櫻井は敬礼でもって応える。松本はロッカールームに戻って、荷物から私用の端末を取り出すと、六条院に向けてメッセージを作成した。
『つつがなくお過ごしですか』
素っ気ないかとは思ったがこれ以上書くことを思いつけず、松本はそのまま送信ボタンを押した。
――同日、六条院家にて。
「?」
六条院の私用の端末がメッセージの受信を告げる。六条院の私用の端末に連絡を寄越す人物は限られているため、おそらく松本だろうとあたりをつけて受信したメッセージを確認する。
『つつがなくお過ごしですか』
ふふ、と思わず笑いがこぼれた。つつがなく、という単語を松本は知っていたのか、と思い、もしかするとずいぶんと気を遣ってメッセージを送ってくれたのかもしれないと思い直す。一見すると明るく、自分の正義感を大切にする人間だが、その実かなり細かく気を遣える人物だということを六条院は十分すぎるほど知っている。
「なにか、いいことがありましたか?」
「ああ。部下から連絡が来た」
六条院家においても、常仁と真仁が入れ替わっていることについては厳重な箝口令が敷かれていた。知っているのは、当主の身の回りの世話をする執事の老人だけだ。六条院も彼には幼いころから世話になっているため穏やかに話ができる。
「お二人を見抜かれたという方ですね」
「そうだ。優秀で濃やかないい副官だ。わたしとは違って、きちんと人間に寄り添う姿勢を見せられる。優しいというのはああいう人間のためにある言葉だと思わされる」
「私からすれば、坊ちゃんも十分、お優しい人ですよ」
執事から見ればいつまでも六条院は小さな子どものままなのだ、ということに気が付いて六条院は苦笑する。
「……わたしではだめなことが、世の中にはたくさんある」
「左様ですか」
「もちろん逆もしかりだ。部下ではだめなことが世の中にはたくさんある」
それを補うための組織だ、と六条院は考えている。ひとりではどうにもならないことが、組織であればどうにかなる。手のひらからこぼしてしまったものもたくさんあるが、すくえたものもたくさんある。
「よき人生を歩まれているようで、安心いたしました。ちっとも連絡をくださらないものですから」
「……それはすまなかった。わたしの勝手で家を出た以上、あまり関わるのもよくないかと思っていた」
「そんなことはございませんよ。お名前がなによりの証拠です。真仁様の籍はこの家にございますので、いつでもお帰りいただけるのですよ」
条院家に属する人間でも、場合によっては家を出ることができる。通常であれば当主の許可をもらったのち、名前を変えて条院家とのつながりをすべて絶つが、六条院は例外中の例外としてそのままの名前を使用している。
「……それは、わたしが常仁様の身代わりになれるからか?」
ぼそり、とつぶやいた言葉は思ったよりも部屋に響き――執事は答えなかった。六条院は音にならないその答えに寂しげに笑うと、大きく息を吐いた。
「すまない。困らせるつもりはなかった。今のは聞かなかったことにしてくれ」
六条院の言葉に執事は是と答えた。しばらくひとりになりたいと告げれば、執事は深く頭を下げて、部屋を出ていった。
ひとりになった部屋で六条院はもう一度端末を見る。
『つつがなくお過ごしですか』
端末の画面に浮かんでいる電子の文字からは、松本の声が聞こえるようだった。おそらく、電話をすれば「大丈夫ですか」という声が聞こえてくるはずだ、と考えたところでまた連絡をすると言って以来していないことを思い出した。時間を確認すれば、おそらく彼が家に帰った頃合いだった。
「メッセージにメッセージで返さねばならぬ道理はないな」
ぼそり、とつぶやいて六条院は連絡先に登録されている松本の電話番号を呼び出した。
「うわ! ……なんだ電話か」
六条院の読み通り、帰宅して荷物を置いていたところズボンの後ろポケットが震えた。着信を告げるバイブレーションに思わず声を上げてしまったことをやや恥ずかしく思いながら松本は電話に出た。
「はい、松本です」
『……わたしだ』
この半年で一番よく聞いた声に松本は安堵の息を吐いた。
「名乗ってもらわないとわからないですよ」
『わかっているのだろう? そなた自慢の耳で聞いているのだから』
「はは、そうでした」
自然と声に笑いが乗る。たった数日だが、勝手の違う仕事に疲れていた松本の身に六条院の声は沁みた。
「そちらは大丈夫ですか?」
自然と気遣う声が出た。文章を書けばあれだけ硬くなってしまったことが、口にすればこんなにも柔らかい。電話向こうで六条院も小さく息を吐いたのが聞こえた。
『〝恙なく〟過ごしている』
「……なんでそんなにそこ強調するんですか? 俺ちゃんと意味知って書きましたよ」
『ああ、もちろんわかっている。だが、そなたがどんな顔をしてこの文章を打ったのかと考えると、笑いがこらえきれなかった』
「隊長の笑いに変わったなら何よりです」
文章を打った甲斐があったものだ、と松本は思う。
『そちらは、問題ないか』
「問題ありまくりです。隊長の承認がないと返却できない書類、結構たまってますよ。隊員たちもあんまり元気ないですし。仕事だからしょうがないことはわかっていますが、早く帰ってきてください」
『……わかった』
六条院はそこで一度言葉を切ると松本に一度しか言わないからよく聞け、と前置きをした。
『予告にあった三日後、条院家の当主だけが集う会議がある。おそらくわたしを襲うならそれのための移動の時間だ。さすがに家まで入れるような人間はほぼいない。移動は午後一時からだ』
「……」
『それを過ぎて何事もなければ、わたしはそちらに戻る。なにかあっても迅速に処理してその日中にはそちらに戻る。戻ったら、今回のことも含めてそなたに話したいことがある』
聞いてくれるか、と六条院は松本に問いかけた。謝罪とそれ以外に松本に知ってもらいたいことがあった。松本と今よりももっと、仕事をしていくために。
「……」
『だめか?』
「……ずるいですね、隊長。俺が断れないの知ってて」
『職権乱用になるか?』
「いいえ。聞きます。俺は、今回のことも隊長のことも全部あなたの口から聞きたい」
誰かの伝聞や噂ではいけない。松本が信じて動くべき人間はひとりしかいないのだから、その人間の言葉を聞きたいと思った。
『ありがとう』
「お礼にはまだ早いです。俺はまだ今回のことを黙ってた件については怒っていますからね」
声に少しだけ茶目っ気を乗せて言えば、電話向こうで六条院も小さく笑ったのが聞こえた。
『では、もう少しそちらで常仁様をよろしく頼む』
「はい、精一杯務めます」
じゃあまた、と軽い挨拶が入って六条院との通話は終わった。ピッ、と軽い音を立てて切れた端末を充電器にセットすると松本は大きく背伸びをした。
疲れてはいたが、なんとなく身体をリセットするために走りたい気分だった。休むのも仕事ですよ! という櫻井の声を頭を振って追い払い、松本はトレーニングに出るべく着替えを部屋まで取りに戻った。