サンドラによって、最大限飾られたメルは王宮の中を歩く。サンドラの「大変麗しゅうございますよ」という言葉を信じて、メルは胸を張ることにした。ほぼすべての装飾品はサンドラが選んだものだが、耳飾りだけは、師父から託してもらった月長石の飾りをメルが自ら選んだ。裸足で歩くことにも慣れて、今やひんやりとした王宮の床が足裏に気持ち良かった。
扇の間と呼ばれる部屋は、部屋の一画に調度品として扇が飾られている部屋だった。床が扇形をしている部屋を想像していたメルだったが、扇を飾りとする文化に衝撃を受けた。祖国では扇を必要とする季節は年に数日あったらいい方で、持つ必要を感じないものである。
これらの扇は近隣国の名産品となっている扇の中でも、国宝級の職人の手によって作られた一級品である、というエイダンの解説にメルは素直に感心して聞き入った。金糸をはじめとする色とりどりの刺繡が施された扇は、確かに部屋を飾るにふさわしかった。
「気に入ったのであれば、取り寄せることもできるが」
「いえ、あ、その気に入らなかったわけではございませんが、取り寄せなさらずとも結構でございます」
じっと扇に見入るメルを見たエイダンにそう声をかけられて、メルは恐縮して断りを入れた。女王に持たせてもらった果物とはわけが違う。ボルガ王国では、正式な場では扇を持つのがマナーとされていることは知識としてあったが(そのため王家の紋章にも扇の意匠があしらわれている)、国宝級の扇を持つことを考えただけで手が震えた。そうメルが伝えると、エイダンはやや残念そうな顔で「そうか。まあ気が向いたらいつでも言うといい」と言った。
二人の話が落ち着くと、食事の用意が始まった。
扇の間は、部屋としては広くない。数人で小規模な食事会をするのがせいぜいの部屋であるが、広い部屋に二人きりでぽつんといるよりもずっとよかった。
ほかほかと湯気を立てる食事を前にすると、メルはいつでも幸せな気持ちになる。祖国では食事を温めることにも苦労をし、最高の贅沢は温かい食事だといつも言われていた。そのため、メルにとってボルガ王国での食事はすべて贅沢品だった。なおボルガ王国では、豊富にある地熱を利用した蒸し料理が食文化の中心であり、温かい食事が当然である。
「特に貴君からの希望がなかったゆえに、我が国固有の料理を用意しているが、口には合っているだろうか」
用意された食事はボルガ王国特有の、甘みと酸味をベースにやや香辛料の効いた味付けである。初日こそ祖国との差に驚いたメルだったが、数日もすれば慣れた。ボルガ王国の蒸し暑い気候にぴったりの味だった。
「はい、おかげさまで、美味しくいただいております。祖国では、鶏を食べる文化がありませんでしたが、美味しゅうございますね」
ニクス帝国において肉は貴重なものである。一番よく食べられるのは、毛を刈ることができなくなった老齢の羊、もしくは山羊であり、干し肉として加工されたものが大部分を占めていた。寒冷地のため、鶏を飼育できるような土地ではなく、鶏を食べる文化はなかった。だからこそ、初めて食した鶏は、甘辛い味付けはもちろん肉自体が非常に柔らかく、脂が乗って甘いと感じた。
メルの言葉にエイダンは満足そうにうなずいた。自国の食文化を褒められて悪い気を起こすものはいないよ、と教えてくれた師父に心の中で礼を言う。
「この鶏料理は、国の中でも一番よく食べられるものだ。口に合ったのなら、余も嬉しい」
食事を摂るエイダンは、初日に対峙した時とは打って変わって、穏やかな表情をしている。メルも、最初こそ緊張していたが、一度食事を始めると、落ち着いてエイダンと話せるようになった。
「ところで、殿下のお好きなお料理はなんですか?」
メルの問いかけに、エイダンは「そうだな……」とつぶやいて、顎に手を当てた。そして、しばらく沈黙したのちに、口を開く。
「料理、というわけではないが、余はこの国でとれる果実が好きだ。手軽に食せる上に味もよい。……貴君も何か食しただろうか?」
「はい。先日女王陛下のお茶の時間に呼ばれまして、ポンガをいただきました。瑞々しくて美味でした」
メルの発言にそばでひかえていたサンドラがにこり、とほほ笑む。部屋でも間食にしているのを知っているのは彼女だけだった。だが、サンドラはメルの許可なく口を開くことはなかった。
「そうか。口に合ってなによりだ」
わずかに目尻を下げるエイダンに、メルの心が騒ぐ。酒も飲んでいないのに、頬に血の気が差すのを感じた。
(……こんなお優しい顔もできる方なのか)
メルが内心でどぎまぎしていると、不意にエイダンは手にしていた匙を置いて、メルを見つめた。神妙な面持ちに、メルも思わず背筋を伸ばす。エイダンはおもむろに口を開いた。
「……初日は、遠方から来てくれた貴君に不寛容な態度を取り、申し訳なかった」
一度きちんと詫びねばならないと思っていた、と言って頭を下げるエイダンに、メルは静かに「頭を上げてくださいませ」と言った。
「殿下の事情は女王陛下と医官からうかがいましたし、そもそもわたくしは殿下に対して怒っておりません。……多少、驚きはしましたが」
「では、驚かせたことに対しての謝罪であれば、受け取ってくれるか?」
エイダンはメルの言葉を捕まえて訊ねる。その問いかけに対してメルは首を縦に振るほかなかった。皇太子当人からの謝罪をこれ以上突っぱねては、今度はメル自身の立場が危うくなる可能性が出てくる。エイダンはメルが謝罪を受け入れたことを確認して、話を続けた。
「余のことを母や医官から聞いたのであれば、貴君の身に不調をきたす可能性があるのも理解しているだろう。しばらくこうして過ごして、身体に不調が出た場合は、静養できるように手配を整えよう。……余としても、むやみに貴君に負担をかけることは望んでいないことだけは、信じてほしい」
「はい。ありがとうございます」
うまくいくかどうかはまったくわからない。祖国に帰されることになるかもしれない。だが、メルの幸せを精いっぱい願って送り出してくれた師父のことを考えると、ここで踏ん張る以外の選択をすることはできなかった。
その気持ちがわずかに顔に出たのか、エイダンはさらに言葉を続けた。
「そう不安な顔をする必要はない。ボルガ王国(ここ)が気に入れば、余のそばでなくとも暮らせばよい」
「え、しかしそれは」
当初の予定と違っては、国も困るのではないかとメルは思ったが、エイダンの意思は固く、がんとして言い募った。
「よい。余も貴君もどちらも等しく、この国で暮らす権利を有している。それは誰にも邪魔をされてはならない。そういうふうに最高憲章で規定されている」
「はい」
「余が言うのもおかしいが、まだ貴君の言う〝証明〟は始まったばかりであろう?」
その言葉にメルはハッと気づいて顔を上げる。メルが目にしたエイダンの表情はこれまで見た中で一番明るいものだった。
「余も少しだけ気を楽にしてみることにした。貴君の〝証明〟が叶うことを、心待ちにしてもよいだろうか」
もちろん、必要な協力は惜しまない――。
そう言われて、メルは「改めてよろしくお願いします」とエイダンに向かって頭を下げた。エイダンからの歩み寄りを受けて、胸の奥がほかほかと温まるような心地がした。きっと、祖国にあのまま居続けても抱くことがなかった感情である。
(師父、俺を外に送り出してくださってありがとうございます)
ニクス帝国を出て初めて、メルは師父に素直に感謝の気持ちを抱いた。そして、それと同時に恋しくも思う。
「あの……」
「ん? なんだ」
「母国に……いえ、養父に信書を送ることはできるでしょうか」
メルの問いかけにエイダンは「ああ」と答えた。
「詳しい手順は侍女に訊くとよいが、もちろん可能だ。貴君の到着は極秘に知らせてあるが、貴君からも信書を出してノエを安心させてやるとよい」
「ありがとうございます」
寛大な言葉が返ってきたことで、国としてメルを間者と疑うことなく、歓迎してくれていることを理解して、メルは安堵した。そして、考える。
(一体何から、師父に伝えようか)
数日の間にたくさんのことが起き、エイダンとの関係もどうにか持ち直しそうだ。
だからメルは気づかなかった。信書の内容を考えている自分を見るエイダンの目がとても優しい色をしていることに。