一方その頃、メルは自室で、風呂に身を沈めていた。ボルガ王国に来て以降、メルが一番気に入ったのは風呂だった。湯船に浮かんでぼんやりとするのが、心地よかった。
サンドラが工夫を凝らしてくれることもあり、メルの部屋にある浴槽は毎日違う姿を見せている。今日はボルガ王国の国花である芍薬の花びらが浮いていた。
メルはまだ見たことがないが、蒸気が満ちた風呂もあるという。公衆浴場もしくは、貴賓用の浴場に用意されているので、いつかそちらにも行ってみたい、と思っていた。
今のメルの目下の悩み事は、いつエイダンに祖国での仕事のことを打ち明けるか、である。女王はすべて知っていたが、エイダンはおそらく知らない。ボルガ王国では、死者を弔うのは聖職者の仕事であり、尊敬されるものだと女王は説明したが、どうにもメルの中で、疑いの気持ちが晴れなかった。人間は未知のものを恐れ、迫害する。
(……でも、いつかはきちんと自分の口から殿下に言わなければ)
メルがそんなことを考えていると、
「メル様、おくつろぎのところ申し訳ございません。殿下より言伝がございます」
と、風呂の扉越しにサンドラから声がかかった。普段、メルが入浴している途中では声をかけない彼女だが、どうやら急用のようだ。
「殿下からはなんと?」
「はい、明日の早朝、王宮裏の山に出かけないかというお話でしたが、いかがなさいますか? ヒートの時期も近くなってまいりましたので、お断りすることも可能ですが」
サンドラの言葉にメルは考える。メルの気持ちの上では、断る理由はなかったが、ヒートの時期が近いことはたしかに気になった。
「俺の気持ちの上では問題ない。ただ、サンドラの心配ももっともだから、医官に相談してからの返答でも大丈夫だろうか?」
「それはよいお考えです。お呼びしておきますね」
「ああ、用意をしておく」
メルはそう言って、湯船に浸していた身体を引き上げた。
サンドラに呼ばれてやってきた医官はメルの話を聞き、顎に手を当てて考え始めた。しばらくして、口を開く。
「まずはわたしに相談してくださりありがとうございます。手放しでは許可できませんが、抑制剤を適切に使っていただければよいかと思いますよ」
にこり、と笑って医官は持っていた薬箱から錠剤を取り出して、メルに手渡した。
「これは?」
「今までお渡ししていたものよりもやや強い抑制剤で、空腹でも服用可能です。これまで、アルファと定期的に接する環境ではなかったメル様には十分よく効くかと」
現在メルが服用しているのは非常に弱い抑制剤である。これまでのメルはアルファの遺体と接する機会はあったものの、生きているアルファと接する機会は皆無だった。
アルファとの接触が薬の効きに影響を与えることを、メルはボルガ王国に来てから知った。
「アルファとして非常に強い体質の殿下のそばにひと月もいれば、体質、体調に何らかの変化がでることは免れません。本当はもう少し前からこちらを試していただきたかったのですが、体調に変化出ていないので、すすめることができなかったのです。毎回お訊ねして恐縮ですが、本当になにもありませんか?」
医官に言われてメルは自分の生活を振り返ったが、日常生活において自覚できる変化はなかった。その返答に医官は「不思議ですね」と首を傾げた。
「ある意味ではよいことですが」
「ある意味?」
「はい。わたしのような医官は、主訴を聞いて治療をしますので、訴えがないのは時に困ることがあるのです」
「ああ、そうか。そうですね」
医官が相手にしているのは、もの言う人間――つまり生者であり、メルのように訴えのない亡者を相手にしていた職業とは根本的に立ち位置が違うことを理解した。
「まあ、そうは言っても、わたしが見ている限り、メル様は健康そのものですし、血液検査の結果や脈にも異常もありませんから、明日のお出かけは心配ありません。晴れるといいですね」
医官はにこりと笑って言った。最後の一言は、メルとエイダンを柔らかく言祝いでくれるものであり、メルも「ありがとうございます」と礼を言った。
「では、わたしはこれで。明日のお出かけ後に何かあれば、遠慮なくお呼びください」
「はい」
医官はそう言って頭を下げると部屋を出て行った。部屋にはメルとサンドラだけが残される。
「では、わたくしも殿下にお返事を伝えますね」
「うん、そちらは任せる」
「かしこまりました」
メルの言葉にサンドラは従順な答えを返したが、何やら気になっていることがあるのか、もじもじと指を絡ませていた。
「? なにか、気になることでもあったか?」
「いえ、その……ひと月ほど殿下とお過ごしになって、随分印象が変わったのではないかと思うのですが……メル様から見た今の殿下はどのようなご印象ですか?」
言葉にしづらそうなサンドラの様子を見て、メルは苦笑した。おそらく、エイダンの言葉を伝えに来た従者に探りを入れるように頼まれたのだろう、と察する。まだ十代のサンドラになかなか難しいお題を与えたものだ。精いっぱい言葉を選んでメルに伝えてくれた彼女のためにも、きちんと答えようとメルは思う。
「殿下の印象は、最初から変わらない」
そう答えたメルに、サンドラは不思議そうな顔をした。
「え、そうなのでございますか?」
「ああ。俺の目から見た殿下は、最初から、不器用ではあるけれども、ご自身の信念をしっかりと持っている立派な方だ。こう見えても俺は師父の供として、様々な国で様々な治世者を見てきた。その中でも殿下は立派な方だと思う」
ただ少し生まれがよかっただけであるにもかかわらず、それを鼻にかけるような治世者もいた。正しく、公平であらねばならない立場であっても、わざと天秤を傾けるような裁定をする者もいた。そんな治世者と比べることすら、エイダンに対して礼を欠く行いだとメルは思う。
「――そんな方が世継ぎになる国でこれからも過ごせたらいいと思う」
あえてメルはどの立場で、ということは言わなかった。おそらく、このままいけばメルがエイダンの番になることは、ほぼ決まるだろう。だが、番になったからといって、エイダンの横に立つことを許されるかどうかはまた別だ。
(……国の政治は複雑だから、番のほかに、家柄が釣り合うアルファの后が立てられる可能性だってある)
内心そう思うものの、サンドラには言わない。王宮に勤めている彼女であれはこれくらい知っていることかもしれないが、いたずらに心を痛めさせたくはなかった。その気持ちを知ってか知らずか、サンドラはにこやかにメルの言葉に答えた。
「ええ、わたくしも、メル様に末永くこの国で過ごしていただきたいです」
「前から思っていたが、本当にこの国は他国からやってきた者に寛容だな」
「はい。いろんな国からやってきた方の知識や技術を取り入れて発展してきた国でございますから、この国の者は、感謝と尊敬の念を持って異なる文化を受けれるべしという教育を受けて育つのです」
「なるほど」
だからこそ、メルがエイダンの番候補だと言われたときにも、国から大きな反発はなく、エイダンも態度こそ冷たく見せかけていたが、メル自身に対する嫌悪感を見せることはなかった。祖国とは正反対だ、とメルは思う。しかし、祖国は雪に閉ざされた小さな国だ。他国の侵食を許しては、国の根幹が揺らぐ。
(――要するに、国家としての基盤の強度がまったく異なるのだな)
祖国のものさしで、ボルガ王国の規模をはかるのはやめよう、とメルは思った。メルの決意にサンドラは気づかなかったようで、彼女は立ち上がって、メルに恭しく頭を下げた。
「では、今度こそ、メル様のお返事を伝えにいってまいりますね」
「ああ、頼んだ」
サンドラが部屋を出て行き、部屋に一人になったメルは考える。
(……初めて、殿下と出かけるな)
王宮裏の山があることはメルも知っていた。王宮からも見えるが、実際の山の中がどのようなものなのかメルには想像できなかった。何より、外に出て活動ができるのが嬉しいと伝えたことをエイダンに覚えてもらえていたことが嬉しかった。
(楽しみだ)
なにかを楽しみにする、という感覚はボルガ王国に来て初めて知った感覚だった。そして、誰かのために身綺麗にするというのも初めてである。
(初めてのことがたくさんあるのは楽しいんだな……)
また一つ、師父の手紙に書くことができたな、と思いながら、メルは医官から手渡された抑制剤を飲み忘れないよう寝室の枕元に置いた。