第四話 薄明 - 3/3

 翌日。
 まだ暗いうちに起き出して、支度をしたメルをエイダンとノーマンが迎えに来た。
 エイダンの指定した早朝という時刻はメルが想像するよりも早く、まだ深夜と呼んでもぎりぎり良いのではないか、と思うような時間だった。時間が時間だけにサンドラはさすがに起こすのが気の毒だと判断したメルによって、サンドラは彼女の部屋で休んでいる――要するに留守番である。
 起床してすぐに抑制剤も服用し、眠気が残っていること以外はメルの体調も万全である。まだ眠気の残るまぶたをこすりつつ部屋を出たメルにエイダンは謝罪する。
「早くからすまないな。どうしても、この時間以外では難しくて」
「いえ、殿下がお忙しいのは承知しており……ますし、わたくしも楽しみにしておりましたので」
 途中であくびが出そうになるのをかみ殺しながら、メルは答えた。その様子を見たエイダンが小さく笑う。
「では行こうか」
 そう言って差し伸べられた手をメルは素直に取っていた。

 草が夜露に濡れ、湿った青い匂いがした。メルが祖国でこれを体験するのはごく短い夏のうち、数日だった。夏はメルの仕事が少ない季節だった。それでも、死は避けて通れるものではなく、死を迎えた者がいればメルは弔う。弔いは夜明けとともに終わり、メルは祭儀の間から自室に戻った。その時の匂いとよく似ていた。
(でも、今日の方がずっと爽やかだ)
 胸の中に満ちる空気は、清涼ですっと染み渡るようだった。肺腑に染みる空気が心地よくて、メルは深呼吸をした。
「大事ないか? 速度を落とした方がよいか?」
 メルが大きく呼吸をしていることを心配したのだろうエイダンが振り返った。メルはエイダンの問いかけに「いえ」と首を横に振って答えた。エイダン、メル、ノーマンの順で歩いているため、全体のペースはエイダンが握っている。
「空気が清らかでつい深呼吸をしておりました。ここは良い場所ですね」
 王宮裏の山頂までは、ひと時ほど歩くことになる、とメルは説明を受けた。なだらかな上り坂であるが、しゃべりながら歩くと若干息が上がる。
「ここがよい場所だと思うか」
「はい。空気が澄んで清らかな場所はよい場所だと思います」
 これはメルのありのままの所感でもあり、元呪術士という職業にも紐づく感覚でもある。人の死に接することが多かったメルは、その場の空気に敏感だった。もちろん山という場所である以上、自然と動植物の生死を抱擁する場にはなるが、そのバランスがよく採れているとメルは過ごしやすいと感じる。
「そうか、それはよかった。余も気に入りの場所でな」
「左様でございましたか」
「幼い頃はよくこっそりと抜け出してきたものだ」
「それは……王宮が大騒ぎになったのではありませんか?」
 エイダンの昔話にメルは苦笑しながら訊ねる。答えたのはエイダンではなくノーマンだった。
「ええ、王宮の天地がひっくり返るほどの大騒ぎでしたよ」
「だからその後は貴君に言ってから出かけるようにしただろう」
「私だけではだめです。侍従長のジェームズなんて一時期憔悴しきって見ていられませんでしたよ」
 メルの頭上を飛び交う会話にメルはくすくすと笑った。落ち着いて見えるエイダンにもやんちゃな幼少期があったのだと思うとなんだか腹の底がぽかぽかと温かくなった。きっと、師父もそんな彼と触れ合うのを心のどこかでは楽しんでいたのだろう。
「まあでも、あの時の殿下にとっては貴重な息抜きの時間でしたね」
「世継ぎとしての教育はいやというほどあったからな」
 現女王と亡き番の間には、エイダンしか子がいなかった。したがって生まれたときから世継ぎとして定められていたことが、幼い頃は息苦しかったのだとエイダンは言う。
(それは、そうだろうな……)
 こんな大国の世継ぎ、というのが生まれたときから決まっているのはどんな感覚なのだろう、とメルは思う。
「ただ、それは貴君も似たようなものではないのか」
 メルが養父であるノエに育てられ、その職の手伝いをしていたことはエイダンも知るところである。
「いえ、師父はわたくしに己の後を継げとは一言も言いませんでしたよ」
 だが、呪術士以外に、メルがあの国で生きていくためにできることはなかったというのも事実だ。
(ああそうだ、殿下には俺のしてきたこともきちんと言わなければ)
 図らずも昨日考えていたことを打ち明ける機会かもしれない。メルはそう思いながら、エイダンの後をついて山の斜面を登って行った。

 山頂につくと、まだわずかに日の出まで猶予がある時刻だった。メルの右隣にエイダンが並び、二人で山頂から海にかけての景色を眺める。ノーマンは二人からやや離れた場所で待機していた。
 眺めを遮るものは何もなく、海が見えた。その海に見えるのは、ひと月ほど前に、メルがやってきた港であり、すでに船が何隻か沖合に出ていた。水平線の向こうがぼんやりと明るくなり、夜明けが間近であることを示していた。
「余が一番好きな景色だ」
 夜明け前の静謐な時間に、わずかな潮騒が聞こえる。水平線の向こうの光が、海に淡い青色を与えていた。一年中ほぼ暗い色をしている海しか知らないメルは、その景色に感嘆のため息を漏らした。
「美しゅうございますね」
「貴君の瞳の色によく似ている」
 メルに呼応するようにエイダンが漏らした言葉に、メルは顔を右上に向ける。するとエイダンのエメラルドグリーンの瞳がメルを映していた。
「だから、この景色を見せたかった。余が一番美しいと思っている夜明け前の海だ。この海の色をイノセントペイルブルーと呼ぶ」
「そ、れは……光栄でございます」
 メルが直接容姿を褒められたわけではないのに、顔に血が上るのを感じる。エイダンが一番美しいと思っているものに似ていると言われたことは、言いようのない高揚感をメルに与えた。他人にとって価値あるものにたとえられたことは、メルの人生の中で初めてだった。
「む、これでは伝わらないか」
 だが、メルの反応はエイダンの望むものではなかったらしい。エイダンはメルの手を取り、両手で握りしめた。
「え?」
「これまで、余のもとにやってきた番の候補(オメガ)たちにはこの景色を見せたことはない。貴君だけが、特別なのだ――メル」
 エイダンに名を呼ばれてメルの心臓はにわかに高鳴った。未知の感情だ。生まれて初めて体験するものである。
「余は貴君のことを愛らしい、と思う。慣れない我が国の文化を受け入れようと努力する姿勢も、度胸のよさもすべて好ましいものだ。だから、これからは余の番として隣に立ってくれまいか」
 エイダンから告げられた真っ直ぐな言葉にはメルに、くらり、と眩暈がするような甘美な感覚を覚える。何かを言葉にしようともがくが、すぐに言葉が逃げてしまう。
(せっかく、殿下が言葉を尽くしてくださったのに――)
 エイダンの言葉は飾りではなく、本心からそう告げているのがメルにも理解できた。だからこそ自分の言葉でエイダンの申し出に答えたかったが、ようよう首を縦に振るのが精いっぱいだった。
 メルがうなずいたのを見たエイダンは、顔を明るく輝かせた。表情が明るくなると年齢よりもいくぶんか幼く見え、少年のときの面影を感じさせる。
「――ああ、今日は素晴らしい日だ」
 ふとメルが気づくと、太陽が海から半分顔を出していた。朝のまばゆい陽光が、エイダンのバーミリオンの髪を照らしている。ある種の神々しさを感じさせる姿に、自然とこうべを垂れそうになる。
「メル」
 再び名を呼ばれて、メルはやっとのことで「はい」と返事をする。握られたままだった手をぐい、と引かれて、気づくとメルはエイダンに抱き上げられていた。突然のことに頭が真っ白になるが、すぐにエイダンの声が下から聞こえてきた。
「――よくこの景色を見ておいてくれ。この美しい朝を迎えられる平和な日々が大切なものであると、理解してほしい」
 エイダンよりも少し高い場所から見下ろすボルガ王国は朝日に照らされて黄金色に輝いていた。ところどころ地熱の排熱拠点からのぼっている蒸気までもが、光で染められている。
(――ああ)
 視界が潤む。壮麗さにあふれた景色に揺さぶられる感情を何と呼べばいいのだろうか。涙が出るほど美しい景色をメルは生まれて初めて目にした。
 そしてそれと同時に、真っ白になっていた頭が少しずつ思考を取り戻す。エイダンにメルの身の上の話をしておくならば、今だと直感が告げていた。
「殿下」
「ん?」
 メルを見上げるエイダンと目が合った。メルはこぼれる涙を手で拭いながら、口を開く。
「こんな――こんなにも、美しい景色を見せてくださり、ありがとうございます。胸がいっぱいで……言葉がうまく、出ないのですが……それとは別に、一つお話ししておきたいことがございます。一度、下ろしていただけますか」
 メルの言葉にエイダンは素直に従ってメルを地面に下した。乱れた衣服の裾を軽く直してメルは話し始める。
「殿下は……わたくしの祖国での職について正確なところをご存じですか」
「いや。ノエが就いてた職と同じだということ以外は、多くを知らぬ」
 メルの問いかけにエイダンは首を横に振って答えた。メルは、大きく息を吸い、その息を吐き出す勢いを借りるようにして言葉を発する。
「――わたくしは、呪術士として、ニクス帝国の祭儀の一部である弔祭(ちょうさい)を執り行っておりました」
 ここでちらり、とメルはエイダンを見たが、エイダンの表情から何を考えているかはわからなかった。メルは話を続ける。
「祖国は寒冷地であるがゆえに、幼くして命を落とす子どもが珍しくありません。特に、番を持たないまま亡くなった未成年のアルファは死後安らげないとされ、弔祭にて一晩、わたくしが静かに祈りを捧げます。死後向かうとされているニラエの地で、少しでも安らかにあるようにと」
「……素晴らしい務めであると思うが」
 ここでようやくエイダンがメルの話に口をはさんだ。メルはエイダンにほほ笑みかけたのち話を続ける。
「ええ、殿下はそうおっしゃると思っていました。ですが、問題はそこではないのです」
「というと?」
 けげんそうな顔をするエイダンにメルは静かに告げる。
「祖国では、死は穢れであるとして、避ける傾向にあります。ですから、わたくしのことをよく言うものは祖国にはほとんどおりません。逆に面と向かって悪し様に言うものもおりません。要するに、祖国でのわたくしは、滞りない生活の営みに必要とされながら忌避の対象でもあった、ということです」
「……」
 したがって、メルがボルガ王国に嫁いでも、祖国で祝われることはない。ノエが一人、ひそかに喜ぶくらいだろう。亡命同然で祖国を出てきたことは、メルの中に今でもしこりのように残っている。そこまでエイダンに告げたが、エイダンは顔色を変えることはなかった。
「それでも殿下は、わたくしを番に、とおっしゃってくださいますか」
 メルはぐっと拳を握りしめて視線を足元にやった。先程までは見ることができていたエイダンの顔を見るのが、今は怖かった。裁定を待つ罪人のような心地で、メルはエイダンの言葉を待つ。
 永遠にも思える長い沈黙の果て、ふっとエイダンが息を吐く音が聞こえた。
「そんなことで余の意思は変わらぬぞ」
「……!」
 顔を上げたメルに、エイダンはしたり顔で笑いかけた。
「今は仕方がないことだろうが、貴君はもう少し余の審美眼を信用すべきだ。余は、祖国での貴君を知らぬ。この国に来てから今日まで貴君を見てきて、余の伴侶にたると判断した。それだけのことだ」
 過去のことは特に問題とは思わない、とエイダンは言外にばっさりと切った。そして、とメルに向けて言葉を続けた。
「途中でも言ったが、余は貴君の以前の仕事は非常に貴いものだと思う。すべての民の死はきちんと悼まれ、弔われる必要がある。それを貴君は一手に引き受けていたのだろう」
 エイダンはそう言って再びメルの手を取った。特別綺麗なわけでも、荒れているわけでもない凡庸な手だ。その手をいたわるように、エイダンは自らの両手で包みこんだ。
「祈りをささげるにふさわしい良き手だ」
「っ……!」
「これからも、余と貴君とそれからこの国の発展と泰平を祈ってほしい」
 エイダンの真剣な訴えに、メルは「はい」と首を縦に振った。潤んだ目から涙がこぼれそうになるのを寸でのところで堪えながら思う。
(俺は、誰かにこうして必要だと言葉にして訴えてもらいたかったんだな……)
 番に、と申し出を受けたときよりも、ずっと腹の底がぽかぽかと温かくなった。メルはエイダンの目を真っ直ぐに見つめて言う。
「不束者ではございますが、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」