同日、昼前。
汪幽教が母体になっている【中枢】地区の病院――どちらかといえばホスピスという表現の方が近い――へと到着した浦志と雷山は、この病院で比較的古くから勤めている看護師に話を聞いて回ったのち、医師と話ができるように取り付けた。
古い施設ではあるが、昔の名残なのか立派な応接室に通された二人は顔を見合わせた。普通自警団の人間が来るとなればよい待遇は受けないが一体これはどうしたことだろうか。
すっかり白く薄くなってしまった髪をなでながらやってきた老年の男性医師は、浦志と雷山を来客用のソファに座らせてにこにこと話を始めた。
「ようこそようこそ、なかなか来るのが大変だったでしょう」
最期まで静かに過ごしてもらえるようにわざわざ辺鄙な場所に作ったんだよ、と言う彼に浦志も雷山も毒気を抜かれる。
「それで、何か聞きたいことがあるというお話だったけど、何でしょう。以前は時たま患者さんの話を聞きたいという自警団の方がいらしたこともあるんですが、最近はとんとご無沙汰でしたねえ」
終末期医療を担う場として機能している病院であるため、〈世界を滅ぼす〉大戦前後ではたくさんの人間を看取った場である。当時は駆け出しだったという彼もたくさんの人の死を見てきたのだろう。
「今日は患者さんではなく、こちらの経営母体についてのお話をうかがいたいと思っておりまして」
「うん?」
医師はきょとんとした顔で浦志たちを見つめ返した。
「今は資産家である富美山グループが出資の母体になっているかと思いますが、以前は汪幽教が母体となって運営されたと聞いています。今、汪幽教とはどのようなご関係かを教えていただきたくて」
いつもの口調は封印して浦志が問う。隣に座っている雷山が若干引いているような気配がしたが、浦志はそれを無視した。
「聞いて、どうなさるのかな」
医師は静かに問いかけた。先ほどまでの朗らかさが嘘のような口調に、喉もとにナイフを突きつけられているような気持ちになる。
が、浦志はそれに構わず、きっぱりと伝える。
「大変申し訳ございませんが、それは機密ですので、お伝えできません。ただ、人の命に関係することです」
互いに人命にかかわる仕事をしているためか、この言葉は的確に老医師に刺さったようだった。苦い顔をしながら彼は口を開いた。
「期待されているところ申し訳ないですが、私のような末端の老いぼれにそんな情報は下りてきませんよ。これは誓って本当です。ただ……」
「ただ?」
そこで老医師は一度言葉を切って、じっと浦志を正面から見つめた。
「ここから先は私から聞いた、ということを伏せていただけるならお話します」
「お約束します」
老医師は半信半疑の顔をしつつも、最後は信頼するという意思が勝ったようで、おもむろに話を始めた。
「……最近、新たな医療用麻薬が元汪幽教信者によって開発された、という話を耳にしました。出資元はもちろん富美山グループです」
「これを私たちから言うのはおかしいかもしれませんが、それ自体は特に、問題になるような話とは思えないのですが……」
医師の適切な指導の下で使われるのであれば法的には問題ないものである。ましてここは終末期を看取ることを主としている病院であるため、医療用麻薬を用いる患者がいること自体にも不思議はない。
「ええ、でも問題はそこではありません。医療用麻薬を精製するときの副産物があるそうです」
「副産物」
「はい。私も詳しく製造過程を知っているわけではありませんが、最後の有機合成の過程で二種類生成され、片方は新規の医療用麻薬になって、もう片方は市場には出せないものになる、と」
「なるほど……」
いくつかの製薬会社の工場を訪ねていたが見つからないわけだ、と浦志と雷山は思った。メインでそれを作っているわけではなく、副産物をひそかに活用しようとしている、ということで巧妙に隠されていたのだろう。
「あの、僕からも一つお訊きしたいことがあるんですが」
恐る恐る口を開いた雷山に老医師は「なんでしょうか」と穏やかに答えた。
「先程おっしゃっていた元汪幽教信者の名前をご存じですか」
雷山の問いかけに老医師は首を横に振った。
「いえ、残念ながら私は知りません。私はここで長いこと働いていますが、私自身は汪幽教徒というわけではないんですよ。ただ、汪幽教の理念に共感しましたし、経営母体が移管されてからもそこが変わらなかったのでこの年まで勤めましたけどね」
汪幽教の理念は『すべての人に幸福な生涯を』というものである。今でこそ善良かつ一般的な理念であるが、汪幽教が設立された当初は珍しい理念だった。
「そうですか。お話いただき、ありがとうございます」
「いえ、私もこの先長く勤める年齢ではありませんし、互いに人命を背負うものとしてお力になれるなら何よりです。あなたたちの仕事は失われるかもしれない命を救える仕事ですから」
「……それは、」
自分を下げるような響きを感じ取った雷山が口を開きかけたが、老医師はそれを片手で制した。
「もちろん、私も自分の仕事に誇りを持っておりますよ。誰もが穏やかな最期を迎えられるよう尽力することが私には合っていた」
「ええ、わかりますよ」
浦志の言葉に今度は老医師が意外そうな顔をした。
「先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんけど、私も以前こちらに足を運んでいたことがあったんですよ」
「おや、そうでしたか……覚えておりませんで、申し訳ない限りです」
「いえ、本当に短い間でしたので、無理もないことです。ただ、おかげで私の身内は苦しまない最期を迎えることができました。改めてありがとうございます」
頭を下げる浦志に老医師は慌てて両手を振った。
「私どもは当然のことをしただけですから」
「ええ、先生はそうおっしゃると思いました。でも、それが私たちにとっては非常に大きなことなんですよ」
浦志はにっこりと老医師に向けて笑いかけた。職務上必要な笑顔ではなく、心からの笑顔であることが全員に伝わるような笑顔である。
「では、お忙しいところお邪魔しました」
「いえ、こちらこそ。ご苦労様でございました」
お見送りは結構です、と言えば老医師は「ではお言葉に甘えまして」とその場で頭を深く下げた。
「どう思った? あの人、嘘言ってるように見えた?」
応接室から廊下に出てすぐに浦志は雷山に訊ねた。雷山は少し考えたのちに、
「言っていないことはあるかもしれませんけど、話してくれたことに嘘はないと思いました」
と答えた。そして「浦志さんはどう思ったんですか?」と訊ね返す。
「毎回言うけどアタシのことはマコちゃんって呼んでよね……まあいいわ、アタシも基本は雷山と同意見よ。何かはわからないけど、言ったことに嘘はないと思うわ。でも、一つだけ調べた方がいいと思ったことがあったの」
「なんです?」
「汪幽教徒じゃないって言ってたところ。アタシたち相手にしょうもない嘘をつくとは思わないけど、あれだけは本当かどうか確かめた方がいいんじゃないとアタシは思うわ」
「何か、思うところがあるんですか?」
雷山の問いかけに浦志は「ええ」と答えた。
「さっき言ったとおり、アタシの身内にはもともと汪幽教の信者がいて、最期をここで過ごしたのよ。……詳しい話は本部に帰ってからしましょ」
ここじゃアタシたちが目立っちゃうわ、と言って浦志は話を切り上げた。目くばせをされた雷山も浦志が何を言わんとしているか察して後ろを振り返る。二人の後ろには、小柄な看護師が立っていた。
「あの、」
「何かしら?」
彼女はぎゅっとスクラブがしわになるほど強く握りしめており、緊張していることが見て取れた。何か話したいことがあることはあるものの、話すのに勇気がいることであると容易に察しがついた。
「わた、わたし、知ってるんです。例のあれをどこで作っているか」
蚊の鳴くような小さな声で言う彼女に、二人は一瞬顔を険しくしかけたが、すぐに取り繕った。ここで彼女に話を続けさせるわけにはいかない。
「ありがとう、ちょっといいかしら?」
浦志はそう言って自分の胸元から名刺入れを取り出した。外に出るときには必ず持ってきているものだが、今日ほど名刺の存在に感謝した日はなかった。
「これあげるわね。ここじゃ難しい話もあるでしょうから、個別に連絡もらえるとアタシたちも助かるわ」
「……はい」
「話は絶対に聞く。でも、あなたの立場もあるでしょうから、安全なところで話してちょうだい。絶対よ」
真剣な浦志の表情に看護師はこくん、と首を縦に振った。彼女の職場で、職場や上司を裏切るような話をさせるのは得策ではないと踏んでの判断だったが、間違ってはいないだろう。
「明日、休みなのでそちらに行きます」
「ええ、待ってるわ」
彼女は最後まで囁くような声で言った。彼女自身も大きな声でする話ではないとよくよく理解しているのだろう。
「気をつけてきてね」
ようやっと横から口をはさんだ雷山に看護師は驚いたようだったが、動揺をすばやく静めると二人に頭を下げて去っていった。
「……浦志さん、」
「ややこしくなりそうな案件引いちゃったわねー……」
二人は顔を見合わせて思わず肩を落とした。嘆くのは己の上官が引く事件の複雑さであった。