三、
満碧が菊名橋家にやってきてひと月が経った。勤めから帰ってきた汀夏に対して呪いの浄化を行う以外は、平穏な日々が続いている。生まれてこの方、自らの能力を使ったおつとめばかりしていた満碧からすると、それはとても新鮮だった。加えて実家のように誰かに蔑まれたり、こけにされたりすることもない。心が凪いでいることが、こんなにも幸福であることを初めて知った。
ふと入籍届を書いて、汀夏に渡した日のことを思い出す。勤めから帰宅した汀夏に書類を差し出すと、ふっとその場の空気が柔らかくなり、満碧は心の底から安堵した。汀夏は本当に満碧を受け入れてくれる心づもりがあったのだと。
「満碧」
部屋で本を読みながらくつろいでいると汀夏が顔を出した。平日は仕事用の洋装でいる汀夏だが、休日は和装でいることがほとんどだった。今日は濃い縹色の単衣を身に着けていた。
「はい、なんでしょう」
満碧は本にしおりをはさんで閉じた。
「中央街まで出かけないか。以前アイスクリームを食べてみたいと言っていただろう。今日は暑くなりそうだから、食べるにはいい日だと思う」
「! よいのですか?」
このひと月、ほぼ毎夜浄化の儀式を行う中で、満碧と汀夏は少しずつ互いのことを話した。満碧が話すのは家での他愛もないことであり、汀夏が話すのも通勤途中の他愛もないことである。汀夏の場合は職務上の話をするわけにもいかないという事情もあるが。
その中で、満碧はぽつりと「外で食べてみたいものがあるのです」と汀夏に打ち明けていた。奇異な容姿が人目を引いてしまうため、外出に積極的ではない満碧だが、新聞に載っていたパーラーの広告に心が躍った。なによりその話を汀夏が覚えていてくれたことが嬉しかった。
「もちろん。支度をしておいで」
「はい」
満碧はわくわくと心を弾ませながら、藤世を呼んで身支度を始めた。外出するとなれば、満碧は普段は下ろしている髪を結いあげる必要がある。前髪を上げ、結い上げてまとめた後ろ髪を帽子に入れ込んでしまえば、目を引く要素はほとんどなくなる。
「満碧様、こちらをお忘れですよ」
そう言って藤世は満碧に黒眼鏡を差し出した。黒眼鏡といってもレンズは深茶色であり、満碧の瞳の色を上手に隠してくれた。外出に消極的な満碧のために汀夏が購入したものである。最初はこんな高価なものをいただくわけにはいかない、と固辞したが「私が貴殿と出かけたいから受け取ってほしい」と押し切られて受け取ってしまった。ただ、今となっては贈られたことに感謝の意しかない。ガラス製のレンズは重たく、ずっとかけていると頭痛がするが、短時間の外出であれば問題なく装着できた。
「せっかくお美しいのに隠してしまわれるのはもったいのうございますねえ」
藤世は頬に手を当てて物憂げに言う。満碧はそれに苦笑で返した。
「そう言ってくれるのは藤世さんたちだけです。世間様からするとおれの容姿は不気味なのですから」
「そうですかねえ……」
まだ納得がいかない、と言いたげな藤世に、汀夏を待たせてはいけないから、ともっともらしいこと言って満碧はその場を強引に切り上げた。
玄関で満碧を待っていた汀夏は、満碧の姿を見ると、わずかに口角を上げた。あまり感情を表に出すのが得意ではない、というのは本人の談だが、実際は結構わかりやすいのではないかと満碧は思っている。
「行こうか」
汀夏の言葉に満碧はうなずいて隣に並ぶ。最初は半歩後ろを歩こうとしたが、汀夏に堂々と私の横を歩くべきだと言われて以降は素直に隣に並んでいる。
中央街までは、大人の足で歩けば二十分程度でたどり着く。少し歩いて汗ばむくらいの方が美味しくアイスクリームを食べられるのではないかというのが二人で出した結論だった。
休日の昼下がりの中央街のパーラーには見るからに高い装いに身を包んだ男女ばかり集っていた。周りに馴染めているだろうか、と満碧は思わず自分の膝に視線を落とす。すると、すぐさま汀夏から声がかかった。
「堂々と顔を上げていなさい。貴殿は正当にここにいるべき権利を有しているのだから」
「は、はい。申し訳ございません」
慌てて背筋を伸ばすと、満碧は汀夏を真正面からとらえることになる。パーラーの机は菊名橋家の食堂や汀夏の部屋に置かれている机より小さく、いつもより汀夏との距離が近い。
(やはり端正なお顔だ……)
短命の呪いにある、という背景がなければ誰もが放っておかないだろう人なのに、と満碧は思う。その視線に気づいたのか、汀夏が満碧に目を合わせた。
「私の顔に何かついているか?」
「いえ……その、いつもよりお顔が近いなと思いまして」
まさか正直に見とれていましたとは言えずごまかした満碧だったが、汀夏には見透かされているような気がする。
「そうだな。いつもより貴殿の顔が近く見える。黒眼鏡がなければもっとよいと思うが」
「あまりからかわないでください」
もう、と満碧が文句を言ったところで、ガラスの器に乗ったアイスクリームが給仕された。丸く形を整えられたバニラアイスクリームの上にはミントが添えられており、ほんのりとすっきりした香りがする。
「これがアイスクリームなんですね。素敵ですね」
白黒の新聞広告からは色を想像するしかなかったが、このような色なのか、と満碧は思う。白いアイスクリームにミントの緑がすっきりと映える。アイスクリームを匙ですくって口に運ぶと冷たさと甘さが広がった。そして最後には鼻に牛乳の香りが抜ける。今日のような蒸し暑い日にはぴったりだった。歩いて火照っていた身体にしみいる冷たさに満碧は感嘆のため息をつく。
不意に汀夏がぼそっと言った。
「貴殿に似ているな」
「え、……あ、色ですか?」
満碧が訊ね返すと、汀夏はうなずいた。確かに色の系統としては満碧の髪と目の色に似ている。だが、食べ物に容姿を例えられたことがないので、おかしくなってしまった。
「ふふ、汀夏様にはおれがこんな可愛らしい食べ物に見えるのですか?」
「……気を悪くしたか?」
「驚きましたけど、悪い気はしません」
こんなに素敵な食べ物に例えてもらえて光栄だと満碧は思った。
「とても美味しゅうございますね。連れてきていただいてありがとうございます」
「ああ、これからも遠慮なく言ってくれ」
これからもという言葉に満碧はハッとする。汀夏はあまり先の約束をしたがらない。せいぜいひと月先であるが、今はっきりと期間を区切らない言葉で、将来のことを表現した。少しでも汀夏の気持ちが未来に向いていてほしいと願っていた満碧にとっては、とても喜ばしいことだった。
「これからも、ねえ」
そんな満碧の舞い上がった気持ちに水を差すような意地の悪い声が上から降ってきた。ハッとして顔を上げると、パリッとした洋装に身を包んだ紳士が一人、満碧と汀夏の卓の横に立っていた。洋装を着こなしている姿は都会的である。
「早瀬川殿」
汀夏は相手の名を呼んだ。その声には確かに彼の無礼を咎めるだけの力がこもっており、満碧はわずかに身構えた。
「おや、失敬。面白い会話が聞こえたのでついね。そちらは?」
大仰にアクセントをつけた言い方に、満碧は内心あまりかかわりあいになりたくないな、と思った。嫌味を言うときの母や妹の姿を思わず重ねてしまう。
しかし、汀夏は気分を害したそぶりを見せず、穏やかに言う。
「伴侶の満碧だ。満碧、こちらは私の同僚の早瀬川公一殿だ。帝都大学の同窓でもある」
早瀬川、と呼ばれた男は汀夏から満碧に視線をやった。目が合うのが怖くなり、満碧は思わず目を伏せそうになったが、そのまま顔を上げ続ける。
「ご挨拶が遅れました。菊名橋満碧と申します。旦那様がいつもお世話になっております」
満碧の挨拶にああ、と早瀬川は合点がいった様子だった。ちらり、と汀夏を見てから、彼は爆弾のような一言を放った。
「――松白家から金で買った伴侶か」
その瞬間、思わず満碧は椅子から立ち上がった。ガタン、と大きな音がして椅子が後ろに倒れかけたが、それに気づかないほど満碧は全身を怒りに震わせていた。はくはくと息を吸っては吐くことを数回繰り返し、やっとのことで声を上げる。
「それは、違います。旦那様を侮辱するのはやめてください」
ドクドクと全身を血が巡る。握りしめた拳が真っ白になっていた。汀夏が満碧の実家に金を払ったのは事実だが、満碧自身は金で買われたとは微塵も思っていない。満碧も、汀夏もまとめて辱める暴言だった。
「満碧」
汀夏の涼やかな声に名を呼ばれて満碧は我に返る。店中の客の注目を集めていることに気づいて、満碧は慌てて椅子に座り直した。
「も、申し訳ございません、お騒がせしました」
頭を下げる満碧に「頭を下げる必要はない」と汀夏は声をかけ、早瀬川をじろりとにらんだまま立ち上がる。立ち上がると汀夏の方が早瀬川よりも頭半分背が高かった。
「貴殿が私を目の敵にするのは構わないが、伴侶までも貶すのはやめていただこう。ましてここは皆の憩いの場だ。これ以上のいさかいはご免被る」
満碧、と汀夏に名を呼ばれて、満碧はばね仕掛けの人形のように立ち上がった。
「私たちは帰らせてもらう。行くぞ」
汀夏が差し出した手を満碧は自然に取っていた。その場に残された早瀬川は、呆然としたままだったが、最後に負け惜しみのような声をよこした。
「そんなのに尽くしたところで、無駄だぞ。人生よく考えた方がいい」
そんなことはない、と反論したかったが、口を開く前に汀夏が満碧の手を強く引いた。