第三話 氷菓子の行方 - 3/4

 店を騒がせてしまった詫びを兼ねて、少し多めの支払いをして店を出る。店主は恐縮しきっていたが、汀夏が強引に受け取らせた。不本意な出費ではあったが、役人がいざこざを起こしたまま詫びもしなかったと噂になっては困る。
 何を言うこともできず、二人は家までの間、無言で歩いた。汀夏に手を引かれるまま、満碧も歩く。汀夏の手を放すことはできなかった。
「……すまなかった」
 家の敷地内に入ったところで、ようやく汀夏が口を開いた。謝罪の声に思わず満碧は立ち止まり、そのはずみに握っていた手が放れる。
「汀夏様に謝っていただくことはありません。おれの方こそ我慢がきかなくて申し訳ございませんでした。それにしても……」
 満碧はちらり、と後ろを振り返る。
「あの方はなぜあのように汀夏様に対して、敵意を向けているのです?」
 敵意、と満碧は言い換えたが、憎悪とでも言うべき強い負の感情を感じた。よほど何か強い確執が二人の間にあるとしか思えない。そう思って訊ねた満碧だったが、汀夏の返事は珍しく煮え切らないものだった。
「私から早瀬川に対して思うことは、ほぼないのだが……」
「はい」
「帝大時代からの付き合いだと言っただろう? 卒業時の首席は私だったが、次席は早瀬川だった。まあ……それまでの試験類も大体はその順だったために、何かと張り合おうとされるな」
 疲れた顔で言う汀夏に、満碧は「それは大変でございますね」と月並みな言葉をかけることしかできなかった。早瀬川は汀夏と肩を並べたいと思っているのだろう。しかし、先ほどの発言を思い出すとそれは到底かなわないのではないかと満碧は思った。わざわざ汀夏の身の上を揶揄するような発言で貶そうとする神経が理解できない。それなのに汀夏は「そういう理由なので、早瀬川も根っからの性悪というわけではない。許してやってくれ」などと人のいいことを言う。
 いつもの満碧ならば、従順に汀夏の言うことに頷いただろうが、今日はどうにも言うことが聞けそうになかった。腹の底がぐらぐらと煮え立つような、そんな感覚が収まらない。
「いやです」
「満碧?」
 初めて汀夏の言葉に反論した満碧に、汀夏は動揺したまま満碧の名を呼んだ。
「許したくありません。いくら、汀夏様のことがうらやましくとも、あんな、卑劣なことを言うなんて!」
 気がついたときには、満碧はしゃくりあげながら、早瀬川の発言を糾弾していた。

 目の前で憤慨し、涙する満碧を見て、汀夏は当惑していた。満碧は自分自身に言われたことに対してではなく、汀夏に対しての発言に怒っている、ということが汀夏には衝撃だった。汀夏自身は早瀬川の言動にすっかり慣れきっており、今日の発言も多少不愉快ではあったものの、満碧を揶揄したこと以外は特に気にしていなかった。
 早瀬川も気の毒な人間だと汀夏自身は思っている。先行きが短い汀夏に何をしても勝てず、必死に張り合おうとする姿が滑稽だとすら思う。汀夏が儚くなった後にいくらでも彼はその才能を発揮する機会があるのだから、と。だが、その考えも、改める必要があるかもしれない、と汀夏は思った。
「すまない、貴殿にそんなに怒ってもらえるとは思っていなかった」
「どうしてですか」
 黒眼鏡の奥から燐葉石の目が汀夏を射抜く。どんな嘘もごまかしも通用しない気がして、汀夏は正直に自らの気持ちを口にした。
「早瀬川の言うことも間違いではない。彼の言い方はよくないが、私が未来の約束をするのは貴殿に対して無責任であるし、貴殿の家に金を払ったのも事実だ」
「だから、それを咎められても仕方がないと、汀夏様はそうおっしゃるわけですね」
 満碧の淡々とした確認に、汀夏は背筋に冷たいものがはしるのを感じた。いつも清浄で軽やかな風のような満碧が、嵐の前の静けさのような重たい空気をまとっている。
 満碧の確認を肯定するのは得策ではないと一瞬頭の隅によぎったが、もうどうにでもなれ、と汀夏は開き直って肯定した。
「そうだ。起きたことは覆せない。だから私はそれを受け入れる」
「それが、ご自身の死であっても?」
 今日の満碧はどこまでも汀夏を逃がしてくれなかった。満碧の追及に答えるにふさわしい言葉を汀夏は持ち合わせていなかった。燐葉石の目は揺らぎながらも、汀夏を見つめている。
 しばらくの間、その場には重たい沈黙の空気が満ちる。出迎えようとしてくれた使用人たちも二人の間にある異常な空気を察して身を隠していた。
 ふぅ、と小さく満碧が息を吐いたことで場の空気がようやく重苦しさから解放された。
「……出過ぎたことを申しました。申し訳ございませんが、今日はこのまま休みます」
 ぺこり、と頭を下げて満碧は家の裏手に回っていった。勝手口がある方だ。満碧の部屋は勝手口からの方が近く、汀夏と一緒の道を通ることもない。満碧なりの気遣いであることもわかって、汀夏はがっくりとその場に膝をつきたくなった。
(……せっかくの外出だったのに)
 アイスクリームを口に運ぶ満碧は、幸福そうだった。その顔を少しでも長く見たいと願っただけだったが、それがいけなかったのだろうか。
(先のことはなるべく口にしないようにしていたのに、口にした瞬間これだ)
 己の言動を悔やみながら、汀夏はのろのろと家の中に足を踏み入れた。全身が鉛になったかのようにひどく重たかった。