第三話 氷菓子の行方 - 4/4

 その日、夜も更けてそろそろ眠ろうかと言った時分になって、満碧の部屋に外から声がかかった。
「まだ起きているだろうか」
 汀夏の声に満碧の心臓はドキリ、とにわかに跳ねた。昼間のあれこれを思い出して満碧はサッと血の気が引くのを感じる。あの時は怒りと悔しさがないまぜになって、半ば八つ当たりのように汀夏の前で感情を爆発させてしまった。時間が経って、冷静になってみるととんでもないことをしでかした、という後悔だけが残った。
(――一家の主にあんなことを言うなんて、絶対に折檻されるに決まってる)
 満碧が返事もできないまま、ぎゅっと身を縮こまらせていると続けて「襖は開けなくていい。少し話をしよう」と声がかかった。汀夏には申し訳ないが、顔を合わせなくていいというだけで満碧は心の底からホッとした。
「昼間はすまなかった。不愉快な思いをさせてしまったな」
 その謝罪に満碧は違和感を覚える。不愉快な思いをしたのは確かだが、満碧が最後に怒った理由はそこにはない。汀夏が自身の死をあんまりにも当然に受け入れているところに憤ったのである。
(汀夏様は本当に理解されていない。帝都大学を首席で卒業なさった方にもおわかりにならないことがあるんだ)
 そう思うと先程まで怯えていたのが嘘のように、気持ちが軽くなった。そのまま、自分の気持ちを汀夏にどうしたら理解してもらえるかと考えながら口を開く。
「汀夏様、正直に言いますとおれは、不愉快な思いをすることに慣れています。この家に来るまでは、そんなことばかりでしたから」
「……」
 満碧の言葉に汀夏の気配がやや尖ったのがわかる。
「今、おれの話を聞いてどう思われました?」
「……不快だ。貴殿が貴殿のこれまでの不幸を受け入れようとするのを私はよしとしたくない」
 ああよかった、と満碧は胸をなでおろした。言動の端々から満碧を大切にしてくれようとする汀夏には、こう訴えるのがよいのではないかと思った結果がまさにはまった。
「――そのお気持ちです。おれもあなたに対して全く同じことを思っているのですよ。汀夏様の場合は、過去ではなく未来をよしとされていますが、おれはそれが嫌です」
 満碧がそろり、と襖を数センチ開けると、汀夏の背が見える。驚いて振り返りかけた汀夏を押しとどめ、満碧はそのまま言葉を重ねた。
「この家に来たことで、おれは未来と希望を得ました。だから、その恩を解呪という形でお返ししたいのです。できることがあれば挑戦したい。あなたが許してくださる限りで」
 そう告げた次の瞬間、襖が勢いよく開いて、満碧は強い力で汀夏に抱きすくめられていた。
「え、あ、あの……っ!」
「すまない、少し、このままで」
 ぎゅう、と力を込められて、満碧もおずおずと汀夏の背に手を回す。しばらくそのまま抱きしめられている力がふと緩んだかと思えば、ぽつん、と汀夏がつぶやいた。
「休みが明けたら、一緒に職場に来てくれるだろうか」
「え、神祇省に、でございますか? 俺が行くような場所ではないと、思うのですが……」
 加えて今日揉めた相手とも顔を合わせる可能性がある。再度の衝突は避けたかった。
「いや、貴殿にこそ来てほしい。解呪に向けて曾祖父の代から引き継がれている文献があるが……私だけでは理解しきれない」
 汀夏の言葉に満碧は当惑する。帝都大学を首席で卒業するような人間に理解できない感情はあっても、文献がこの世にあるのだろうか。
「そ、れは……おれが行っても役にたたないのではありませんか。以前も申しました通り、小学校もろくに出ておりませんので……」
 懸念を口にした満碧に汀夏は「学識の有無ではなく」と前置いた。
「いや、呪術を行使する立場からでないと理解できない点があるが、それを私は理解できない」
「そういうことでしたら」
 できることがあれば挑戦したい、と申し出たのは満碧自身である。自分から言った手前、取り下げるわけにもいかなかった。
「ありがとう。ああ、もし早瀬川殿と会ったとしても、特に気にする必要はない。職場では品行方正に振舞う男だからな」
「……それはそれは」
 なんとも小心なことでございますね、と評した満碧に、汀夏は笑った。
「外面がいいとも言うな」
「気にしてもしょうがないお相手だということがよくわかりました。汀夏様のお顔を立てられるように頑張りましょう」
 満碧が冗談めかしてそう言うと、汀夏は笑んだまま満碧の髪を撫でた。どちらともなく初めて重ねたくちびるは、しっとりとして熱く、柔らかだった。