「ねえ、松本さん」
「ん?」
隊舎で二人が過ごす最後の夜だった。ここ数日は仮眠室に二枚の布団を敷いていた。布団にもぐりこんだあと、シュウが声を潜めて話しかけてきた。
「松本さんは、なんで、ここに入ろうと思ったの?」
「……興味ある?」
「うん。まともに働いてる大人を知ったの、初めてだから」
「はは、そっか」
松本は笑って、シュウの方を向いた。シュウは暗がりに目が慣れるのが早い。暗闇の中でも、松本のハシバミ色の目は美しく輝いていると思った。
「端的に言えば、ここしかなかったから。ここでやりたいこともあったし」
「やりたいことって?」
「それは秘密。あと、俺の体質の話したよな」
「うん」
大きな音、強いニオイと光に弱い。人よりも見えすぎる、聞こえすぎる、わかりすぎる――そんな体質だから、ずいぶんと苦労をした。
「でも、俺を養ってくれた人は、それを活かせる場所があるって言った」
「やし……?」
「ああ。世話をしてくれた人」
松本が言い直すと、シュウは理解したようだった。
「それで養成機関を出たあと、ここに入って十年近く働いた。きついこともあったし、どうしようもないこともたくさんあった。でも、今は俺の能力を買ってくれた人がここにいて、お前の人生の手助けもできてる」
結果、適職だったのかもな、と松本はつぶやいた。
「テキショク?」
「あー、ふさわしい職業。俺にあってたってこと」
働いてみないとわからないこともあるからな、と松本は言う。
「あの、おれも、」
「おれも?」
「おれも、ちゃんとやり直せたら、ここ、入れるかな」
そう訊ねたシュウは今までで一番不安そうな声をしていた。前科がつくことの心配をしているのか、と松本は勘づき、布団から腕を出してシュウの身体を布団の上からポンポンと軽くたたいた。
「きっと、入れるさ。お前は、きっと、弱いものの味方になれる」
「……そうかな」
「今、お前がやりたいと思ったことを、やれるようにしっかりがんばってこい。なるべく、俺もここで待ってる」
「なるべく?」
「安全な仕事じゃないからな」
できない約束はしないんだ、と言った松本に、シュウは言葉を詰まらせる。
「うん、わかった。それでも、おれはがんばってみる。いつか、松本さんと働けたら、いいな」
「ああ」
たった数日、一緒に過ごしただけなのに、こんなにいいものをもらっていいのだろうか。
そう思いながら松本はシュウに「ありがとう」と告げた。意味がわかっていないだろうシュウに、今は分からなくていいんだと付け加えて、今度こそ目をつむる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
○
翌日、シュウは司法関係者と書類を作成して〈アンダーライン〉の隊舎を立ち去った。深々と頭を下げていった彼に、松本は「がんばれよ」と一言だけ声をかけた。
松本の仕事としては、〈ミドルライン〉への引継ぎ資料の作成が終われば終了となる。警邏の合間にぽつぽつと資料をまとめていると、隊長会議から戻ってきたのだろう六条院の足音が聞こえて顔を上げる。まだ遠くのそれに、出迎えには早いなと判断して、少しだけ待ってから第三部隊隊舎の扉を開けた。少し驚いたような顔の六条院が松本を見つめた。切れ長の目がパチパチと瞬く。
「おかえりなさい」
「いい耳だな」
笑みを含んで言った六条院を隊舎の中に入れ、松本は「ありがとうございました」と声をかけた。六条院が不思議そうな顔をしたので、松本は慌てて言葉を足した。
「あの、あいつ、シュウを隊舎で保護してやれて、よかったです」
おかげできちんと保護厚生施設まで紹介してやることができた上、いつか一緒に働けたら嬉しいという最上級の言葉までもらっている。あのまま、元の労働生活に戻ったり、口封じに命を奪われたりすることがなくて本当に良かった。
「ああ」
なんだそんなことか、と言わんばかりの六条院に、松本は訊ねる。
「あの時、どうして許可してくれたんですか?」
「初めに言ったぞ。部下を援護するのがわたしの仕事だと」
「それは、そうなんですけど」
松本自身もかなり無理を通した自覚はある。
「通常であれば、隊舎に一般人をいれることはない。今回はかなり稀なケースであることは頭に入れておけ。今後はそなたの権限で、証人や被害者の保護ができるが、その場合は別に設けられた施設になる」
「はい」
「今後同じようなことがあったとしても、絶対に自宅には連れて帰るな。……そのあたりの判断ができていたからこその今回の隊舎という選択だとは思うが」
それが保護した人間にとって不利に働くことになる、と六条院は言った。ただ、今回は、保護施設に入れるよりも隊舎で多くの人間に触れあわせた方がいいという判断があったため、特例で隊舎に入れることができた。
隊舎で数日を過ごしたシュウに周りの大人は至極普通に接した。戸惑いつつも、楽しそうに過ごしていた彼の姿を遠くから六条院は見ていた。おそらく自らの出自を気にして直接は声をかけなかったのだろう、と松本は気づいていた。六条院自身にそのつもりがなくとも、相手が委縮する様を松本はこの一週間で何度も見ていた。
「それで、隊長。肝心の俺の質問に答えてもらってないですが」
「……ごまかされてはくれぬか?」
「命令でしたら、従います」
ずるい言い方をした自覚はあった。だが、六条院は松本の言葉に気を悪くした素ぶりも見せず、肩をすくめただけだった。
「わたしの個人的な感傷だ。わたしも狭い世界しか知らず、漠然とそこで生きて死にゆくのだと思っていた」
六条院はここで一度言葉を切ると松本を見て柔らかく笑んだ。見とれるほどのそれに、松本は思わず目を見開く。この人は、こんなにも柔らかい表情をするのか、と思っていると再び六条院は口を開いた。
「ここも決して広くはない世界だが、それでも闇の中にいた子どもに明るい世界を見せたいと、そなたの話を聞いてわたしもそう思った」
「……」
松本の脳内で初日に櫻井と交わした言葉がよみがえる。――あの人は、【貴賓】地区を出たかった人なんじゃないかと思うんですよ。図らずも今、その言葉が真実だと肯定されてしまった形になる。
「松本」
六条院は、松本の手を取った。見た目に反してその手はひどく熱かった。この人の熱をしっかりと覚えておこう、と松本は思う。
「これからも、よろしく頼む」
「はい」
「そなたに救われる人間が、きっとたくさんいるはずだ」
――わたしでは、救ってやれなくとも、きっと。
祈るようにかけられた言葉に松本はただ一言、「俺にできる範囲で、尽力します」と返すことしかできなかった。
○
シュウを見送った日から二週間後、松本の耳に無事、密採掘をしていた少年たちが保護されたというニュースが届いた。彼らもシュウと同じように、司法による罰はなく、保護厚生施設で再起をはかることになる、と追加の情報を聞いて、松本はほっと息を吐いた。
残る松本の慣らし期間は一週間。最後まで残ってしまった仕事は新しい家探しだった。
「副隊長、家まだ決まらないんですか?」
顔を合わせるたびに櫻井には叱咤を含んだ声で訊かれるが、斡旋物件はすべて松本ひとりが暮らすには広すぎる。元々、幹部になるような年齢の人間には家族がいることが多いため、ファミリータイプの物件が斡旋のメインになっているのが原因だ。
「俺には広すぎるんですよね。もっとこう、こじんまりしてるところがいいんですけど。それこそ仮眠室に住みたいです」
だめもとでわがままを言ってみるが、間髪入れずに、
「だめです」
と櫻井は松本を叱った。そして一枚の紙を渡す。
「なんですか、これ」
「単身者向けの斡旋住宅です。ただし、単身者向けですから、隊長と同じ集合住宅の一室です。それでもよければ」
「……なるほど」
集合住宅のため、ある程度の部屋数があるようだった。上下左右であれば気まずい思いをするかもしれないが、そうでなければ悪くない提案だった。
「――フラグ立ってたりして」
「はい?」
「あ、いえ、こっちの話です。すごく助かるので、ここに決めます」
「そうですか! それはよかった」
櫻井は申込書も一緒に持ってきていたようで(さすがだと松本は感心した)、さらさらと松本は所属、氏名、年齢を記載した。印鑑はかなりの場所で使用されなくなったが、住居契約などには未だに使用されるので、松本は机の奥から印鑑を引っ張り出して捺印する。
「はーこれでようやく櫻井さんからつつかれる生活ともおさらばですね」
「俺もようやく肩の荷が下りました。おまけに隊長のお隣に人をいれられない問題も解決しましたし」
櫻井の言葉に松本は一瞬、動きを止める。
「は?」
「いや、総務から頼まれていたんですよ。一応ここの隊長ですけど、一般人とは言いきれませんし、素性の知れない人間は隣に入れられなかったんです」
こんなにすぐにフラグが回収されるとは思ってもみなかった。妙に手際がよいと思ったら、そういうことだったか、はめられた、と松本が悔やんでいる間にも、櫻井は上機嫌で紙を回収してファイルに挟み込んだ。
「入居は金曜日から可能だそうですので、どうぞ金曜日の夜から移ってくださいね。ロックは共用玄関と自室の二か所で、どちらも虹彩登録で入れます。詳しくは冊子に書いていますので読んでくださいね」
はい、どうぞと言って櫻井は松本に『入居のしおり』と書かれた冊子を渡した。
「用意周到が過ぎませんか」
「準備万端と言ってください」
新居決定おめでとうございます、とにこやかな笑顔で宣言され、松本は冊子を渋々受け取った。
「隊長がお隣だと何か不都合があるんですか?」
真顔で訊ねた櫻井に松本は首を横に振る。
「ないですけど、ちょっと気まずいじゃないですか」
「それはここ三週間の隊員たちも同じです」
「隊員たちは一か月の我慢ですけど、俺はこれからしばらくですよ!」
「いいじゃないですか、帰宅時間ずらしたら。これ以外に斡旋できる部屋ないですし、探す時間とれるんですか?」
櫻井の言葉に松本は「無理です」と答えるほかなかった。櫻井は満足そうに息を吐くと「では俺はこれを総務に出してきますので」と言い残して部屋を去っていった。
「……まあ、いいか」
最終的に慣れるしかないのだ、と自分に言い聞かせて松本は手元の冊子を見つめた。
とりあえず、仮眠室に置いている荷物を片付けておこうと、ため息をつきながら松本は立ちあがった。
【第一話 フローライト】
Next>>>登場人物紹介